【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇

新撰組局長として誰もが思い描く名は近藤勇だと思います。

2004年の第43作NHKの大河ドラマ「新選組」の主人公ともなった余りにも有名な人物であるため、新撰組は近藤勇が1人で作った組織であるかのように思われがちですが、実は違います。

初代新撰組(壬生浪士組)の初代筆頭局長は、芹沢鴨(せりざわかも)という人物であり、近藤勇はこの芹沢鴨を粛清して新撰組のトップになっています。

本稿では、近藤勇が新撰組のトップのなるに至ったこの芹沢鴨の粛清劇について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇” の続きを読む

【平安京の朱雀大路】京の都のメインストリートの現在を歩く

平安京のメインストリートといえば「朱雀大路」のはずです。

遷都時に、平安京中央を南北に縦断する形で設置された道路幅84mとも言われた大通りです。

もっとも、平安京の右京が衰退して平安京の機能が左京に移っていったために、平安京の中心も東側に移動し、平安京の中央大通りとしての機能が失われていき、朱雀大路も廃れていきました。

本稿では、一時期ではあるものの平安京のメインストリートとされた朱雀大路を、観光目的で散歩していただく際の参考となるよう簡単に朱雀大路の歴史と、沿線の現状を紹介したいと思います。 “【平安京の朱雀大路】京の都のメインストリートの現在を歩く” の続きを読む

【丹羽長秀】織田信長に友であり兄弟であると言われた万能武将

丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長の下で織田家宿老として活躍した戦国武将です。

家督相続前から織田信長に付き従い、織田家臣団の中で一番最初に国持大名となったり、安土城の普請を務めたり、四国方面軍の実質的司令官を務めたりしており、その活躍は際立っています。

羽柴秀吉や明智光秀の陰に隠れがちですが、米五郎左と呼ばれたほどの重要性があり、織田信長に自慢の家臣として謳われたほどの輝きを見せています。

本能寺の変の後には羽柴秀吉に従い、123万石もの大領を得る大大名にまで成り上がっています。

晩年は胃の病気に苦しめられ、死後、嫡男の丹羽長重が失態を冒して羽柴秀吉から大減封処分を受けるという悲しい結末に至っており、その生涯は大河ドラマで1年かけて紹介しても十分と言えます。

本稿では、そんな紆余曲折を経た丹羽長秀の生涯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【丹羽長秀】織田信長に友であり兄弟であると言われた万能武将” の続きを読む

【九鬼嘉隆】鉄甲船を駆使して毛利水軍を粉砕した志摩国の海賊大名

九鬼嘉隆(くきよしたか)は、織田信長・羽柴秀吉の水軍を支えた海賊大名として有名です。

志摩国の国衆として身を起こし、一旦は国を追われたものの織田信長の下で出世を遂げ、志摩国一国を含めた3万5000石を擁する大名となるまでに出世をしていきます。

また、第二次木津川口の戦いの際に、船を鉄板で覆って防御力を高め、積載した大砲で敵船を粉砕する鉄甲船を駆使したことにより、今日にまで名を残すほど有名大名となります。

もっとも、この後の活躍は結構微妙で、文禄の役では朝鮮水軍に敗れて叱責を受け、関ヶ原の戦いで西軍に味方した責めをとって自刃するという最期を遂げています。

本稿では、波乱万丈な人生を送った海賊大名・九鬼嘉隆の人生について見ていきたいと思います。 “【九鬼嘉隆】鉄甲船を駆使して毛利水軍を粉砕した志摩国の海賊大名” の続きを読む

【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。

戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。

三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。

本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦” の続きを読む

【淀城】鳥羽伏見の戦いで淀藩裏切りの舞台となった城

淀城(よどじょう)は、江戸時代初期、木幡伏見城廃城後に手薄となった京の守りとして山城国久世郡淀(現・京都府京都市伏見区淀本町)に築かれた城です。

京街道という陸運のみならず、淀川水運の要衝地であった淀の地に、桂川・宇治川・木津川を天然の堀として守る近代城郭として完成し、戊辰戦争の際に時代を動かす一大事件の舞台となった城として有名です。

残念ながら、現在は本丸石垣と堀の一部が残るのみで、遺構のほとんどが失われていますが、本稿ではありし日の淀城について解説していきたいと思います。 “【淀城】鳥羽伏見の戦いで淀藩裏切りの舞台となった城” の続きを読む

【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦

島津の退き口(しまずののきぐち)は、慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ケ原合戦で、島津義弘が味方した西軍が敗れ総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、突然行った敵中突破による前進退却です。

戦場からの退却は、通常、敵の最も少ない場所を狙って行われるものなのですが、島津の退き口では、敵が最も多い徳川家康本陣に向かって突撃する形で始まるという極めて異質な作戦でした。

しかも、多大な犠牲を払いながらも大将の島津義弘を薩摩に帰国させることに成功したこと、その途中で「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼ばれる足止め隊の活躍があったことなどから、現在にまで語り継がれる退却劇となっています。

本稿では、世に名高い「島津の退き口」について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦” の続きを読む

【六角義賢】浅井長政・三好長慶・織田信長らと覇を競った南近江の戦国大名

六角義賢(ろっかくよしかた)は、南近江を治める戦国大名として、浅井長政や織田信長と覇を競った人物です。

父の代に最盛期を迎えた六角家ですが、六角義賢の代になると段々と周囲の勢力に押されていくようになり、家督を息子の六角義治に譲った後は、ジリ貧となって、遂には名門家を滅ぼしてしまいます。

一般にダメな武将として描かれがちな六角義賢ですが、武芸には優れており、特に、弓術は家臣の吉田重政に日置流(吉田流)を学び、印可を受けた腕前であったそうです。

本稿では、波乱万丈の人生を送った六角義賢(剃髪後は「承禎/じょうてい」と号したのですが、本稿では六角義賢で統一します。)について見ていきたいと思います。 “【六角義賢】浅井長政・三好長慶・織田信長らと覇を競った南近江の戦国大名” の続きを読む

【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱

豊前国人一揆は、豊前国6郡を得て入封した黒田官兵衛に対し、不満を持った豊前国人衆が蜂起して起こした内乱です。

その発生原因は、豊前国人衆を黒田家の配下に組み込んだこと、黒田官兵衛が早急な検地を進めたことにあったのですが、同じタイミング・同じ態様で一揆が起こった肥後国では、一揆を鎮めることが出来なかったとして佐々成政が切腹処分とされていますので、黒田官兵衛にとってもかなり危ない事件となっています。

本稿では、黒田官兵衛に危機をもたらした豊前国人一揆について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【豊前国人一揆】黒田官兵衛に対する豊前国衆の反乱” の続きを読む

【牧宗親】源頼朝に髻を斬られる辱めを受けた北条時政の義兄

牧宗親(まきむねちか)は、鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の継室である牧の方の父または兄として有名な人物です。

もっとも、牧宗親自身のエピソードではなく、源頼朝の浮気をとがめた北条政子の命令に従って後妻打ち(うわなりうち)に協力したために、源頼朝から辱めを受けるという悲しいエピソードで名を知られることとなった御家人です。

本稿では、鎌倉殿の浮気に翻弄された御家人である牧宗親の生涯について見ていきたいと思います。 “【牧宗親】源頼朝に髻を斬られる辱めを受けた北条時政の義兄” の続きを読む