平安時代の末期に伊勢平氏の棟梁となった平清盛が、平安時代の末期に多くの知行国・荘園を獲得するとともに日宋貿易の利益を独占して莫大な経済的利益を手にした上、保元・平治の乱の後に後白河上皇(のち法皇)と協力して政敵を駆逐し、また姻戚関係をも利用するなどして異例の出世をしていきます。
平清盛は、永暦元年(1160年)に武士初の公卿となる参議就任を経て、仁安2年(1167年)には律令官制最高官である太政大臣にまで上り詰めた上(なお、太政大臣は名誉職であるため、慣例に従って約3カ月で辞職しています。)、ついには治承4年(1180年)2月、ときの天皇であった高倉天皇に対して圧力をかけてその皇子である言仁親王を安徳天皇として即位させ、その外戚として権力の頂点に達します。
この結果、一族からも増長する者が続出し、全国各地で反平家の動きが高まっていきました。
本稿では、この反平家の動きの高まりから平家滅亡までの流れを、一気に説明していきたいと思います。
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畿内での反平家の反乱
以仁王の挙兵(1180年5月)
平家独裁政権に対する反乱の第一波となったのは、以仁王の挙兵でした。
以仁王は、後白河法皇の第三皇子だったのですが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下を受けられずにいました。
以仁王は、このような状況下にあっても莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)の猶子となって皇位へ望みをつないでいました。
ところが、平清盛の孫である安徳天皇(高倉上皇の第一皇子)が第81代天皇として即位したことにより、以仁王の天皇になるという望みが断たれます。
そればかりか以仁王の経済基盤である荘園の一部も没収されました。
我慢できなくなった以仁王は、平家方の武将であった源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家・興福寺・園城寺などと共に、反平家のために動き出します。
以仁王は、治承4年(1180年)4月9日、源行家に以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めた上で、同年5月、ついに反平家の挙兵をします。
もっとも、以仁王の計画はすぐに発覚し、逃亡中に、平家の追っ手により討ち取られます。
こうして反平家の初動を鎮圧した平家でしたが、巨大寺社勢力である園城寺・延暦寺が反平家の動きが見えたため、これらの巨大寺社に挟まれた京の地理的不利を払拭するため、京を放棄する決断を下します。
福原京遷都(1180年6月~)
平清盛は、治承4年(1180)年5月30日、突然、同年6月3日に摂津国・福原に行幸を決行するとの決定を下します(玉葉・治承4年5月30日条)。
この突然の決定に皇族・公卿らを含めた都の人々は大混乱に陥ったのですが、平清盛は、さらに1日早めた同年6月2日に決行することとします。
そして、同年6月2日、平清盛は、安徳天皇(高倉上皇の第一皇子)及び守貞親王(高倉上皇の第二皇子)、高倉上皇、後白河法皇、摂政・藤原基通などの多くの公家を引き連れ、福原に向かいます。
平清盛の主導により、安徳天皇が福原に赴いたとはいえ、このときの移動は突然行われたものであったため、当然新都の造営などなされていません。
結局、治承4年(1180年)7月中旬、なし崩し的に福原を新都とすることに決まり(福原京遷都)、道路整備・宅地造成などが始まります。
もっとも、幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇が平安京を放棄せず、福原は離宮の扱いであるとして、福原に内裏や八省院は必要ないと判断し、遷都を進める平清盛と意見が対立します。
畿内で起こった反乱が地方へ波及
畿内で兵を挙げたもののすぐに鎮圧された以仁王でしたが、その志は、治承4年(1180年)4月10日、源行家が山伏の姿に変装して密かに京を脱出して諸国に点在する源氏に配り歩いた「以仁王の令旨」により全国に反平家の動きが広がっていきます。
その結果、治承4年(1180年)5月上旬ころに武田信義・安田義定らが甲斐国で、8月17日に源頼朝が伊豆国で、同年9月7日に木曾義仲が木曽谷で、相次いで反平家の兵を挙げます(その他、多くの源氏方勢力が兵を挙げたのですが、これら以外の勢力は概ね鎮圧されて終わっています。)。
もっとも、所詮は地方での小さな反乱にすぎないと高をくくっていた平家方は、これらの反乱に対して本格的な対応をせず、それぞれの地に存する平家方の在地豪族たちに、これらの鎮圧を命じます。
ところが、武田信義・源頼朝・木曾義仲は手強く、平家方が手配した在地豪族を次々と撃破し、それぞれが勢力を高めていきました。
特に、武田信義ら甲斐源氏の勢いは凄まじく、甲斐から信濃・駿河・遠江へと侵攻してきましたので(また、坂東で勢力を高めつつあった源頼朝がこれに同調する動きを見せていました。)、平家方としても、もはや在地豪族だけにその対応を任せておくことはできなくなりました。
そこで、平家方としても、これらの討伐軍を編成し、京から進軍させたのですが、同年10月20日に起こった富士川の戦いにて源氏軍に敗れ、平家方は、東海道・坂東の支配権を失います。
平安京還幸(1180年11月)
全国各地で相次いで勃発する反平家の挙兵と、その鎮圧に向かった軍が源氏軍に大敗したとの報は、内裏の新造を進める福原に混乱をもたらします。
その結果、諸寺諸社や貴族達だけでなく、平家政権の中枢からも福原から京に還都するべきとの意見が噴出します。
特に、平清盛の子でありその後継者とされた平宗盛までもが、京への還都を主張し、平清盛と口論になる程でした。
こうなると、さすがの平清盛も、自分1人の意見で福原京遷都を維持できなくなり、結局、平安京への還幸を決定します。
そして、治承4年(1180年)11月11日、天皇による新造内裏に行幸、新嘗祭におこなわれる五節舞の挙行を最後にとして(新嘗祭自体は京都で行なわれました。)、同年11月23日から平安京還都が始まります。
園城寺焼討(1180年12月11日)
もっとも、平清盛としては、京に戻る前提として、京に近い園城寺に対する対策が必要でした。
そこで、平清盛は、治承4年(1180年)12月11日、平重盛に命じ、園城寺が以仁王に加担した罪として、園城寺に攻め込み、金堂以下の堂塔のほとんどを焼き討ってしまいます。
懸念の1つである園城寺の脅威を取り除いた平清盛は、もう1つの脅威である興福寺の脅威の排除に取り掛かります。
南都焼討(1180年12月28日夜)
興福寺との交渉が決裂したため、平清盛は、4万人(平家物語)とも数千人(山槐記)ともいわれる大軍を動員し、治承4年(1180年)12月15日、平重衡を総大将、平通盛らを副将として興福寺に向かわせます。
京を出陣した平家軍は、宇治で天候の回復を待った後、治承4年(1180年)12月27日、木津に入ります。
そして、平家軍は、ここで兵を2手に分け、平重衡隊が木津方面から、平通盛軍は奈良坂方面から侵攻を開始します(河内方面から別働隊も出ています。)。
翌同年12月28日には、平家方の大軍が、木津・奈良坂の防衛線を突破して南都の入り口に到達し、般若坂近辺で、平家軍と興福寺軍との激戦が繰り広げられます。
そして、この後に事件が起こります。
治承4年(1180年)12月28日の戦いでは決着がつかなかったため、平家軍は、夕刻になると、奈良坂と般若坂を占拠し、本陣を般若坂沿いの般若寺内に移したのですが、夜間の灯りを得るために、付近の民家に火を放ったところ、折からの強風に煽られて延焼し、南都一帯に広がる大火災に発展します(平家物語)。
いずれにせよ、平家方から放たれた火により、北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りにまで及び、現在の奈良市内の大半部分にあたる地域を焼き尽くす大火事となりました。
そして、治承5年(1181年)に入ると、平清盛は、東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収するとともに別当・僧綱らを更迭するなど、これらの寺院の事実上の廃寺政策を決定し、再び南都に兵を派遣してこれらの施策を実行に移します。
地方の反乱対応に忙殺
平清盛死去(1181年閏2月4日)
治承4年(1180年)も末ころになると、畿内や東国のみならず、平家の勢力基盤であるはずの西国においても反乱の兆しが見え始めます。
治承4年(1180年)末には伊予国の河野通清・通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、更には伊勢国・志摩国においても反乱の動きが見えはじめるなど、反平家の動きは止められなくなっていきます。
平清盛は、このような動きを封じようと、畿内近国の惣官職を置いて平宗盛を任命し、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制をとります。
また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて平盛俊を任命させ、越後国の城資永と陸奥国の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えます。
その上で、同年2月26日、平宗盛以下、一族総出で東国追討に向かうことに決まります。
ところが、平家の精神的支柱であった平清盛が、同年2月27日に病に倒れ、同年閏2月4日に64歳で死亡します。
源行家軍の鎮圧(1181年3月10日)
富士川の戦いに敗れて平家軍が京に逃げ帰ったため、武田信義が駿河国を、安田義定が遠江国を実効支配していたのですが、これに加えて、源行家が、三河国・尾張国に進出してきたため、平家は、東海地方一帯の支配権を失います。
危機感を募らせた平家は、平清盛の葬儀を済ませた後、治承5年(1181年)閏2月15日、源行家討伐軍を編成し、平重衡を将として3万人を率いて尾張国に向かって進軍して行きます(平家物語)。
そして、同年3月10日、源行家軍と平重衡軍が墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙し、同日夜、源行家方の源義円が平重衡軍に奇襲をかける形で戦いが始まります(源平墨俣川の戦い)。
この戦いは、奇襲を察知した平家軍が、反撃に成功して勝利し、源義円を討ち取り、源行家を尾張国・三河国から追い出して、これらの国の奪還に成功します。
木曾義仲討伐の失敗
続いて、平家は、信濃国で勢力を高める木曾義仲の討伐に動き出し、まずは越後国の豪族・城助職にその追討を命じます。
城助職は、治承5年(1181年)6月、木曾義仲を討伐するために大軍を率いて信濃国に侵攻し、同年6月13日、横田河原においてこれを迎え撃つべく出陣してきた木曾義仲軍と激突したのですが、この戦いは、長旅の疲れや油断もあった城助職軍が総崩れとなり、兵力で劣る木曾義仲方が勝利を収めます(横田河原の戦い)。
勢いに乗る木曾義仲は、逃げ帰る城助職を追いかけて会津まで追い払い、その後、越後国府に入って越後国の実権を握ります。
そして、その後、若狭、越前などの北陸諸国で反平氏勢力が立ち上がり、木曾義仲もこれに乗じたため、平家は北陸道を失います。
また、木曾義仲は、養和2年・寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵の大義名分を得て、さらに西に向かって勢力を高めていきます。
対する平家軍も、木曾義仲の勢いを止めて兵糧の供給地たる北陸道を回復すべく、寿永2年(1183年)4月17日、平維盛を総大将として10万人とも言われる大軍で北陸へ向かわせます。
もっとも、平家軍は、般若野の戦い(1183年5月9日)・倶利伽羅峠の戦い(1183年5月11日)に敗れ、篠原の戦い(1183年6月1日)で討伐軍が壊滅します。
その結果、平家軍を殲滅した木曾義仲軍は、そのまま軍を進め、京に向かって進んでいきます。
平家都落ち(1183年7月25日)
平家都落ち(1183年7月25日)
大軍を失った平家に、木曾義仲の侵攻を止める力はなく、平家の棟梁となっていた平宗盛ら、一門を引き連れて京を離れる決断をします。
このとき、平宗盛は、権威を失わないようにするため、三種の神器を携え、かつ幼い安徳天皇と後白河法皇を引き込連れて一旦西国に落ち延びることを計画します。
ところが、平家のこの計画が失敗します。
平家の動きを素早く察知した後白河法皇が、密かに法住寺殿を脱出し、鞍馬経由で比叡山に隠れてしまったからです。
比叡山に籠られてしまうと、僧兵の妨害があるため、後白河法皇を確保できません。
みすみす後白河法皇を取り逃してしまった平家は、やむなく安徳天皇と三種の神器のみを奉じて、京を去ることになりました。いわゆる平家都落ちです。
京を離れる平家一門は、寿永2年(1183年)7月25日、京の平家屋敷に次々と火を放ち、前内大臣平宗盛、大納言時忠、中納言教盛、新中納言知盛、経盛、清宗、重衡、維盛、資盛、通盛、有盛、師盛、忠房、忠度、教経、業盛などが次々に西に向かって落ちて行きました。
西に向かって落ちて行く平家は、途中でかつての平家の本拠地であった福原に立ち寄り、ここにも火を放ってさらに西に向かいます。
平家一門・大宰府へ(1183年8月26日)
そして、平家一門は、寿永2年(1183年)8月26日、九州にまで行きつき、平重盛(平清盛の長男)の養女を妻であり、大宰府での平家政権・日宋貿易の代行者でもあった原田種直の宿舎に入ります。
ところが、ここで、平家一門の大宰府到着を知った豊後に下向中の知行国主・藤原頼輔が、後白河法皇の反感を買わないようにするため、子の国守・藤原頼経を通じ、豊後の豪族・緒方三郎惟義(これよし)に平家追討を命じます。
平家一門・屋島へ
緒方三郎惟義が平家追討軍を準備していることを知った平家は、大宰府の原田種直の下を離れて遠賀川河口の山鹿兵藤次秀遠の城に入ったのですがそこも追われたため、豊前国・柳ケ浦(現在の大分県宇佐市)にたどりつきます。
もっとも、平家は、その後柳ヶ浦も追われて、平知盛の知行国であった長門国の代官・紀伊刑部太夫道資の大船で海に出ます。
その後、平家一門は船で東に向かい、田口成良(重能・成能)の招きで讃岐国・屋島に入り、ここで、田口成良のはからいにより、屋島に板屋の内裏や御所を準備してもらい、ここを平家の本拠地として勢力を立て直していくこととします。
平家勢力回復の動き
水島の戦い(1183年10月1日)
以上の平家の動きに対し、京の後白河法皇は、平家掃討と木曾義仲の追い出しも兼ねて、木曾義仲に平家討伐を命じたため、これを受けた木曾義仲は、寿永2年(1183年)9月20日、都を出発して平家の本拠地である屋島方面へ進軍していきます。
木曾義仲の最初の攻略目的は、乙島・柏島です。
当時、淡路・阿波・讃岐には平家に味方する勢力が存在していたため、屋島のある四国に渡るためには、まずは、乙島・柏島から児島に入り、そこから下津井から塩飽(しわく)諸島を経由し讃岐国に上陸する必要があったからです。
木曾義仲は、100艘余の船を準備し、5000人の兵を率いて陣を構えます(正確な布陣場所は不明です。)。
対する平家方は、迎撃軍を準備し、200艘余の船に7千人で乙島・柏島に布陣します。
そして、寿永2年(1183年)閏10月1日早朝、合戦の作法どおり、平家方の軍使が木曾義仲方に赴いて宣戦布告の口上を述べた後、戦が始まります。
同日午前8時頃、沖合い船を出した上で、太陽を瀬にして軍船同士をつなぎ合わせて船上に板を渡すことにより陣を構築し待ち構えていた平家方に対し、木曾義仲方が500艘を一斉に海に出し準備が整います。
一進一退の攻防が続いていたのですが、正午ごろから95%程の金環日食が起きたため、太陽に向けて進んでいた木曾義仲方は明暗の差が大きく暗調応(明暗順応)が遅れて相手を視認できなくなります。他方、太陽を背にしていた平家方は、木曾義仲方より早く順応できました(なお、真偽はわかりませんが、当時平氏は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから日食が起こることを予測し戦闘に利用したとも言われています。)。
結果、水島の戦いは、兵数に勝り、海戦に慣れ、天候まで利用した平家の圧勝で終わります。
福原回復(1184年1月)
都落ち後に流転の旅を続けていた平家でしたが、水島の戦いの勝利により勢いを取り戻していきます。
平家の勝利に感化されて周囲の豪族が平家に協力をし始めたり、また平教経が、備中・淡路・備後・摂津・紀伊・備前の源氏の残党を駆逐して瀬戸内海支配を固めたりしたからです。
そして、勢いづく平家は、京奪還計画をたて、寿永3年(1184年)1月、屋島を本拠として残しつつ、大輪田泊から上陸してかつての平家の本拠地である摂津国・福原へ進出します。
そして、その後、平家は、福原の外周(東の生田口、西の一ノ谷口【一ノ谷城】、山の手の夢野口など)に砦を築き、強固な防御陣を構築するなどして、福原を要塞化していきます。
復権の夢が破れる
一ノ谷の戦い(1184年2月7日)
他方、畿内では、源範頼・源義経が木曾義仲を討伐したため、政治の中心に返り咲いた後白河法皇でしたが、法皇の下には三種の神器がありませんので、権威の正当性の根拠がありません。
そこで、後白河法皇は、この状況を打破すべく、寿永3年(1184年)1月26日、源頼朝に対し、福原に進出してきた平家追討と安徳天皇の下にある三種の神器奪還を命じます。名目は平家追討の宣旨ですが、実質は三種の神器奪還命令です。
源頼朝は、これを受けて、木曾義仲を討伐した後に京で待機していた源範頼と源義経に平家追討を命じ、源頼朝の命を受けた源範頼・源義経が、直ちに軍勢を整え、寿永3年(1184年)2月4日、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発し、福原に向かいます。
そして、源範頼率いる大手軍が東側から、源義経率いる搦手軍が西側から福原に迫ります。
そして、同年2月7日、各方面での決戦があり、兵力差があったこと、源義経による奇襲で平家軍が大混乱に陥ったことなどから、戦いは源氏方の勝利に終わります(一ノ谷の戦い)。
そして、安全のために船に乗って海上にいた安徳天皇、建礼門院、総大将・平宗盛らは、福原を放棄して屋島へ向かいます。
他方、源氏方においても、福原から平家一門を追放し、またその勢力に大打撃を与えたという戦術的勝利はあったものの、合戦の戦略目標であった安徳天皇と三種の神器の確保には失敗します。
そこで、後白河法皇は、平家方に対し、捕えた平重衡と三種の神器を交換するよう交渉しますが、三種の神器の有用性を熟知する平宗盛に拒絶されます。
平家によるゲリラ戦(1184年7月頃〜)
一ノ谷の戦いに勝利して福原を確保したから源頼朝軍(源範頼・源義経)でしたが、源氏には水軍がなかったため、その勢いで平家の本拠地である讃岐国・屋島や長門国・彦島を攻撃することはできません。
そこで、一ノ谷の戦いの後、源頼朝は、京の治安維持に源義経を残し、大内惟義、山内経俊、豊島有経などを畿内の惣追捕使として畿内の平家方勢力を討伐を図ります。
また、梶原景時を摂津・播磨・美作の、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使(守護)に任命して山陽道を確保します。
さらに、源頼朝自身も、知行国主として関東知行国を獲得し、源氏一族の源範頼が三河守、源広綱が駿河守、平賀義信が武蔵守に任官した上で、その他の一ノ谷の戦いを戦った東国武士団を鎌倉に戻します。
これに対し、平家方では、元暦元年(1184年)7月頃から、屋島に残る平家の勢力が再び船で瀬戸内海を渡って山陽道に出没し始め、そこかしこで源氏方の勢力を襲撃するようになります。
ところが、水軍を持たない源氏が屋島を攻撃してこれを封じることはできません。
そこで、源頼朝は、屋島を攻略して平家を討伐するのではなく、まずは平家を援助する西国家人らを鎮圧し、瀬戸内方面で平家を孤立させる作戦をとります。
このとき、源頼朝は、瀬戸内の平家討伐のために源義経を派遣する予定だったのですが、畿内でも平家方の勢力が兵を挙げてはこれを源義経が鎮圧するということが繰り返されていましたので、源義経を派遣することができなかったため、鎌倉に戻っていた源範頼が派遣されることとなります(源範頼の山陽道・九州遠征)。
そして、平家方勢力を鎮圧しながら山陽道を進む源範頼の軍は同年10月には安芸国に、同年12月には備中国に到達し、ここで平行盛軍を撃破して(藤戸の戦い)、山陽道の一応の安全を確保します。
その後、源範頼は、さらに平家の最西の拠点・彦島を無力化するため、さらに西に向かって進んで行ったのですが、源範頼軍は、3万騎という大軍であったために戦線が長く伸びてしまった上、瀬戸内水運を平家水軍に押さえられていることもあり、慢性的な兵糧不足に陥って進軍が停滞します。
もっとも、源範頼は、なんとか軍勢を維持して豊後国から九州に入り、大宰府を占領して九州と、平家本拠地・彦島との連絡を遮断します。
屋島の戦い(1185年2月19日)
元暦2年(1185年)1月に入ると、畿内で平氏勢力の掃討戦を続けていた源義経の耳に、西国の源範頼の苦戦の報が入ります。
そこで、源義経は、平家のもう1つの拠点である屋島を攻略して、源範頼の援護に回ろうと考えたのですが、水軍を持たない源氏は、この時点では大軍をもって海から屋島を攻撃することはできません。
それどころか、源氏軍を四国に上陸させることすらできません。
そこで、源義経ら、阿波国の反平家勢力と連絡を取り、自らは少数で阿波へ渡り兵を集めつつ迂回して陸上から攻め、屋島の平家軍を引きつけた上で、梶原景時に大規模な水軍を擁して海上から攻撃させるという作戦を立て、その準備として、畿内の海運関係者である淀江内忠俊や摂津源氏と関係の深い水軍・渡辺党を調略します。
そして、渡辺党の協力を取り付けた源義経は、文治元年(1185年)1月、渡辺党の本拠地・渡辺津へと赴き、兵糧の集積と兵船の準備を進め、本格的な屋島攻略を決めます。
ところが、ここで理由は不明ですが(一説には、源義経と梶原景時とが喧嘩をしたためとされています・逆櫓論争)、暴風雨で海が荒れ狂っていた元暦2年(1185年)2月18日午前2時ころ、源義経は、本隊を渡辺津に残したまま、僅か5艘150騎を率いて渡辺津から屋島に向かって出陣します。
四国に上陸した源義経は、途中で、阿波国衙に隣接する平家方の重要拠点であり、平家最大与党・阿波民部大夫の近親者である桜庭良遠(田口成良の弟)の桜間館を襲って打ち破った後、夜を徹して屋島へ向かって進撃していきます。
その後、源義経が屋島に奇襲を加え、激戦が始まりましたが、その後に、遅れて渡辺津から出航してきた(源範頼方の九州からとの説もあります。)梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫るとの報が入ったため、平家方は屋島を放棄して一旦は東側にある志度寺に逃れますがそこも放棄し(志度合戦)、平家最後の拠点である彦島へ退き、屋島の戦いが終わります。
元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日の屋島の戦いで平家の本拠地であった屋島を攻略し、同年2月21日の志度合戦によって四国から平家を追い出した源義経は、同年4年(1185年)2月22日に梶原景時の水軍本隊到着を待ち、いよいよ平家の最後の拠点・彦島攻略に向かいます。
また、このときには、山陽道は、土肥実平・梶原景時が総追捕使に任命されたことにより源氏方に押さえられており、また源範頼の山陽道・九州遠征の結果として九州に上陸した源範頼軍が大宰府に入った上で北九州を制圧していために平家は彦島に孤立した状態となり、もはや逃げ場はありません。
平家滅亡の危機が迫ります。
平家滅亡
壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)
元暦2年/寿永4年(1185年)3月22日に源義経率いる源氏水軍840艘が周防国から出撃し、同年3月24日に壇ノ浦の北東沖合に布陣します。
他方、源氏水軍出撃を聞いた平家方は、源氏水軍を迎え撃つため、平知盛率いる平氏水軍500艘が彦島を出撃します。
開戦当初、関門海峡の潮の流れが平家方から源氏方へ(南西から北東へ)流れていたため、土地勘があり水軍の運用に長けた平家方は、この潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけつつ源氏水軍を押し込んでいきます。
源氏水軍は、潮の流れを巧みに利用する平家水軍に対応できず、干珠島・満珠島の近辺まで追い込まれていきます。
開戦直後は、優位に戦いを進めていた平家水軍でしたが、開戦前から源氏方に彦島を包囲されていたために兵糧や兵器の補充が十分ではなかったことから、一旦矢を射尽すと補充ができず、水上からは源義経軍に、陸上からは源範頼軍に射かけられるままとなってしまいます。
こうなると、戦局は一気に源氏方に傾きます。
水手・梶取(漕ぎ手)を失った平家水軍の操船が難しくなり、組織的な動きができなくなります。
ここで、さらに平家方に不幸が襲います。
関門海峡は潮の流れの変化が激しいことが有名ですが、ここで潮の流れが源氏方から平家方へ(北東から南西へ)と変わったのです。
水手・梶取(漕ぎ手)が失われた上、潮の流れも逆向きとなったことにより、平家方の船は身動きが取れなくなります(なお、吾妻鏡には潮流変化の記述がなく、平家物語にも反転したとまでの記載はないことから真偽は不明です。)。
こうなっては平家に勝ち目はありません。
身動きが取れなくなった平家水軍に対して源氏水軍が総攻撃をかけたため、平家方の武将が次々に討ち取られていき、またその光景を見た平家方の諸将が次々と源氏方へ寝返り・投降を始めます。
後がなくなった平家は、二位尼が安徳天皇を抱えて海に身を投じ(なお、吾妻鏡では、安徳天皇を抱いて入水したのは、平時子・建春門院・建礼門院らに仕えた按察使局伊勢であるとされており、二位尼は宝剣と神璽を持って入水とされています。)、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げて行きます。
女官達の入水を見届け、それを追うように平家一門の平経盛・平資盛・平有盛・平行盛らが次々に入水し死亡していきます。
これらの平家一門の最期を見届けた平家水軍の総大将の平知盛は、同日午後4時ころ(玉葉、ただし吾妻鏡だと正午ころ)、「見届けねばならぬ事は見届けた」と言い、確実に死ねるようにと鎧を2領着込んで乳兄弟の平家長と共に入水します。
その後、平家総帥・平宗盛と、その嫡男の平清宗も一旦海に飛び込んだものの、命を惜しんで浮かび上がって泳ぎ回っていたところを源氏の兵に捕らえられるという醜態をさらします。
こうして壇ノ浦の戦いに敗れた平家一門は、その多くが死ぬか捕らえられ、長かった源平の戦いが終結します。
平家滅亡(1185年6月)
壇ノ浦の戦いの最中から三種の神器を探し回っていた源氏方は、運良く内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収できたのですが、二位尼が腰に差していた宝剣(天叢雲剣)は海の底に沈んでしまい回収ができませんでした(なお、このときに水没した天叢雲剣は、宮中の儀式に使われる模造品であり、本物は熱田神宮に保管されていたために失われていないという説もありますが、真実はわかりません。)。
他方、安徳天皇の異母弟の守貞親王、安徳天皇の母である建礼門院、平家総帥の平宗盛・その息子平清宗、平氏武将の平時忠(二位尼の弟)・平時実・平信基・平盛国・平盛澄・源季貞、廷臣である藤原尹明、僧侶である能円・全真・良弘・忠快・行命、女房である大納言典侍・帥典侍・治部卿局・按察使局らは助けられ捕虜となっています。
平家を滅ぼした源氏方は、源範頼が九州に残って戦後の仕置きを行い、源義経が建礼門院・守貞親王・平家の捕虜を連れて京へ戻ります。
平家の総帥であった平宗盛と、その子・平清宗は鎌倉へ送られて頼朝と対面した後、同年6月に京へ追い返され、その帰還途上の近江国で斬首され、平家が滅亡します。