北条時房(ほうじょうときふさ)は、北条時政の三男として生まれ、鎌倉時代の初期に活躍した御家人です。
兄である北条義時と姉である北条政子を支えてその生前には初代六波羅探題となり、北条義時の死後には、その子である北条泰時と共に執権(その後は、鎌倉幕府初代連署)に就任して鎌倉幕府政治の中枢を担っています。
もっとも、実質上の鎌倉幕府のトップとなった若き甥・北条泰時と、ナンバー2となった長老の叔父・北条時房との関係は、ときには協力しつつもときには対立するという微妙な関係となったため、一部軋轢を生む原因ともなっていました。
本稿では、北条義時の頼れる弟であり、北条泰時の目の上のたんこぶでもあった北条時房の人生について見ていきたいと思います。
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北条時房の出自
出生(1175年)
北条時房は、安元元年(1175年)、伊豆国の在庁官人(地方役人)であった桓武平氏高望流・北条時政の三男として生まれます。母は不明であり、通称を五郎といいました。
異母姉の北条政子とは18歳、異母兄の北条義時とは12歳も年の離れた弟にあたり、親子ほどの年の差があったため、北条時房は、北条政子や北条義時から特にかわいがられていたそうです。
元服(1189年4月18日)
文治5年(1189年)4月18日、三浦義連を烏帽子親として元服し、その諱一字をもらって北条時連(ときつら)と名乗ります。もっとも、説明上の便宜から、本稿では当初より北条時房との名で統一することとします。
このときまでに北条時政の長男(嫡男)の北条宗時は戦死し、次男の北条義時は分家していたところ(この時点では江間姓を名乗っています。)、他方で、四男となる北条政範はまだ生まれていませんので、この時点では北条時房が北条家の嫡男扱いとされていたと推測されます。
そのためもあって、北条時房の元服の儀は、一族の北条義時をはじめとして、源氏一門の源範頼、有力御家人である梶原景時・三浦義澄・和田義盛・土肥実平・畠山重忠・千葉常胤・足立遠元などが参列して盛大に行われています。
もっとも、同年、北条時政の継室となっていた牧の方が北条政範を生んだため、北条時房は嫡男(後継ぎ)としての立場を失ったものと考えられています。
その後、北条時房は、文治5年(1189年)7月から9月までの奥州合戦に従軍し武功を挙げています。
また、その後、建久4年(1193年)8月に行われた由比浦での放生会に参加し、また建久6年(1195年)3月の源頼朝の2度目の上洛に供奉したりなどしています。
その後、正確な時期は不明ですが、足立遠元の娘を正室に貰い受けています。
源頼家の近侍となる(1199年)
建久10年(1199年)1月に源頼朝が死去して源頼家が第2代鎌倉殿に就任すると、北条時房は、源頼家の近侍となって仕えます(源頼家は、北条時房の7つ年下の甥にあたります。)。
なお、このとき同じく源頼家の近侍となった者として、比企宗員、比企時員、小笠原長経、和田朝盛、中野能成、平知康などがいます。
北条時房は、容姿に優れて所作もよく、また蹴鞠も堪能であったため、源頼家の御供をして蹴鞠や狩猟に随伴することとなりました。
北条時房に改名(1202年6月25日)
その後、北条時房は、平知康から、その時名乗っていた名である「時連」の「連」の字が銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、また、この発言を耳にした源頼家から改名を提言されます。そこで、北条時房は、建仁2年(1202年)6月25日、諱を北条時房と改めることとしました。
源頼朝の生前は無位無官だったの北条時房でしたが、建仁3年(1203年)12月、鎌倉幕府営中奉行(御所奉行)に就任しています。
源頼家暗殺(1204年7月18日)
建仁3年(1203年)7月に第2代鎌倉殿であった源頼家が病に倒れ、同年8月には危篤に陥ると、有力御家人において、万一があった場合に次期鎌倉殿を誰にするのかの話し合いがなされ、各々が自信に都合の良い後継ぎ候補を推したため、議論が紛糾していきます。
この時点での源頼家の嫡男たりうる男子は一幡と善哉だったのですが、どちらが次期鎌倉殿となっても権力の座から落ちていく北条時政が奇策を打ちます。
北条時政は、東国は源頼家の子である一幡が、西国を源頼家の弟である千幡が支配するという分割支配案を提示し、建仁3年(1203年)9月2日、これに反発する比企能員をはじめとする比企一族を滅亡させてしまいます(比企能員の変)。
そして、北条時政は、比企一族と共に一幡と若狭局までも殺害しています。
その上で、北条時政は、鎌倉幕府の政治を維持するためにはわずか4歳の幼君の善哉(後の公暁)では不足であるとの理由をつけて、善哉が成長した後に僧侶にするとの決定を下した上、源頼家の弟であった千幡(後の源実朝)を第3代鎌倉殿に据えることに決定します。
そして、北条時政は、朝廷に対して源頼家が死去したという虚偽の報告を行って千幡への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任させた上で、源頼家の将軍職を奪って伊豆国・修善寺に追放します。
こうして、実質的には北条時政の完全な操り人形の将軍が誕生し、鎌倉幕府は北条家の傀儡政権に成り下がってしまいます。
そして、北条時政は、北条義時に伊豆国・修善寺に追放された源頼家の暗殺を命じ、元久元年(1204年)7月18日、これが実行に移されました(源頼家は、入浴中に首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。
鎌倉幕府内での出世
初の任官(1205年3月18日)
源頼家の近侍であった北条時房でしたが、比企一族滅亡と源頼家暗殺に連座されることはなく、逆に鎌倉幕府内で絶対的権力者となりつつあった北条一門衆として重用されていくようになります。
元久2年(1205年)3月18日に主殿権助、同年4月10日に式部少丞に補任されます。
北条時政追放(1205年7月20日)
元久2年(1205年)、畠山重忠に謀反の疑いありとした討伐の議論となった際、北条時房は兄の北条義時と共に一旦は畠山重忠討伐に反対したものの、北条時政の命により畠山重忠討伐が決定されると、軍を率いて出陣し同年6月に畠山重忠軍と戦っています。
畠山一族を滅ぼした北条時政とその継室・牧の方は、勢いに乗って娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようと考え、第三代源実朝の暗殺を計画します。
ところが、人望のあった畠山重忠を殺したことで北条時政と牧の方への御家人の信頼が薄れており、この源実朝暗殺計画は実行直前の元久2年(1205年)閏7月19日に露見します。
自身の暗殺の危険を悟った源実朝は、北条政子の手配により北条時政邸から脱出して北条義時の邸宅に逃れます。
このことにより、北条家は、北条時政派と、北条義時・北条政子派とに分裂したのですが、北条時房は、北条義時・北条政子派に与します。
その後、将軍暗殺計画がバレて立場が危なくなった北条時政は、急ぎ兵を集めようとしたのですが集まらず、同年7月20日、北条時政は息子の北条義時の命により伊豆国修禅寺に追放され、これに加担した平賀朝雅は北条義時に殺害されました(牧氏の変)。
こうして北条時政は追放され、北条義時が北条家の家督と執権職を引き継ぎます(鎌倉幕府2代執権)。
国司歴任(1205年8月~)
北条家の家督を継いだ北条義時は、自らに与した弟・北条時房を重用します。
北条義時が朝廷に働きかけた結果、北条時房は、元久2年(1205年)8月9日の臨時除目で叙爵し、従五位下・遠江守に任じられます。
また、同年9月21日には駿河守、承元4年(1210年)正月14日には武蔵守に補任されるなど、瞬く間に出世の階段を上っていきます。
なお、相模国・武蔵国は鎌倉幕府将軍の永代知行国であっため鎌倉幕府の中でも最重要国として位置付けられていたのですが、この時点で相模守を北条義時が、武蔵国を北条時房が歴任することにより、北条兄弟が鎌倉幕府のトップであることを世に知らしめたといえます(その後、建保5年/1217年12月12日に北条時房が相模守となっています。)。
その後は、建暦3年(1213年)に勃発した和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦して武功を挙げ、戦後に賞されて上総国飯富の荘園を拝領しています。
摂家将軍候補の三寅を鎌倉に届ける
建保7年(1219年)に源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が起こったのですが、源実朝に子がいなかったため、鎌倉幕府の執務は、源頼朝正室である北条政子が代行し、執権であるその弟北条義時がこれを補佐して行うこととなりました。
もっとも、これらの政治は一時凌ぎのものに過ぎず、第4代の鎌倉殿(征夷大将軍)を任命する必要に迫られます。
ここで、北条義時は、親王を鎌倉に貰い受けて第4代鎌倉殿とするよう考え。北条時房に軍を率いて上洛させ、朝廷との交渉にあたらせます。
北条時房は、源実朝の下で学んだ蹴鞠や京文化を駆使して朝廷と交渉を続けたのですが、その際、後鳥羽上皇から蹴鞠の腕前を評価されて出仕するよう命じられたそうです。
もっとも、親王将軍の希望は後鳥羽上皇に拒絶されたため、この交渉は失敗に終わります。
そこで、北条義時らは、皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎えることとし、九条道家の子である三寅(後の九条頼経)を将軍に据えてこれを傀儡として執権による政治を行う執権体制を確立させることに決めます。
そこで、北条義時の指示により、北条時房は、さらに朝廷と交渉を行った末、後の摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還しました。
承久の乱の勃発とその戦後処理
承久の乱(1221年)
承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時討伐を掲げて挙兵し、北条義時追討の官宣旨を発行されると、北条義時(ひいては北条家)の危機となります。
ここで、同日5月19日、北条政子が、北条家の危機を鎌倉幕府の危機であるかのようにふるまって御家人たちを鼓舞するという起死回生の演説を行い(北条政子の演説)、鎌倉幕府を挙げて朝廷と対決することとなります(承久の乱)。
そして、北条時房もまたその幕府軍の大将の1人として兵を率いることとなり、北条泰時とともに東海道軍10万人を率いて東海道を西進していきました。
その後、北条時房は、同年6月13日には瀬田橋で朝廷・比叡山僧兵連合軍と合戦となってこれを打ち破り、同年6月15日には入京を果たしています。
六波羅探題南方就任(1221年6月16日)
こうして承久の乱を鎮圧した鎌倉幕府は、承久の乱の戦後処理のため北条泰時と北条時房の2人を京に残し、朝廷の軍事力を支える存在であった京都周辺の軍事貴族や周辺武士を解体させます。
そして、今後朝廷が再度挙兵する可能性を摘むため、御所近くに鎌倉幕府の出先機関を設置し、そこに鎌倉武士を常時駐屯させて朝廷の一挙手一投足を監視することとします。
このとき選ばれた場所は、かつて平家が京の拠点として六波羅であり、選ばれた指揮官がそのとき京にいた北条泰時と北条時房でした。
北条泰時と北条時房は、六波羅にあった旧平清盛邸跡地を拠点としてその北と南にそれぞれ駐留を開始し、承久の乱の西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視をはじめます。
その上で、朝廷を監視するために京都守護を改組し、北側に駐留した北条泰時と南側に駐留した北条時房とをあわせて六波羅探題とする機関を設置し、承久3年(1221年)6月16日、北条時房が初代六波羅探題南方となります(なお、同じく北条泰時が初代六波羅探題北方となっています。)。
鎌倉に戻り連署となる
北条義時死去(1224年6月13日)
京で六波羅探題での勤務を継続していた北条泰時と北条時房でしたが、彼らの下に、貞応3年(1224年)6月16日、3日前に鎌倉幕府2代執権であり実質的トップでもあった北条義時が死亡したとの報が届きます。
なお、北条義時の死については、病死説のほか、暗殺されたとする説もあり(明月記・保暦間記など)、その死因ははっきりとはわかっていません。
泰時と時房が鎌倉へ(1224年6月27日)
権力者の死は、次の権力者を目指す者たちの戦いを生みだすことが多いのですが、そんなことは北条泰時や北条時房も十分理解しています。
そこで、報を聞いた翌日である貞応3年(1224年)6月17日未明(丑刻)、まずは北条泰時が急ぎ六波羅を出立して鎌倉に向かいます。
そして、同年6月19日、遅れて北条時房も六波羅探題南方を辞して六波羅を出立して鎌倉に向かいます。
もっとも、先行して鎌倉に向かった北条泰時はそのまま鎌倉に直行はせず、途中で本領のある伊豆国・北条に入った後、同年6月26日に北条時房・足利義氏の到着を待って由比ヶ浜の別邸に一泊した後、同年6月27日、鎌倉にあった本邸に入り軍備を整えます。
なお、この北条泰時の準備行為により、鎌倉では北条泰時が北条政村を討つ準備をしているという風説が流れたそうです(吾妻鏡)。
泰時と時房が執権に(1224年6月28日)
この頃、鎌倉では、北条義時の後妻(継室)であった伊賀の方が、兄である伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を鎌倉殿に就任させた上で、北条政村(北条義時と伊賀の方との子)を執権に就任させようと画策している最中でした。
言わば鎌倉幕府を伊賀家で牛耳ってしまおうとするクーデター計画中だったのです(後妻が娘婿を鎌倉殿にしようとするというクーデター構造は、先代の北条義時の際に起こった牧氏の変と同一です。)。
ところが、この伊賀光宗と伊賀の方の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、貞応3年(1224年)6月28日、京から鎌倉に戻ったばかりの北条泰時と北条時房を自宅に呼び寄せ、大江広元立ち会いの上で、両名を「軍営御後見」(執権の別名)に就任させることにより伊賀氏に対する先手を打ちます(吾妻鏡)。
なお、この「両執権体制」の成立は、伊賀氏に対抗するために北条泰時と北条時房を協力させるためになされたものだったのですが、執権複数制という事実上の権限分掌がなされたため、後に新たな問題を生んでいます。
伊賀氏の変
いずれにせよ、北条政子が北条義時と北条時房を執権に指名したと聞いた伊賀光宗は、驚き憤慨します。
伊賀氏で鎌倉幕府を乗っ取ってしまおうとするクーデターが失敗したことが明らかとなったからです。
困った伊賀光宗は、北条政村の烏帽子親であり有力御家人でもあった三浦義村を味方につけて北条政子の決定を覆そうとしたのですが、これも、北条政子が先手を打ち、貞応3年(1224年)7月17日、北条政子が三浦義村邸を直接訪問して事実関係を問い質し、また同年7月18日、三浦義村が北条泰時邸を訪問して釈明することにより三浦義村を取り込んでしまったため失敗に終わります。
その後、貞応3年(1224年)閏7月3日、北条政子・北条時房・大江広元らが出席した宿老会議において、伊賀の方と伊賀光宗は流罪、一条実雅は京に移して朝廷の裁きに任せるとの決定が下されて伊賀氏の変は終結します。
北条泰時と北条時房との関係
こうして伊賀氏によるクーデター計画は失敗に終わったのですが、共通の敵を失ったことから、二頭体制としてしまった北条泰時と北条時房との関係が複雑となっていきます。
この複雑な関係は、御家人を二分する主導権を巡る争いともなり得るものであり、元仁2年(1225年)の元旦には、垸飯の沙汰を行った後に北条時房が鎌倉を離れて上洛する事態に発展します。
北条時房の最期
鎌倉に戻って連署となる(1225年7月)
もっとも、嘉禄元年(1225年)6月10日に大江広元、続く同年7月11日に北条政子という鎌倉幕府創成期を支えた2人が死去すると、北条家による鎌倉幕府の支配体制が弱体化することを危惧した北条泰時が、北条時房は京から呼び戻すと共に11人の評定衆を選定した上で、計13人の合議制によって政務を執るという決断を下します(執権2名【うち1名は後の連署】、評定衆11名の計13名)。
なお、表面上は同じ執権として対等な関係にあった北条泰時と北条時房でしたが、北条時房が執権の補佐役であり執権に次ぐ実質上の「副執権」といえる連署(幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの呼び名となりました。)に就任することによって北条泰時を支えるという体制となり、実質的には北条泰時の権限が北条時房に優越していくこととなりました。
もっとも、必ずしも一族内の基盤が強いとは言えなかった北条泰時は、北条時房に対して厳しい態度に出ることはできませんでした。
対する北条時房は、北条泰時に対する反発心があり、嘉禄元年(1225年)12月20日に北条泰時主導で宇都宮辻子御所への鎌倉幕府移転が行われたのですが、その翌日の評定始の席で北条泰時が今後全ての賞罰を泰時自身で決定する旨を宣言すると、これに反発した北条時房が突然病気になったとして同年12月29日に行われた藤原頼経の元服を欠席するというストライキを起こすなどの行動を起こしています。
政所別当となる(1232年)
長老格である北条時房に敬意を尽くすことで一族の求心力を維持することを強いられた北条泰時は、終始北条時房に配慮を続けます。
実際、貞永元年(1232年)、第4代鎌倉殿(征夷大将軍)となった藤原頼経が従三位に叙位されことから政所を設置できるようになったのですが、北条泰時は、政所筆頭別当の座を北条時房に譲り、自身は次席別当につくこととして北条時房に配慮しています。
北条時房死去(1240年1月24日)
その後、北条時房は、天福2年(1234年)1月26日に従四位下に、また嘉禎3年(1237年)1月5日に従四位上に昇叙、同年3月4日に修理権大夫を兼任、嘉禎4年(1238年)閏2月27日に正四位下に昇叙するなどして順調に出世を重ね、また鎌倉幕府内でも北条家の長老として大きな力を行使していくこととなります。
そして、北条時房は、延応2年(1240年)に1月24日死去します。享年は66歳でした。
北条時房の死後
北条時房の死後、六波羅探題を務めていたその長男の北条時盛(後の佐介家)が急遽鎌倉に戻って鎌倉に留まり執権に伺候することを幕府に上申したのですが、北条時房の一族の政治力を排除するためこの上申は却下されます。
そればかりか、北条泰時は、北条時房の長男を排し、北条泰時の娘婿でもあった北条時房の四男・北条朝直(後の大仏家)を重用することで時房流を分裂させ、泰時流(後の得宗家)の安定化を達成しています。