歴史好きが戦国最強の武将を挙げる場合に名が多く挙がる本多忠勝。
徳川家康に従って大小57回もの戦に参戦し、一度も傷を負わなかったという化け物です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などからもその武勇が称賛され、特に、徳川家にとっては、徳川家康の命を数多く救ってきたこともあり徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑などにも名が挙がる江戸幕府成立の最大の功労者とも言えます。
本稿では、そんな本多忠勝の生涯について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
本多忠勝の出自
出生(1548年)
本多忠勝は、天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)において、安祥松平家(徳川本家)の譜代家臣である本多忠高の嫡男として生まれます。
幼名は鍋之助、通称は平八郎と言いました。
天文14年(1545年)の第二次安祥合戦において祖父である本多忠豊が松平広忠を逃がすため殿軍を務めて討死し、また、天文18年(1549年)の第三次安祥合戦で父である本多忠高が討死にしたため、本多家の存続が危うくなります。
叔父・本多忠真に育てられる(1549年~)
このとき、本多忠高には弟である本多忠真がいたため、本多忠真に本多家を継がせるという選択もあったのですが、本多忠高の嫡男である幼い本多忠勝に本多家の家督を継がせ、本多忠真がこれを引き取ってその後見に当たることとして本多家を存続させることとなりました。
この結果、本多忠勝は、欠城において叔父である本多忠真の下で育てられ、その教育を受けて成長していきます。
数々の武功
初陣(1560年5月)
永禄3年(1560年)、本多忠勝は、13歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れと丸根砦の戦いで徳川家康の指揮下において初陣を果たすこととなり、初陣前に急いで元服をします。元服の際、「戦いにただ勝つのみ」という意味を持たせて、名を「忠勝」としています(通称は、平八郎)。
もっとも、猛将・本多忠勝であっても初陣は簡単ではなかったようで、このときは敵将である織田方の山崎多十郎に討ち取られそうになったところを辛くも叔父・本田忠真から槍を投げつけて救われるという散々な結果に終わっています。
その後、本多忠勝は、永禄5年(1562年)の鳥屋根攻めに参戦し、初の首級を挙げています。
なお、このときまでなかなか初首を挙げることができなかった本多忠勝を憐んで、叔父・本多忠真が、自身が組み伏せた相手を指して、本多忠勝にこの者の首を取って武功とするよう指示したところ、本多忠勝が、「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」(人の力で得た首が、どうして私の武功となりましょうか)と答え、そのまま敵陣に突っ込み、初首を挙げたと言われています。
三河一向一揆(1563年)
永禄6年(1563年)、西三河の統一戦を進める中で発生した三河一向一揆では、松平家譜代家臣や、本多一族からも一揆方に付く者が出てくる中、本多忠勝は、自らの信仰を一向宗から浄土宗に改宗してまで徳川家康側に残って参戦しています。
永禄9年(1566年)、三河国の統一を果たした徳川家康は、軍の再編を行い、家臣団を家康旗本衆・東三河衆・西三河衆の3つに家臣団を分けたのですが、このとき本多忠勝は19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である家康旗本衆に抜擢され、与力54騎を付属されています(与力1人に数人の供がいますので、実際には300人程度を率いる大将となります。)。
旗本先手役を拝命(1566年)
徳川家康は、永禄9年(1566年)に東三河平定戦を勝利で終えて三河国を統一した後、軍制改革を行い、軍を徳川家康旗本衆、西三河衆(旗頭石川家成、後に石川数正)、東三河衆(旗頭酒井忠次)に分けて再編成します(三備の制)。
このとき、本多忠勝は、徳川家康直轄の旗本衆のうちの旗本先手役の1人に抜擢され、55人の与力が付けられます(数十人の武士がそれぞれ数人の兵を従えていますので、実際には200〜300人を率いる大将です。)。
姉川の戦いでの単騎駆け
元亀元年(1570年)6月、姉川の戦いに参加したのですが、朝倉軍8000人が織田・徳川連合軍の西側に布陣していた徳川家康本陣に攻め込んで来たのです。
圧倒的な兵数で攻め込んでこられた徳川軍は混乱するのですが、この混乱を鎮め、かつ士気を鼓舞するため、本多忠勝が、敢えて単騎で朝倉軍8000人に突撃します。
その姿を見た三河武士達が、本多忠勝を死なせまいとして奮戦したそうです。
朝倉軍に突撃した本多忠勝は、朝倉軍の客将で越前の千代鶴国安作と云われる長さ五尺三寸(175cm)もの大太刀「太郎太刀」を振り回す怪力で知られた真柄直隆と一騎討ちとなりますが、この一騎討ちの間に朝倉軍が退去したために勝負はつかずに終わります。
なお、真柄直隆は、本多忠勝との一騎討ち後、退去する朝倉軍の殿を買って出て討ち死にしています。
一言坂の戦いの殿戦(1572年10月14日)
武田信玄の西上作戦に直面した際には、元亀3年(1572年)10月14日に発生した一言坂の戦いでは徳川家康を逃すため、大久保忠佐と共に殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、何とか徳川家康を退去させることに成功しています。
三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572年)12月、徳川家康の生涯最大の命の危機である三方ヶ原の戦いでは、徳川方大惨敗後の撤退戦において、迫りくる武田方の追撃部隊を撃退し続け、徳川家康を居城・岡崎城にまで送り届けることに成功しています。なお、このときの撤退戦で本多忠勝の育ての親ともいえる本多忠真が討死しています。
天正元年(1573年)武田信玄の西上作戦の際に武田方に奪われた長篠城奪還戦では9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入っています。
天正3年(1575年)の長篠設楽原の戦いの激戦である設楽原決戦、天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参加しています。
なお、設楽原決戦後、本多忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚痴をこぼしたといわれています。
徳川家康の伊賀越え
天正10年(1582年)6月に起こった本能寺の変の際、堺に滞在していた徳川家康に伊賀越えをして岡崎に戻るよう諭し、その道中も同行して護衛をしています。
小牧長久手の戦い(1584年4月)
天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いでは、当初、徳川家康が小牧山城に入っていたのですが、小牧山城を攻めあぐねた豊臣軍から池田恒興・森長可らが率いる別動隊が編成され、三河国への進軍を始めたため、徳川家康がこれを追って小牧山城から出撃し、本多忠勝その際の小牧山城の守りを任されます。
この後,徳川家康は、長久手の戦いで見事池田恒興・森長可隊を壊滅させる戦果を挙げたのですが、このとき豊臣秀吉が徳川家康隊追撃軍を派遣したため、徳川家康本隊が、危機に陥ります。
この報を聞きつけた本多忠勝は、500名の兵を率いて小幡城に入っていた徳川家康の下へ駆けつけ、豊臣軍と徳川軍の間に流れていた龍泉寺川に単騎で乗り入れて5町(500m)前にいた豊臣軍の前に立ちはだかり、悠々と乗っていた馬の口を洗わせて豊臣秀吉を挑発します。
この本多忠勝の行動を見た豊臣秀吉指揮下の武将達は激怒し、本多忠勝を討つべしと意見を述べたのですが、豊臣秀吉は、その豪胆な振舞いから本多忠勝を東国一の勇士と賞賛して殺すことを惜しんだため、結局徳川家康を取り逃す結果となりました。
その後、小牧長久手の戦いは、豊臣秀吉と織田信雄が和睦して織田信雄が戦線を離脱したため、大義名分を失ってしまった徳川家康が三河に帰国し、決着がつくことなく終わっています。
なお、本多忠勝は、龍泉寺川での行動によってその武名を轟かせ、豊臣秀吉から、西の立花宗茂と双璧をなす「天下無双の東の大将」と称賛されるに至っています(なお,この小牧長久手の戦いの活躍が豊臣秀吉の目に留まり、酒井忠次・榊原康政・井伊直政の3人が徳川三傑と呼ばれるようになり、本多忠勝は戦後に豊臣秀吉の推挙により従五位下中務大輔に任命されています。なお、いつの頃からか、この徳川三傑に酒井忠次を加えて徳川四天王と呼ばれるようになっています。)。
天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉の命により、天正壬午の乱以降沼田領問題・第一次上田合戦などで徳川家康と対立していた真田昌幸が徳川家康の与力大名とされたのですが、このとき徳川・真田両家の結びつきを強めるため、本多忠勝の娘である小松姫が、真田昌幸の嫡男真田信之に嫁いでいます。
また、同じ目的で、本多忠勝の妹の栄子姫が、豊臣秀吉の有能官吏でえる長束正家に嫁いでいます。
上総国大多喜10万石を与えられる
天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉によって徳川家康が関東に移封されると、本多忠勝もこれに伴って関東に移り、上総国大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)10万石を与えられます。
一家臣である本多忠勝に対し、大名格ともいえる10万石もの大領が与えられたのは、それまでの武功が突出していたということもあるのですが、隣接する安房国里見家によって江戸湾を封鎖されて水運が遮断されるのを防ぐため、これに対して睨みをきかせるという目的がありました。また、北条系の国人衆に対する備えと言う意味もありました。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こり、53歳になった本多忠勝は、東軍の作戦指揮官である軍監となって500人の兵を率いて参戦し、豊臣恩顧の大名を監視する役を担います(そのため、本多隊は、嫡男本多忠政が指揮しています。)。
もっとも、大きな戦に武将としての血が騒いだのか、本多忠勝自らが、前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦い本戦でも僅かな手勢を伴って奮戦し、90にも及ぶ首級をあげる活躍をしています。
そして、東軍の勝利が確定した後のいわゆる島津の退き口の際には、徳川秀忠から拝領した名馬・三国黒にまたがってこれを追撃したのですが、同馬が鉄砲で撃たれて本多忠勝が落馬しています(この様子は、関ヶ原合戦図屏風に描かれています。)。
なお、関ヶ原の戦い終了後、福島正則が本多忠勝の武勇を褒め称えたところ、本多忠勝は謙遜して、「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えるなど、飾らない人柄を感じさせるエピソードが伝わっています。
また、本多忠勝は、娘婿である真田信之を高く買っていたため、関ヶ原の戦いで西軍についたその父真田昌幸と弟真田信繁を処刑しようとした徳川家康に対して、この2人の助命嘆願をし、聞き入れられなければ徳川家康と一戦仕ると言って、これを聞き入れさせ、その命を繋いだという逸話が残っています。
本多忠勝の晩年
桑名藩創設
慶長6年(1601年)、本多忠勝に伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石が加増され、同地に移ります。
このとき、徳川家康は、旧領である上総国夷隅郡大多喜をも本多忠勝に留めて桑名加増により15万石とするつもりでしたが、本多忠勝がこれを固辞したため、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に与えられて別家5万石の藩主とされました。
蜻蛉切の切り詰め
本多忠勝が、「日本号」、「御手杵」(おてぎね)と並ぶ「天下三名槍」の1つである蜻蛉切を使っていたことはあまりにも有名です。
蜻蛉切は、徳川に仇なす刀と言われた曰く付きの村正一派である「三河文殊派」の刀工、「藤原正真」(ふじわらまさざね)によるものだと言われています。
蜻蛉切は、村正の特徴である類稀なる切れ味を受け継いでおり、戦場で飛んでいたとんぼが槍先に止まった際、触れただけで真っ2つになってしまったことからその名が付けられたと言われています。
また、蜻蛉切は、その長さも特徴的であり、2丈余(約6m) もある大身槍で(通常の槍の長さは大体5m位です。)、漆黒の柄には青貝(夜光貝)の螺鈿細工が施されていたと言われています。
もっとも、関ヶ原の戦いが終わってしばらく経ったころ、自らの老を悟った本多忠勝は、得物は自分の身の丈に合った物が1番良いとして、蜻蛉切を3尺(約90.9cm)切りつめさせていますので、この螺鈿細工部分は現存していません。
また、本多忠勝といえば、蜻蛉切に、「鹿角脇立兜」、「黒糸威胴丸具足」、金の大数珠が特徴的です。なお、金の大数珠は、自身が死に追いやった死者を弔う意図があったようです。
また、この他、刃渡り三尺(役割1m)の愛刀「稲剪」、徳川秀忠から拝領した黒馬「三国黒」も有名です。
蜻蛉が出れば蜘蛛の子散らすと唄われ、恐れられました。
武断派から文治派の時代へ
関ヶ原の戦いの後は、徳川家の力が大きくなったため、平和な時代となり、本多忠勝のような武断派よりも、本多正信・本多正純などの若く文治に優れた吏僚派が徳川家康・徳川秀忠の側近として台頭してくるようになります。
このことについては、本多忠勝はあまり快く思っていなかったようで、特に本多正信のことが嫌いであったようで、「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てていたとの逸話が残っています。
本多忠勝は、慶長9年(1604年)ころから、病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかりました。なお、このとき、本多忠勝は、徳川家康に対して隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されています。
その後、本多忠勝は、さらに眼病を煩うなどしたため、慶長14年(1609年)6月、本多家の家督を嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居しています。
死去(1610年10月18日)
そして、慶長15年(1610年)10月18日、本多忠勝は、本拠地桑名で死去します。
生涯において大小57回の戦に参加したもののいずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったとされる猛将の最期です。享年63歳でした。
死因については、それまでの病状に鑑みて糖尿病であったのではないかと推測されています。
なお、本多忠勝は、死ぬ数日前に小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた際に手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったのですが、そのときに本多忠勝ともあろう者が傷を負うとは終わりだな(死期が近いな)と呟き、その言葉の通りに数日後に亡くなったといわれています。
遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っています。
この本多忠勝の忠誠心は、本多家の家紋にも表れています。
本多家の家紋は「丸に立ち葵」であり、徳川家の家紋である「葵の御紋」に似ています。
この「葵の御紋」は、徳川家の権威の象徴であり、その使用は厳しく制限されました。
ところが、家臣筋に過ぎない本多家が別系統とは言いながら葵の紋の使用を許されていたのは異例中の異例と言え、いかに本多家が徳川家からの信頼を得ていたのかがわかります。