【本多忠真】三方ヶ原の戦いで殿を務めて散った本多忠勝の叔父

本多忠真(ほんだただざね)は、徳川四天王となる本多忠勝を育てた武将です。

本多家当主であった父・兄を立て続けに失ったため、本多家当主となる機会があったにも関わらず、甥である本多忠勝にそれを譲り、さらに本多忠勝を後見して東国無双と言われるまでに育てあげています。

その最期は壮絶であり、三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康の退却時間を稼ぐために殿を務め、迫り来る武田軍と戦い討死を果たしています。

本多忠真の出自

出生(1531年?1534年?)

本多忠真は、享禄4年(1531年)又は天文3年(1534年)、藤原北家兼通流・本多氏の本多忠豊の次男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県額田郡)で生まれます。母親は不明です。

成長した本多忠真は、父・本多忠豊や兄・本多忠高と共に松平家の家臣となり安祥松平家3代松平清康・同4代松平広忠に仕えます。

父と兄が相次いで討死

本多忠真が元服した頃は、西三河国南部を巡って、松平家・織田家・今川家が三つ巴の戦いを繰り広げていた時期でした。

そんな中、天文14年(1545年)の第二次安祥合戦で父・本多忠豊が松平広忠を逃がすため殿軍を務めて討死し、また、天文18年(1549年)の第三次安祥合戦で兄・本多忠高が討死にしたため本多家の存続が危うくなります。

本多忠勝を引き取る(1549年)

父と兄が死去したとはいえ本多家には成人である本多忠真(当主であった本多忠高の弟)がいたため、本多忠真に本多家を継がせるという選択もあったのですが、本多忠高の嫡男である当時2歳であった鍋之助(後の本多忠勝)に本多家の家督を継がせることとなりました。

もっとも幼い鍋之助に家を守ることなどできようはずがありませんので、鍋之助が成人するまでの間は本多忠真が事実上の当主代行となり、本多忠高の妻とその子である鍋之助を引き取ってその後見に当たることとなりました。

そして、この後、本多忠真が、本拠である欠城において鍋之助に武芸や本多家当主としての心得を叩き込んでいきます。

本多忠真は、槍の名手であったと言われており、彼に師事した鍋之助(本多忠勝)もまた槍の達人となります(本多忠勝の愛槍である蜻蛉切はあまりにも有名です。)。

本多家当主となった本多忠勝を補佐する

本多忠勝初陣の補佐(1560年5月19日)

永禄3年(1560年)に始まった今川義元の西上作戦の際には、先行部隊として出撃し、同年5月19日に大高城兵糧入れを成功させた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていましたが、本稿では徳川家康の名で統一します。)隊が、そのまま織田方の佐久間盛重が守る丸根砦に攻め込みます。

このとき、本多忠真は、本多忠勝(この直前に元服して鍋之助から名を改めています。)と共に朝比奈泰朝の指揮下で鷲津砦攻めに参加していたところ、初陣で逸った本多忠勝が織田方の武将・山崎多十郎に討ち獲られそうになったときに、槍を投げつけて窮地を救っています。

その後も、本多忠真は、永禄4年(1561年)に尾張国石瀬で水野信元との合戦で武功をあげるなど、その後も本多忠勝の補佐役として、数々の合戦に従軍します。

永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆の際には、本多忠勝と共に徳川家康に与しています。

本多忠勝の武功をアシスト

本多家当主となった本多忠勝を補佐する本多忠真でしたが、後に東国無双と言われる本多忠勝も、当初はなかなか武功を挙げることができませんでした。

そこで、本多忠真は、永禄5年(1562年)の鳥屋根攻めの際に、それまで首級を挙げることができていなかった本多忠勝を憐んで、自身が組み伏せた相手を指して、本多忠勝にこの者の首を取って武功とするよう指示します。

これに対し、本多忠勝が、「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」(人の力で得た首が、どうして私の武功となりましょうか)と答え、そのまま敵陣に突っ込み、初首を挙げたと言われています。

肥後守を名乗る

また、正確な時期は不明ですが、本多忠真は、徳川家から肥後守の受領名を与えられ、本多肥後守忠真と名乗るようになります。

なお、この肥後守は、朝廷から与えられた官職ではなく、徳川家が名乗ることを許したに過ぎない受領名に過ぎません。

本多忠真の最期

三方ヶ原の戦い

元亀3年(1572年)12月22日に起こった三方ヶ原の戦いの際には、本多忠真もまた息子である菊丸と共に参戦します。

もっとも、この戦いでは、徳川軍は老練な武田信玄の待ち伏せに遭い大敗を喫します。

本多忠真討死(1572年12月22日)

徳川軍の敗戦がほぼ決定した段階で、徳川家臣団は徳川家康に対して退却を進言します。

ところが、頭に血が上っていた徳川家康は、この進言を聞き入れることができず、そればかりか武田軍に突撃をして討ち死にすると言い出しました。

興奮している徳川家康を説得することは困難であると判断した夏目広次が、徳川家康を逃すために強引に徳川家康の乗馬の向きを浜松城方向に向けた上で刀のむねでその尻を打ち、浜松城に向かって走らせます。

その上で、夏目広次は、徳川家康の退却時間を稼ぐためにその身代わりとなり、十文字槍を持って25~26騎を率いて武田軍に突撃し、そのまま武田軍に取り囲まれて討死にします(寛政重修諸家譜)。享年は55歳でした。

こうして退却を始めた徳川家康でしたが、すぐに武田軍が負ってきます。

そこで、さらなる退却時間を稼ぐために、本多忠真が殿を買って出ます。

本多忠真は、子である菊丸に対して徳川家康を守るようにと言い含めて菊丸を徳川家康に付けて浜松城に向かわせ、自身は道の左右に旗指物を突き刺し追ってくる武田軍と対峙します。

本多忠真は、追撃してきた武田軍の中に刀一本で立ち向かい、壮絶な討死を果たします。享年は39歳(または42歳)でした。

なお、このときの本多忠真の働きを称え、明治24年 (1891年)に静岡県浜松市にある犀ヶ崖資料館(静岡県浜松市中区鹿谷町)顕彰碑が建立されました。

菊丸のその後

父・本多忠真の命により徳川家康を援護しながら浜松城への退却を成功させた菊丸は、父の遺骸を三河に葬った後でこの世の無常を憂いて出家しました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA