姉川の戦いは、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが最初に決戦をした合戦です。
この戦いの主戦力であった織田家と浅井家では、主戦場があった場所から「野村合戦」と呼んでいたのですが、この戦いに参戦し、後に天下を統一した徳川家が「姉川の戦い」と呼んでいることから、この表記が一般的となりました。
正面衝突だったのか奇襲だったのか、はたまた大戦だったのか小競り合いだったのかなど、戦いの内容についてついては諸説ありますが、いずれにせよ織田信長が南近江の支配権と岐阜・京都の進軍ルートを取り戻し、さらには琵琶湖水運を得た戦であったことは間違いないありません。
本稿では、いわゆる旧来の通説を基に、姉川の戦いについて、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。
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姉川の戦いに至る経緯
織田信長上洛(1568年9月)
永禄8年(1565年)に尾張国を平定した織田信長は、美濃国を攻略するために近江を治める浅井長政に妹お市を嫁がせて同盟を結びます。
その後、永禄10年(1567年)に西美濃・中美濃を平定した織田信長は、永禄11年(1568年)9月7日、足利義昭を奉じて岐阜を出発して上洛作戦を開始します。
そして、同年9月12日~9月13日に観音寺城の戦い(箕作城の戦い)で南近江を治める六角義賢・義治父子を撃破し、そのまま上洛を果たします。
京に入った織田信長は、同年9月28日の勝竜寺城の戦いをはじめとする諸戦により三好三人衆を阿波国に追い払い、同年10月22日に足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させ、その後瞬く間に畿内を制圧します。
金ヶ崎の退き口(1570年4月)
畿内を制圧した織田信長は、自分の地盤を固めていくため、征夷大将軍・足利義昭に御内書を乱発させて周囲の大名に上洛を促していきます。各大名に対する、織田信長への事実上の臣従圧力です。
当然各大名は反発します。
特に、強大な経済力・軍事力をもって11代(戦国5代)に亘って越前を治める越前朝倉氏当主朝倉義景は、完全無視を決め込みます。
無視された織田信長は激怒し、元亀元年(1570年)4月、将軍に対する叛意ありとして朝倉討伐のため、越前国一乗谷へ侵攻します(もっとも、当初の出兵の名目は若狭国の解放でした。)。
ところが、ここで織田信長に人生最大の危機が訪れます。
越前侵攻中に、北近江を治める義弟・浅井長政が織田信長を裏切り、織田軍を挟撃するために出兵してきたのです。
越前国に入り込んでいた織田軍は、挟撃を受ける形となって大混乱となり、池田勝正・明智光秀・木下秀吉を殿として金ヶ崎城に残して、織田信長が命からがら京都に撤退するという大敗を喫します(金ヶ崎の退き口)。
織田信長が岐阜に戻る(千草越え)
なんとか京に戻った織田信長は、その後体勢を立て直すため、元亀元年(1570年)5月9日、本拠地である岐阜に戻るため京を発つこととしたのですが、北近江を押さえる浅井長政が敵に回っているため最短ルートで本拠地に戻ることができません。なお、このとき越前からも朝倉景鏡率いる2万人が織田信長を追って北近江まで進んでいました。
そこで、織田信長は、岐阜へ戻るために山道となる千草峠越えルートを選ぶのですが、同年5月19日、その途中で織田信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢が手配した杉谷善住坊に至近距離から2発狙撃されるという事件に遭います(幸いにもかすり傷で済んでいます。)。
同年5月21日、命からがら岐阜に戻った織田信長は、体勢の立て直すために宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、旧安土城に中川重政を配置するなどして、煮え湯を飲まされた浅井長政・朝倉義景に対する反撃準備を開始します。なお、ここで徳川家康もまた岡崎に戻っています。
野洲河原の戦い(1570年6月4日)
ここで、金ヶ崎での敗北により織田信長の威信が低下したのを好機と見た六角義賢・義治父子が、織田信長を追撃する浅井・朝倉連合軍とで織田信長に対する二面作戦で攻撃する目的(六角方からすると旧領回復目的)で兵を挙げ、甲賀武士達と糾合して織田領となっていた旧六角領である南近江へ向かいます。
もっとも、織田軍は朝倉景鏡軍を捨て置き、まずは六角軍への対策を先行させます。
織田信長は、南近江に入れていた柴田勝家・佐久間信盛らの諸将を野洲河原に向かわせ、元亀元年(1570年)6月4日、北進してきた六角軍を打ち破ってこれを壊滅させます(野洲河原の戦い)。
こうして六角軍が壊滅したことにより二面作戦が失敗に終わった浅井・朝倉連合軍は、やむなく垂井や赤坂に火を放って兵を美濃国から北近江に撤退させ、侵攻してくるであろう織田軍を待ち受けることとします(朝倉軍は、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施して兵を入れて防備を固めた上で、同年6月15日に一旦越前国に戻って体制を立て直しています。)。
織田軍小谷城へ(1570年6月21日)
ところが、この朝倉軍の一時撤退が裏目に出ます。
朝倉軍主力が越前国に撤退したのを見た浅井方の鎌刃城の堀秀村と、長比城の樋口直房とが相次いで離反して織田信長に与してしまったのです。
鎌刃城と長比城を得たことで北近江への橋頭堡を得た織田信長は、周囲の勢力を徴発した上で、元亀元年(1570年)6月19日、小谷城を攻略すべく岐阜を出立し、その日のうちに長比城に入ります。
他方、織田信長の動きを見た浅井長政も動きます。
鎌刃城と長比城を失ったことにより新たな最前線となった小谷城の南側を守る横山城に3000人の兵を入れ、新たな防衛網を構築したのです。
これに対し、織田信長は、同年6月21日、浅井長政を釣り出すために一旦は横山城を包囲しますが浅井長政がこれに乗ってこないことを確認すると、包囲の兵を残して小谷城に向かって進軍していきます。
小谷城下焼討ち(1570年6月21日)
小谷城に迫った織田軍でしたが、小谷城は名高い堅城であったため力攻めをすれば甚大な損害を被ると判断した織田信長は、小谷城下での野戦での決着を試みます。
そこで、織田信長は、率いてきた軍を小谷城のすぐ南側にある虎御前山に布陣し、浅井長政を小谷城から誘い出す目的で佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚・斎藤利治・木下秀吉らに命じて、小谷城城下町を広範囲に渡って焼き払わせて挑発します。
ところが、この織田信長の行為に対し、寡兵の浅井長政は沈黙を続け、浅井軍が小谷城から討って出ることはありませんでした。
そのため、織田信長は、浅井長政との小谷城下での野戦による決着を諦め、同年6月22日、佐々成政・簗田広正・中条家忠らに鉄砲隊500・弓兵30を預けて殿として残して横山城近くの竜ヶ鼻砦へ移動することとしました。なお、このとき後退する織田軍に対して、小谷城から出た浅井軍が追撃戦を仕掛けますが、織田信長軍の殿軍により退けられています。
横山城攻撃(1570年6月24日)
元亀元年(1570年)6月24日、竜ヶ鼻砦に入った織田信長は、1万8000人の兵をもって横山城への攻撃を総再開します。
また、ここに三河・遠江からはるばるやってきた徳川家康率いる5000人が合流したため、織田・徳川連合軍の兵力は2万3000人となります。
朝倉援軍到着(1570年6月26日)
他方、元亀元年(1570)6月26日、浅井方にも朝倉景健率いる8000人の朝倉援軍が到着します。
これにより浅井・朝倉連合軍(浅井軍5000人・朝倉軍8000人)の兵力が1万3000人となったため、織田・徳川軍に対峙する兵力が整ったと判断した浅井長政は、同年6月27日、小谷城から兵を出して朝倉援軍と共に大依山に布陣します。
姉川の戦い
両軍布陣(1570年6月28日未明)
前記のとおり、大依山(浅井・朝倉連合軍)と竜ヶ鼻砦(織田・徳川連合軍)とがにらみ合う形となったのですが、元亀元年(1570年)6月27日、浅井・朝倉連合軍に陣払いの動きが見えます。
ところが、同日夜になっても朝倉の陣に煌々と松明が灯されているのを見た織田信長は、浅井・朝倉連合軍が撤退するのではなく決戦のための準備をしているものと判断します。
実際、浅井・朝倉連合軍は、同日夜のうちに大依山から南側の姉川北岸に向かって進軍を開始し、浅井軍が野村・朝倉軍が三田村に到着します。。
その後、浅井軍は、第1隊が磯野員昌・第2隊が浅野政澄・第3隊が阿閉貞秀・第4隊が新庄直頼の計5000~8000人の布陣であり、また朝倉軍は、第1隊が朝倉景紀・第2隊が前波新八郎・第3隊が朝倉景健の計8000~1万人という並びで布陣します。
これに対し、織田信長もまた、急いで横山城を包囲していた軍の一部を引き上げさせ、浅井軍の対面に織田軍を、朝倉軍の対面に徳川軍に向かいます。
そして、織田軍は、2列に並んで計1万8000~2万3000人にて布陣し、徳川軍は、第1隊が酒井忠次・第2隊が小笠原長忠・第3隊が石川数正の計5000~8000人という並びで布陣します。
こうして、両者が姉川を挟んで布陣し、姉川の戦いの準備が整って朝を待ちます。
なお、このときの両軍の布陣については諸説ある上、織田信長が浅井・朝倉連合軍の動きを察知できずに奇襲を受けたとの説もあることから、必ずしも正確な状況はわかっておりません。
開戦(1570年6月28日午前6時)
そして、夜が明けた、元亀元年(1570年)6月28日午前6時頃、運命の戦闘が始まります。
戦は、西側に布陣していた朝倉軍と徳川軍から始まります(朝倉軍が姉川を渡っていって始まったとする説や、徳川軍が鉄砲を撃ちかけて始まったとする説などがあります。)。
員昌の姉川十一段崩し
また、西側で戦いが始まったのに呼応し、東側に布陣していた浅井軍も姉川を渡河して南進し、織田軍に攻めかかります。
このとき、次々に姉川を渡って押し寄せる磯野員昌を始めとする浅井軍に対して、柴田勝家・木下秀吉などの名だたる織田方の陣が次々と突破され、浅井軍が織田信長本陣に迫ります。なお、このときの磯野員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残されています(浅井三代記)。
また、開戦当初は、織田軍のみならず徳川軍もまた苦戦し、いずれも本陣に迫られる危機的状況となりました。
朝倉軍に攻め込んでこられた徳川軍は混乱するのですが、この混乱を鎮め、かつ士気を鼓舞するため、猛将・本多忠勝が、敢えて攻め寄せてくる朝倉軍に単騎で突撃します。
このときに朝倉軍に突撃した本多忠勝は、朝倉軍の客将で越前の千代鶴国安作と云われる長さ五尺三寸(約175cm)もの大太刀である「太郎太刀」を振り回す怪力で知られた真柄直隆と一騎討ちとなりますが、この一騎討ちの間に朝倉軍が退去したために勝負はつかずに終わったといわれています。
織田・徳川連合軍による反撃
苦戦を強いられていた徳川家康でしたが、勢いにのって突き進んでくる朝倉軍の陣形が伸びきっていることを反撃の好機と見て、榊原康政に命じて別働隊を率いさせて西側から姉川を迂回させ、侵攻してくる朝倉軍の西側(朝倉軍の右側)側面を攻撃させることとします。
これに対し、予想していなかった側面攻撃を受けた朝倉軍は大混乱に陥ります。
そして、次第に劣勢となった朝倉軍は、徳川軍の攻撃を支えきれなくなり撤退を始めます。
なお、撤退する朝倉軍では、本多忠勝との一騎討ち後の真柄直隆が殿を買って出て本軍の退却時間を稼いだ後、討ち死にしています。
また、朝倉軍の撤退に伴い、一方的に押されていた織田軍も息を吹き返します。
織田軍の劣勢を見た、横山城包囲部隊であった丹羽長秀・氏家卜全・安藤守就等が、救援に駆けつけて浅井軍に東側から襲いかかり、また朝倉軍が後退したことにより自由となった稲葉一鉄が西側から浅井軍に攻撃をしかけます。
三方から攻撃を受けた上、さらに朝倉軍を退けた徳川家康が後方(北側)に回り込もうとする動きをしたことにより、浅井軍は総崩れとなり、小谷城に向けて撤退します。
なお、総崩れとなって大敗が濃厚となった浅井軍において、遠藤直経が一計を案じて織田信長暗殺を試み、織田方の武将になりすまして味方武将である三田村左衛門の首級を掲げて織田方の陣に入りこみんだのですが、織田信長まで数十mに迫ったところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)またはその後見として参加していた不破矢足に見抜かれて捕らえられ討ち取られています。
決着
織田信長は、後退する浅井軍を追いかけて、小谷城から50町ほどの距離まで追撃してふもとの家々に放火したものの、そのまま小谷城を攻略することまでは困難であると考え、横山城下へ後退し、姉川の戦いは終わります。
異説(参考)
以上が旧来からの定説ですが、江戸時代に徳川家康の活躍を必要以上に吹聴するために盛りに盛って創作したものであるとも言われており、その信用性については疑問も呈されています。
近年では、姉川の戦いは、横山城包囲中の織田軍本陣を浅井軍が奇襲したものであり、徳川軍もそれほどの活躍をみせていないとする説も有力となっています。信長公記にも、この説に整合する記載もあります。
また、両軍合わせて3万人を超える大戦であったにもかかわらず損害がそれほど大きくなく、大戦直後から新たな戦を繰り返していることから見ても、浅井・朝倉軍の大敗であったとするには疑問も感じます。
私は、学者ではありませんので、真偽はわかりませんが、従来の通説や、別の説など、色々考えながら歴史に思いを馳せることができる興味深さがありますね。
姉川の戦いの後
北近江の戦局
小谷城への攻撃を諦めた織田軍は、そのまま南下して横山城の包囲攻撃を続けて横山城を降伏させます。
この後、南側で孤立した佐和山城の磯野員昌が織田方に降伏したことにより、織田信長は岐阜と京の導線を確保するという目的を達成します。
そして、織田信長は、木下秀吉を城番として横山城に入れ、以降、小谷城攻撃準備を進めていくこととなります。
畿内の戦局
他方、姉川の戦いに勝利し岐阜と京との導線を回復した織田信長でしたが、姉川の戦いに畿内の兵をも動員しため、織田方の主力部隊が畿内からいなくなります。
この隙をつき、元亀元年(1570年)6月19日、三好三人衆が、摂津池田城主・池田勝正の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取します。
また、上洛したおた四国に追いやられていた三好三人衆もまた、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。