【杉谷善住坊】織田信長の狙撃に失敗し鋸挽き刑に処された男

杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)という名を聞いたことがありますか。

この名を聞いてピンときたあなたは相当の日本史マニアです。

杉谷善住坊は、織田信長を狙撃した人物として有名な人物です。

杉谷善住坊の出自

杉谷善住坊の出自については、生年を含めて全くわかっていません。

出身についても、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者とも、伊勢国菰野の杉谷城の城主とも、あるいは雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれているがこれらも全て真偽は不明です。

鉄砲の名手であったという以外は、何1つわかっていない人物です。

織田信長を狙撃(1570年5月19日)

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、足利義昭の名を使って全国の大名に上洛を命じます。

ところが、越前国の大名朝倉義景はこれを無視します。

怒った織田信長は、元亀元年(1570年)4月、大軍を率いて京から越前へ出陣します。

ところが、ここで織田信長に人生最大の危機が訪れます。

越前に向かって侵攻している途中、義弟である北近江を治める浅井長政の裏切りにあったのです。

越前にいるときに退路を断たれる形となった織田軍は、混乱し朝倉義景軍に大敗します。

織田信長は、明智光秀・豊臣秀吉を殿に残して、命からがら京都に撤退するという結果に追い込まれます(金ヶ崎の退き口)。

そして、命からがら京都にたどり着いた織田信長は、その後体勢を立て直すため、岐阜に戻ることとします。

この点、京から岐阜に戻るには、現在の彦根・米原の辺りから東へ向かうルート(現在の東海道新幹線が走るルート)が最短・最楽な一般的ルートなのですが、この辺りは北近江を支配する裏切者の浅井長政が通してくれるはずもありません。

実際、浅井長政は、鯰江城(滋賀県東近江市)に兵を配置したり、市原(同)の一揆勢を扇動したりするなどして織田信長の岐阜帰還の妨害工作を行っています。

そこで、織田信長は、日野の蒲生賢秀、布施の布施公保、香津畑の菅秀政らの協力の下、伊勢方面へ抜ける南側の千草峠を越えるルート(千草街道)を通る道を選択します。

前記最短ルートよりも30kmほど遠回りになるものの、浅井長政に妨害されない安全なルートであると織田信長は判断しました。

ところが、このときに金ヶ崎の退き口で命からがら京に逃れた織田信長が、本拠地岐阜に帰還する際に必ず千草峠を越えると踏んだ人物がいました。

元近江国の守護で南近江を治めていた六角義賢です。

六角義賢は、永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで織田信長に追われ伊賀に逃げていたのですが、元々南近江に土地勘がありますので、織田信長の帰還ルートを正確に予想できました。

六角義賢は、急ぎ杉谷善住坊という鉄砲の名手を雇い、千草峠で織田信長を狙撃して暗殺するという計画を立てました。

そこで、杉谷善住坊は、千草峠内で隠れて織田信長がやってくるのを待ち受けます。なお、このとき杉谷善住坊が隠れていた場所は現存・特定されていて、「杉谷善住坊のかくれ岩」の看板も掲示されていますので、興味がある人は一度訪れて見て下さい。

そして、元亀元年(1570年)5月19日、六角義賢の予想通り織田信長が千草峠にやってきました。

この千載一遇のチャンスに、杉谷善住坊は、織田信長が近づいてくるのを待ち、12-13間(20数m)の距離まで近づいたところで、2発続けて発射しました。

もっとも、この2発とも織田信長に致命傷を与えることはできず、かすり傷を負っただけの織田信長は、同年5月21日に無事岐阜に帰還しています。

なお、余談ですが、このころ銃殺という方法はあまりメジャーな方法ではありませんでした。

この頃の鉄砲(火縄銃)は滑腔銃身で鉛製の丸玉を撃つものであり、ライフリング(鉄砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝)が存在していなかったため現在の鉄砲ような弾丸の回転推進力がなく、命中率・威力が低いものでした。ましてや、日本は雨が多く肝心なときに仕えない可能性もあります。

そのため、この頃の鉄砲は、個別的な殺傷力としては、刀などと比べると殺傷能力の劣るものであったからです(鉄砲はあくまでも集団戦闘において数打ちゃ当たるといる作戦で使用するものでした。)。

記録上、初めて日本で鉄砲が個人を暗殺するために使われたとされるのは、永禄9年(1566年)2月5日に宇喜多直家が、配下に命じて三村家親を銃殺させたというものなのですが、これは狙撃ではなく短筒(いわゆるピストル)であったとされ、これ以降も近世に至るまで、狙撃による暗殺というのはほとんどありません。参考まで。

3年の逃亡生活と捕縛(1573年9月)

織田信長の狙撃に失敗した杉谷善住坊は、その後、織田信長に敵対する浅井長政の治める北近江に隠れて3年間の逃亡生活を送ります。

もっとも、浅井長政の重臣であった磯野員昌が元亀2年(1571年)1月に織田信長に降伏し、近江国高島郡に転封されたのですが、その磯野員昌が、天正元年(1573年)9月、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていた杉谷善住坊を発見し捕縛します。

織田方に引き渡された杉谷善住坊は、菅屋長頼・祝重正による尋問を受けた後、過酷な方法による処刑の宣告を受けます。

杉谷善住坊の処刑(1573年10月5日)

織田信長にとっては、自身の命を狙った男に対する恨みもあったでしょう。

また、このときは日本中に鉄砲が普及し始めたころで、遠距離から狙える狙撃の方法で命を狙われることは以降も度々発生すると思われます。

そのため、自身の恨みを晴らすために加え、抑止力を持たせるために見せしめの意味も必要です。

そこで、織田信長は、杉谷善住坊を鋸挽きで殺すこととしました。

鋸挽きとは、生きたまま首だけ出した状態で体を地中に埋め、その首の横に切れの悪い竹製の鋸を置いて、通行人や関係者に1~2回ずつ鋸を引かせ、首を切断するという処刑方法です。

人間の首は柔らかく、また油等で滑るために切れにくく、この方法だとなかなか死ぬことができません。

痛みだけが延々と続くとてつもなく苦しい処刑方法です。傷口に虫が湧いたりもします。悲惨です。

結局、杉谷善住坊は、5日間苦しみ続けて息を引き取ったとされています。合掌。

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