【庚午事変・稲田騒動】なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのか

今は兵庫県の一部として当たり前のように認識されている淡路島ですが、歴史的に見ると徳島県である方が自然だったということをご存じですか。

淡路島は元々は淡路国といい、明治時代初期までは徳島藩・蜂須賀家の領地だったため、歴史的に見ると淡路島は兵庫県となるよりも徳島県となる方が自然だったからです。

では、なぜ淡路島は兵庫県の一部となったのでしょうか。

徳島藩・蜂須賀家による淡路国統治

淡路国の重要性

淡路島は、「記紀」の日本列島の国産みの神話では、日本列島中最初に創造した島であるとされ、「阿波国」へ続く「路」であるため「淡路」国と名付けられたとも言われています。

淡路国は、瀬戸内海、大阪湾、紀伊水道という水上交通の要衝として発展し、室町期以降、阿波細川家や三好家も、この利を得て畿内に発展していきました。

淡路国の重要性は戦国時代になっても変わりませんでした。

蜂須賀家の阿波入封(1585年)

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の四国征伐の功を評価された蜂須賀正勝の嗣子である蜂須賀家政に阿波国(現在の徳島県)の大部分17万6000石が与えられ、天正3年(1585年)、蜂須賀家政が阿波国に入封します。

なお、このとき、蜂須賀家政は、蜂須賀正勝と義兄弟の契りを結んだ稲田植元を客将として招き阿波国北部を知行地として任せています。

その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際、蜂須賀家政は大坂城に残って、蜂須賀至鎮を東軍に従軍させたのですが、大坂城を占拠した毛利輝元に事実上軟禁されます。

また、蜂須賀家の本拠である阿波国にも毛利軍が進駐し、蜂須賀家政は、剃髪させられ高野山に追放されます。

もっとも、蜂須賀家政の嗣子の蜂須賀至鎮が、東軍に与して関ケ原の戦いに参加し、その功績によって、蜂須賀至鎮が蜂須賀家の家督を継ぐとともに、阿波国の本領を安堵され、初代阿波国徳島藩主となりました。

その後、蜂須賀至鎮は、大坂夏の陣でも2代将軍徳川秀忠から7枚もの感状を受け取るほどの武功を挙げ、元和元年(1615年)と寛永3年(1617年)との2回に分けて、淡路国全域8万1000石を加増され、蜂須賀家は、徳島藩(阿波国・淡路国)25万7000石を有する大大名となります。

稲田家が淡路国・洲本城代を任される

このとき、蜂須賀至鎮は、稲田家を洲本城代(1万4000石)として淡路国を任せ、稲田家を家老職として代々洲本城代に就かせています

蜂須賀家と稲田家の確執

蜂須賀家は、稲田家を客分として扱い淡路国を任せていたはずだったのですが、幕藩体制下で次第に対等の関係から主従関係へと変化していき、蜂須賀家が稲田家を家臣として扱うようになっていきます。

これに稲田家が反発し、蜂須賀家と稲田家との間に軋轢が生じるようになります。

そして、幕末期には、蜂須賀家が佐幕派であったのに対し、稲田家が尊皇派の態度をとり、両者の対立がさらに深まっていきます。

さらに、明治維新後の碌制改革により、阿波国の蜂須賀家藩士が士族(旧武士階級)とされたのに対し、陪臣とされた淡路国の稲田家藩士は卒族(武士の身分を有さない下級家臣)とされ、そこに身分差がつけられたことに稲田家家臣が反発をします。

稲田家家臣は、徳島藩に士族編入を訴えますが、拒絶されると、淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)の成立を目指し、これを明治政府に働きかけるなどの画策をはじめます。

庚午事変(稲田騒動)

この稲田家の分藩・独立運動を見た徳島藩は強硬な対応に出ます。

明治3年(1870年)5月13日、稲田家側の一連の態度に業を煮やした徳島藩士の過激派が、洲本城下の稲田家とその家臣の屋敷を襲撃したのです。なお、その前日には徳島の稲田屋敷の焼き討ちもしています。

これにより、稲田家側は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷25棟という被害を出します。

このころ、明治維新とその後の版籍奉還によって名目上は中央集権化を進める明治政府であったが、実際には旧藩主が知藩事を務めていたため、これらの権力を排除して中央集権を進めるための地方の争いを沈めるモデルケースとして注目されました。

反感を残した解決をすると、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないために慎重な対応を余儀なくされたものの、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していた場合には、当時の徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を知藩事職から罷免する予定でもいたのです。

もっとも、明治政府の処分は、徳島藩側の主謀者らの斬首、数名の切腹(1873年に切腹刑が廃止されていますので、これが日本法制史上の最後の切腹刑となります。)、八丈島への終身流刑27人、81人禁固、謹慎多数とされるにとどまりました。なお、知藩事の蜂須賀茂韶は謹慎処分とされています。

また、稲田家側に対しては、蜂須賀家との諍いを避けるためもあり、北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じられました。

この、稲田家の静内移住開拓については船山馨の小説「お登勢」や、映画「北の零年」でも描かれており、今の静内町などの基礎を作っています。

その後の淡路島の帰趨

明治4年(1871年)5月、庚午事変(稲田騒動)による旧阿波国・蜂須賀家と旧淡路国・稲田家との確執を重く見た明治政府は、洲本を含む津名郡(稲田家知行地)を徳島藩から兵庫県に編入させます。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により徳島藩が廃されて徳島県となります。

同年11月15日、第1次府県統合により徳島県が廃止され、旧徳島藩の領地である旧阿波国と旧淡路国全域とによる名東県(みょうとうけん)が設置されました。なお、県庁所在地は徳島であり、この地が名東郡にあったために名東県とされました。

明治6年(1873年)2月20日、名東県に香川県(旧讃岐国)が編入されましたが、明治8年(1875年)9月5日、再度、旧讃岐国が香川県として分離されたため、名東県の範囲は再び旧阿波国と旧淡路国となりました。

明治9年(1876年)8月21日、第2次府県統合(全国的な県の大規模な削減が実施)により、名東県は分割されて廃止され、旧阿波国は高知県に編入され、また旧淡路国は再度兵庫県に編入されました。

明治13年(1880年)3月2日、旧阿波国が高知県から分離独立して徳島県となり、現在に至ります。

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