徳川家康は、三河国の統一を果たし、また徳川姓に改めて三河守に任官することにより戦国大名の仲間入りを果たします。
もっとも、その後も領土的野心がおさまることはなく、次にかつての主君である今川家が治める遠江国の獲得を目指して侵攻を開始します。
この徳川家康の遠江侵攻作戦は、武田信玄との共同作戦であり、今川家が治める遠江国・駿河国のうち、徳川家康が遠江国を、武田信玄信玄が駿河国を切り取るとの約束で始まります。
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徳川家康による遠江侵攻前
三河国(徳川家康)の情勢
桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、西三河を平定した後、三河一向一揆をも鎮め、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。
そして、その後、徳川家康は、亀山城・二連木城・吉田城・田原城などを次々と攻略し、永禄9年(1566年)5月に牛久保城を攻略したことをもって東三河平定を果たします。
こうして三河国の軍事的統一を果たした徳川家康は、軍政改革を行います。
具体的には、麾下の将兵を、①家康旗本衆、②西三河衆、③東三河衆に分け、馬廻衆と旗本先手衆で構成された直属部隊以外は一門衆に至るまで西三河衆(旗頭は石川家成、後に石川数正)と東三河衆(旗頭は酒井忠次)の下に付けて序列を明らかにしたのです(三備の制)。
また、永禄9年12月29日(1567年2月18日)に「徳川家康」と改名し、従五位下・三河守に任じられることとなって三河国支配の正当性を獲得します。
こうして、徳川家康は、名実共に三河一国の支配者となります。
そして、三河一国の支配が完了すると、当然次が欲しくなります。
三河国の西側は同盟国である織田家が、また北側は超大国武田家があり、南側は海ですので、必然的に狙うは東側(遠江国)となります。
甲駿同盟関係の破棄
では、このころの遠江国はどういう状況だったのでしょうか。
永禄3年(1560年)5月19日に起こった桶狭間の戦いでの今川義元の敗死とその後の徳川家康の岡崎での独立による今川家の威信の低下は、遠江国にも及んでいました。
そのため、永禄6年(1563年)頃になると、遠江国内で国衆が同時多発的に今川氏から離反する事態に発展していきます(遠州忿劇)。
これに対し、今川氏真は、遠江国内に兵を派遣し、また家臣団や国衆の粛清もしながらなんとか遠江国内の混乱を鎮めます。
なんとか一連の叛乱を鎮め、その後に徳政令・楽市・用水問題の裁定等の積極的な領国経営策を行って遠江国内の情勢は安定化させた今川氏真でしたが、長期間に亘る遠江国混乱は、今川家の同盟相手であった武田信玄に今川氏真の器量を疑問視させ不信感を抱かせます。
その結果、武田信玄は、永禄8年(1565年)11月、4男である諏訪勝頼(後の武田勝頼)に織田信長の姪であり養女(遠山直廉の娘)でもある龍勝院を貰い受けるという婚姻同盟の形で織田信長と同盟を締結し、今川領を窺うようになります。
そして、武田信玄は、永禄10年(1567年)10月19日に親今川であった嫡男・武田義信を切腹に追い込んで今川氏真との手切れを宣言します(甲駿同盟関係の破綻)。
徳川・武田の密約(1568年3月頃)
その後、永禄11年(1568年)3月、今川氏真の祖母であった寿桂尼が死亡すると、武田信玄は、いよいよ駿河国を目指して動き始め、まずは今川家臣の調略を進めていきます。
このとき、武田信玄は、徳川家康に対しても、共に今川家を攻撃してこれを滅亡させ、その領地のうち大井川を境にしてその東部(駿河国)を武田家が・西部(遠江国)を徳川家がそれぞれ切り取って領有するとの条件での密約をもちかけます。
この話は、遠江国侵攻を目指す徳川家康としても、強国武田家との共同作戦という絶好の条件だったため、すぐさま密約締結に至ります。
徳川家康の遠江侵攻
遠江侵攻(1568年12月)
そして、永禄11年(1568年)12月6日、武田軍が穴山信君を先発隊とする1万2000人の兵を率いて駿河国への侵攻を開始し(武田信玄の駿河国侵攻)、これと機を同じくして徳川軍も動き始めます。
徳川家康の本拠地である三河国から遠江国への進軍ルートとしては、浜名湖の北側を通って陣座峠から侵入するルートと南側を通って侵入するルートがあったのですが、徳川家康率いる本隊が北側ルートから、酒井忠次率いる別動隊が浜名湖西を攻略しつつ南側ルートを通って遠江国に侵攻していくこととなりました。
井伊谷城開城(1568年12月)
徳川家康本隊が進軍する浜名湖北側ルートでの侵攻に際し、最初の障壁となるのが井伊谷の井伊家だったのですが、これから遠江国内での戦いを想定している徳川家康としては、初戦の井伊家と激戦をして兵を失うのは避けたい状況でした。
そこで、徳川家康は、井伊谷を治める井伊家の内紛を利用します。
このころの井伊家は、家老であった小野政次が、主君の井伊直親が徳川家に内通していると讒訴して井伊直親を今川氏真に誅殺させた上、井伊家の跡を継いだ井伊直虎を追放し、井伊家の居城であった井伊谷城を占拠している状態でした。
そこで、徳川家康は、野田城(愛知県新城市豊島本城)主であった野田菅沼氏3代目当主であった菅沼定盈(すがぬまさだみつ)に命じて、小野政次の横暴に反感を持っていた井伊谷三人衆(菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用)を調略させます。
そして、徳川家康は、井伊谷三人衆に対し、その主君・井伊直親は謀反人ではないとのお墨付きを与えた上で井伊谷城への案内と開城手続きを進めさせ、ほとんど無傷で同城を獲得します。
なお、徳川家康は、永禄11年(1568年)12月12日に井伊家の所領を井伊谷三人衆に分け与えたのですが(井伊谷城主は近藤康用に与えます。)、後の天正3年(1575年)に井伊家再興されて当主となった井伊直政が旧領・井伊谷の領有が認められると、井伊谷三人衆は井伊直政の下につけています(これに納得できなかった井伊谷三人衆はいずれも井伊家を離れるに至っています。)。
曳馬城攻略(1568年12月)
他方、浜名湖南側ルートを進軍していた酒井忠次率いる軍は、永禄11年(1568年)12月12日に富士見山に布陣した後、翌同年12月13日に境目城を攻撃しこれを陥落させます。
その後、妙立寺に布陣して、同年12月15日には宇津山城・白須賀城を相次いで陥落させます。
こうして曳馬城に取りついた徳川軍は、城代を努めていた飯尾氏の家老に対して降伏勧告をしたのですが拒否されたため、同城を力攻めで陥落させています。
懸川城獲得(1569年5月17日)
井伊谷城・曳馬城などの主要な城を接収しながら東進していく徳川軍は、永禄11年(1568年)12月27日、懸川古城(後の掛川城)に到達しこれを囲みます。
なお、このとき懸川城には、東側から進軍していた武田軍に駿府・今川館を陥落されて逃亡してきた今川家当主の今川氏真が城主の朝比奈泰朝を頼って落ち延びていきていました。
もっとも、懸川城は、大規模な城であった上に2000人もの兵で守られており、容易に陥落することはなく、長期戦の様相を呈するようになります。
ところが、この間に、今川氏真からの救援要請を受けた北条氏康方から4万5000人とも言われる大軍が動員され、武田信玄が接収した駿河国今川館に迫ります。
困った武田信玄は、永禄12年(1569年)4月7日、徳川家康に対して急ぎ懸川城を陥落させるよう圧力をかけてきたのですが、秋山虎繁(信友)ら下伊那衆が遠江を侵犯してきたことや、武田・徳川の密約の内容であった大井川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うとの約定を一方的に破棄して天竜川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うと言い出したこと等の武田側の不誠実な態度に怒っていた徳川家康はこの申し出を拒否します。
この結果、戦線を維持できなくなった武田信玄は、同年4月、一旦は獲得した駿河国今川館を放棄して甲斐国に撤退します。
この隙を見逃す徳川家康ではありません。
徳川家康は、懸川城を包囲しつつも、武田軍の撤退に乗じて統治者不在となった駿府に軍を派遣してこれを占領してしまいます。
もっとも、当然ですが、大軍の武田軍でも守れない駿河国今川館を、寡兵の徳川軍で守り切れるはずがありません。
そこで、徳川家康は、同年5月、不義理を続ける武田信玄との関係を手切れとした上で北条氏康と同盟交渉を開始し、同年5月17日、北条家の仲介の下で、どさくさに紛れて占領した駿府今川館を明け渡すのと引き換えに懸川城を無血開城させることに成功し、これを接収してしまいます(なお、このときの仲介を基礎として、同時に徳川氏と北条氏の同盟が締結されます。)。
こうして掛川城までも獲得した徳川家康は、三河国と遠江国という2ヶ国を治める大大名となります。
そして、徳川家康は、新たに獲得し、以降、対武田・対今川の最前線拠点となる掛川城に、西三河旗頭を務めていた石川家成をスライドさせて城主として入れることとし、西三河旗頭にはその甥である石川数正を任命しています(これにより、三備の制が一部発展し、徳川家康をトップとし、西三河は石川数正が、東三河は酒井忠次が、遠江国は石川家成がそれぞれ取りまとめるという体制となります。)。
徳川家康による遠江侵攻後
武田信玄の駿河国攻略(1569年11月)
以上のとおり、密約のとおり遠江国を手にした徳川家康に対し、駿河国を獲得するに至らなかった武田信玄は駿河国をあきらめきれません。
駿河国を獲得できなかった理由が北条家による横槍であったと考えた武田信玄は、これを封じるところから始めます。
まず、武田信玄は、碓氷峠を越えて上野国へ侵攻し、鉢形城包囲戦(永禄12年【1569年】9月10日)、滝山城攻城戦(同年10月1日)、廿里の戦い(同年10月1日)と、北条方の支城群に次々と攻撃を加えながら関東平野を南下して小田原城を包囲した後(同年10月1日〜)、ここから引き揚げて甲斐国に戻る帰路にある三増峠で小田原城から追ってきた北条氏政率いる2万人を返り討ちに遭います(三増峠の戦い・同年10月8日)。
これにより、北条氏は、駿河国に軍を回すことが出来なくなったため、武田信玄は、永禄12年(1569年)11月、満を辞して駿河国に侵攻します。
駿河国に入った武田信玄は、大宮城を本拠として、横山城、北条綱重の守る蒲原城などを攻略していき、永禄13年(1570年)1月には駿河西部にまで進出し、武田勝頼らが花沢城と徳之一色城(後の田中城)を攻略します。
そしてその後、馬場信春の縄張りによって清水城(清水袋城)・江尻城を築城し、武田信玄による駿河国支配が完成します。なお、今川氏の本拠地であった今川氏館(後の駿府城)は、武田信玄には捨て置かれています。
そして、武田信玄は、この清水城・江尻城を本拠とし、念願だった港と海上輸送路を確保しています。
この結果、図らずも、当初の武田・独立の密約のとおり、大井川を境にしてその東部(駿河国)を武田家が・西部(遠江国)を徳川家が手にすることとなりました。
もっとも、当初の密約とは異なり、武田・徳川の関係は最悪なものとなり、大井川を挟んで一触即発の状態となります。
本拠地を浜松城に移転(1570年)
以上のとおり武田信玄が駿河国を獲得したことにより、徳川家の領地が武田家と領地が隣り合うこととなったことから、徳川家康は、武田軍の侵攻に備えるために本拠地をそれまでの三河国岡崎城から遠江国曳馬城へ移します(それまでの居城である岡崎城は、嫡男松平信康に与えています。)。
このとき、徳川家康は、武田対策として天竜川の東側に位置する遠江国府が置かれていた見付(見附、現在の磐田市)に城之崎城を築城して本拠地移転とするとしたのですが、同城にて籠城戦となった場合に天竜川によって退路を断たれることとなる危険があることからこれを避け、築城中の城之崎城を放棄して曳馬城を拡張することとして同城に入ったとされています。
そして、徳川家康は、曳馬城に入る際に、「馬を曳く」=敗戦という名称を嫌い、かつてこの地にあった浜松荘という荘園の名にちなんで、地名と城名を「浜松」に改めました。
徳川家存亡の危機(武田西上作戦)
また、徳川家康は、元亀元年(1570年)10月に武田信玄を共通の敵とする上杉謙信との間で同盟関係を結んだのですが、これを理由として武田信玄は遠江国攻撃の大義名分を得たと主張します。
そして、元亀3年(1572年)、武田信玄は、武田軍は兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始したことにより(武田信玄の西上作戦)、一言坂の戦い・二俣城の戦いに敗れ、さらに徳川家康の人生最大の危機となる三方ヶ原の戦いが起こるのですが、長くなりますので以降の話は別稿で。