【お愛の方(西郷局)】徳川秀忠の生母である徳川家康の側室

お愛の方は(おあいのかた)は、徳川家康の側室となって江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだ女性です。

実父や夫を相次いで戦で失うなどのつらい前半生を送った後、徳川家康に見初められて側室となり、武田家との戦いに明け暮れていた時期の徳川家康を公私ともに支えました。

徳川家康の側室となる前は「お愛の方」と呼ばれ、側室となった後は「西郷局」と呼ばれていますので、西郷局という名称の方が有名かもしれません。 “【お愛の方(西郷局)】徳川秀忠の生母である徳川家康の側室” の続きを読む

【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室

徳川家康には、判明しているだけで22人の妻(正室・側室)がいます。また、判明していない者も含めると40人近くいたとも言われています。

これらの妻のうち、正室は、今川家主導で選定された築山殿(先妻)と、豊臣秀吉から押し付けられた朝日姫(継室)の2人だけであり、その他は全て側室となります。

若い頃は周辺国衆や敵対家臣団の娘などを迎えて領土保全を図ったり、既に子供を産んだ経験のある未亡人を選んで子供を儲けることを第一に考えて「徳川家」の存続を図っていた徳川家康ですが、勢力が大きくなってお家が安定して来ると、「徳川家康個人」の欲を優先させて10代を中心とした若い女性を選んでいるところが注目されます。

本稿では、これらの徳川家康の妻の遍歴について、貰い受けた時代背景もあわせて紹介していきたいと思います。 “【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室” の続きを読む

【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟

石川家成(いしかわいえなり)は、徳川家康の従兄弟の立場として幼少期からこれを支えた古参家臣です。

甥にあたる石川数正の陰に隠れてマイナー扱いをされていますが、実は、今川家から独立した頃の徳川家康の家臣団の中では、最高位に位置したといえる人物です。

三河国を平定した後に徳川家康が行った軍制改革では、西三河旗頭に任命されて徳川軍の3分の1を指揮する権限を持っていました。

また、徳川家康が遠江国を平定すると、その後の今川・武田との戦いの最前線となる掛川城を任されるほどの絶大な信頼を得ていました。

本稿では、石川数正の陰に隠れた名将・石川家成の生涯について振り返っていきたいと思います。 “【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟” の続きを読む

【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男

結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康が正室であった築山殿の侍女にお手付きをして生まれた武将です。

徳川家康の嫡男であった松平信康の生後16年も経ってから生まれた男子(次男)ですので大歓迎で迎えられてしかるべきだったのですが、その出生を正室の築山殿が承認しなかったために徳川家康に認知されることなく家臣の下で育てられます。

その後も、徳川家康から自身の子として扱われることなく、小牧長久手の戦い後には、宿敵ともいえる豊臣秀吉の下に養子(人質)として差し出されてしまいます。

ところが、養父となった豊臣秀吉からも、老いて生まれた実子・鶴松に対する禍根を残さないようにするためとの理由で、今度は結城家に養子に出されてしまいます。

この結果、母の身分の低さと他家に養子に出されたという経緯から徳川家康の後継者となることはできなかったのですが、自らの才覚で越前国をもらい受けるなどの活躍を果たしたのですが、34歳の若さで病没するという悲運に見舞われています。 “【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男” の続きを読む

【お万の方(長勝院)】築山殿から疎まれた結城秀康の生母

お万の方(おまんのかた、長勝院)は、徳川家康のお手つきによって結城秀康を産んだ女性です。

徳川家康にお手つきをされたのが、正室の築山殿の女中時代であったために築山殿から疎まれ酷い扱いを受けた人物でもあります。

築山殿から疎まれたために、お万の方のみならず、その子である結城秀康もまた徳川家康の後継ぎから外されるという結果にまで至っています。

本稿では、そんな悲運の女性・お万の方の人生を振り返っていきたいと思います。 “【お万の方(長勝院)】築山殿から疎まれた結城秀康の生母” の続きを読む

【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将

鳥居元忠(とりいもとただ)は、人質時代から徳川家康に付き従った古参家臣です。

数々の武功を挙げて徳川家康の天下取りに尽力した武将なのですが、何より関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで西軍の足止めをするために玉砕したことで有名です。

本稿では、この武勲から三河武士の鑑とまで言われた鳥居元忠の生涯を振り返って行きたいと思います。 “【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将” の続きを読む

【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将

夏目広次(なつめひろつぐ)は、古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆です。

「寛政重修諸家譜」の記載から一般的には「夏目吉信」の名で知られているのですが、一時資料ではその名乗りは確認されていないため本稿では文書上記された「夏目広次」の名で統一して紹介します。

夏目広次は、三河一向一揆の際に徳川家康から離反して一揆方に与するも、後に許されて徳川家臣団に復帰します。

そのため、夏目広次は、以降はこの恩に報いるために徳川家康への忠義を貫き、三方ヶ原の戦いの際には徳川家康の身代わりとなって壮絶な討ち死にを果たしています。 “【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将” の続きを読む

【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣

平岩親吉(ひらいわちかよし)は、人質時代から徳川家康に付き従った最古参譜代家臣の1人であり、江戸幕府開幕の功労者である徳川十六神将の1人にも数えられる忠臣です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍して激しい戦いを繰り広げたのに加え、その清廉潔白な人柄から、徳川家康の嫡男・松平信康の傅役、九男・徳川義直の後見人にそれぞれ任じられています。 “【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣” の続きを読む

【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将

大久保忠世(おおくぼただよ)は、安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えたいわゆる安祥譜代7家の1家に生まれた徳川家康を幼い頃から支えた古参家臣の1人です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍し、激しい戦いを繰り広げた武田家との最前線となる二俣城を任され、徳川家康が関東に移封された後には、関東への東海道からの出入口となる小田原を任されるほどの強い信頼を得ており、後世には徳川十六神将の1人に数えられる徳川家康臣下の猛将です。 “【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将” の続きを読む

【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の参謀であり、江戸幕府の開幕の功労者です。

若い頃には三河一向一揆に参加して徳川家康に敵対し、その後は徳川家を出奔して全国を放浪した後に帰参を許されるという変わった経歴を持っています。

本多正信は、この放浪経歴に裏付けられた経験と人脈を駆使し、武断派の多い徳川家臣団の中で、数少ない官僚型家臣として徳川家康を支え、徳川家康・徳川秀忠という2代に亘る将軍の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

また、何を考えているかわからない狸親父と言われる徳川家康から、友と言われるほどの信頼を勝ち得た数少ない人物でもあります。 “【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀” の続きを読む