【赤松円心(赤松則村)】赤松家躍進のきっかけとなった播磨守護

赤松円心(あかまつえんしん)は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した武将です。出家前は、赤松則村(あかまつのりむら)と言いました。

赤松円心は、後醍醐天皇の皇子であった護良親王の呼びかけに呼応して挙兵し、足利尊氏と共に六波羅探題を攻略する武功を挙げたのですが、鎌倉幕府を滅亡させた後は後醍醐天皇に冷遇されたため、同じ境遇となった足利尊氏と共に建武政権打倒のために立ち上がり、これを果たして赤松家躍進の礎を築いた人物です。

赤松円心の出自

赤松円心は、建治3年(1277年)、村上源氏の流れを汲むとも言われる播磨国西部の土豪・赤松茂則の子として生まれます。なお、「円心」は出家後の法名であり、名乗りは「則村」なのですが、本稿では便宜上赤松円心の表記で統一します。

赤松円心は、村上源氏の流れを汲む赤松家4代当主とも言われているのですが詳しい出自は不明であり、流通業により巨万の富を築いた播磨国の商人が自らを守るために武装化し土着の武士となった家の当主に過ぎませんでした。

若い頃の赤松円心の記録は少なく、通称が次郎であったこと、元服して赤松則村と名乗ったこと、佐用庄地頭を務めたこと、六波羅探題に勤務していたであろうことを除き、ほとんど明らかとなっていません。

反鎌倉幕府のため挙兵

挙兵(1333年1月21日)

鎌倉幕府から佐用庄地頭に任じられていた播磨国の一土豪に過ぎなかった赤松円心が世に出るきっかけとなったのは、鎌倉幕府を打倒するためになされた後醍醐天皇の挙兵でした。

後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵し、元弘2年/正慶元年(1332年)12月、それに呼応した楠木正成が芥川付近まで進出してきます。

これにを放置できない六波羅探題は、楠木正成を鎮圧させるために宇都宮公綱と赤松円心に派遣要請をします。

ところが、この命に従って楠木正成討伐に向かった赤松円心の下に、吉野山に入った後醍醐天皇の皇子である護良親王から鎌倉幕府討伐の令旨が届きます。

この護良親王の令旨を見た赤松円心は変心し、元弘3年(1333年)1月21日、鎌倉幕府打倒のため挙兵します。

東上開始(1333年2月)

挙兵直後には、一族の高田氏が鎌倉幕府方に内通しようとしたため、西条山城に攻め込んだ後、菩提寺である了宅庵において自害に追い込みます。

続いて六波羅探題の命を受けた備前国守護加持氏が伊東惟群を先発隊として攻め寄せようとしてきたため、これを打ち破った上、三石城に備えの軍を残して東上を開始します。

その後、室山に陣を敷いて反鎌倉幕府の兵を募った後、白川郷・山田村小部郷・石南花山を経て布引谷沿いに南に向かい、赤松範資に築かせた摂津摩耶山城へ入ります。

この赤松円心の動きに対し、六波羅探題に2万人の兵が集められ迎撃に向かいます。

佐々木時信などに率いられた六波羅探題軍は、元弘3年(1333年)2月11日、摂津摩耶山城に攻め寄せますが、赤松軍による野伏り戦にて撃退しされます。

瀬川合戦(1333年3月10日)

六波羅探題軍を撃退して勢いを駆った赤松円心は、東に兵を進めて尼崎の久々知に陣取り、元弘3年(1333年)2月24日には酒部に進出します。

この動きに対し、同年2月28日、六波羅側は摩耶山麓に再布陣するのですが、赤松軍が猪名川付近まで攻め入り六波羅軍を牽制します。

その後、同年3月10日、六波羅軍1万人も猪名川付近に布陣し、両軍が睨み合う形となります。

同日夜、四国から尼崎に上陸してきた六波羅探題方の小笠原軍が猪名川付近に布陣した赤松軍に奇襲をかけたため、混乱状態となった赤松軍は敗走し、赤松円心もまた50騎を引き連れて敵を突破し久々知に帰陣する事態となりました。

この事態に敗れた赤松円心もまた反撃に出ます。

赤松円心は、赤松則祐の進言を聞き入れて3000騎を率いて出撃し、瀬川宿(現在の大阪府箕面市)に布陣していた六波羅探題軍を討ち破り、これを追い払います(瀬川合戦)。

山城国侵攻

六波羅軍を追い払った赤松則村は、逃走する六波羅軍を追撃し、元弘3年(1333年)3月12日、山城国山崎や摂津国に侵攻し、淀・赤井・西岡付近に火を放ちます。

この赤松軍の動きに対し、六波羅探題は、2万人の兵を動員してその鎮圧に動きます。

そこで、赤松円心は、赤松軍を2手に分け、自らは一軍を率いて桂へ進軍し、もう一軍を久我縄手へ差し向けます。

そして、赤松円心率いる桂方面軍において、赤松則祐が先陣を切って桂川を押し渡って六波羅軍を蹴散らし、そのまま火を放ちながら大宮・猪熊・堀川・油小路を突き進み、六波羅めがけて進んでいきました。

この赤松軍の侵攻に危機を感じた六波羅探題は、天皇光厳天皇を六波羅探題に移し、六波羅探題を仮御所とし、体勢を立て直すこととします。

八幡に布陣

六波羅探題では、展開させていた兵を集結させて赤松軍への対応に当てることとします。

こうなると、多勢に無勢となりますので、赤松軍の形勢は一気に悪化します。

そして、六波羅探題に向かった赤松円心率いる軍が、六波羅軍に押し返されて総崩れとなります。

敗れた赤松円心と赤松則祐は南に逃れ、男山で自刃を決意するにまで追い詰められたのですが、考え直した赤松円心は、八幡菩薩のお告げであると宣言してその旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き、再度六波羅探題目指して攻め込むことを決めます。

そして、赤松円心は、八幡と山崎に陣を展開させて西国街道を押さえ、元弘3年(1333年)3月28日と同年4月3日に攻撃を仕掛けたのですが六波羅探題を攻略できませんでした。

久我畷の戦い(1333年4月27日)

他方、六波羅軍もまた楠木正成が籠る千早城攻撃に軍を回していたため、八幡に展開する赤松軍を制圧するほどの兵を動員できず、伏見を挟んで両軍が睨み合う形となってしまいました。

このとき、膠着する戦線を打破するため、六波羅探題への援軍として鎌倉から名越高家及び足利高氏(後の足利尊氏)が率いる大軍が京に向かった後、2手に分かれて山陽道から名越高家が、山陰道から足利尊氏が船上山にいた後醍醐天皇を確保するために動き出します。

旗頭である後醍醐天皇を確保されると反鎌倉幕府軍の敗北が決まってしまいますので、赤松円心は、千種忠顕・結城親光らと共にまずは山陽道を進む名越高家軍の迎撃に向かい、久我畷(現在の京都市伏見区)で戦闘となります。

このとき、鎌倉方の総大将であった名越高家だけが突出して華美に過ぎたため、赤松軍では、すぐに大将軍の居場所を見破り、そこに集中攻撃仕掛けます。

その結果、名越高家が赤松一族である佐用城主・佐用範家にに眉間を射抜かれて討死したため、総大将を失った鎌倉方山陽道軍は総崩れとなって敗れます(久我畷の戦い、太平記)。

足利尊氏の下に結集

ここで、鎌倉から東進してきたもう1つの鎌倉軍の総大将として山陰道を進む足利尊氏は、名越高家が討死したとの報を受け取っ取り大いに悩まされます。

勢いは名越高家を討ち取った後醍醐天皇方にあり、またこの状況下で命をかけるほどの恩が鎌倉幕府にありません。

悩んだ足利尊氏は、元弘3年(1333年)4月29日、自身が畿内に領していた丹波国篠村へ向かい、後醍醐天皇方に鞍替えし反鎌倉幕府を掲げて挙兵します。

反旗を翻した足利尊氏の下には鎌倉幕府に不満を覚える兵が続々と集まり、同年5月8日には赤松円心・千種忠顕・結城親光らも合流します。

こうして2万人を超える兵を集めた足利尊氏は、この大軍を率いて京の鎌倉幕府勢力の拠点である六波羅探題を目指します。

六波羅探題攻略

六波羅探題にたどり着いた足利尊氏が、大軍をもってす六波羅探題を取り囲むと、勝ち目がないと判断した六波羅軍の兵が次々に逃亡していき、指揮官であった北条仲時と北条時益もまた勝ち目がないと判断して六波羅探題の放棄を決めます。

六波羅探題を出た北条仲時と北条時益は、光厳天皇・花園上皇・後伏見上皇を連れて鎌倉を目指しますが、途中で北条時益は討死し、北条仲時は自刃して果てます。

この結果、六波羅探題は滅亡し、同時に千早城攻めをしていた軍勢も散り散りに逃げ、畿内は完全に足利尊氏に制圧されます。

また、反鎌倉幕府の流れは鎌倉にも波及し、元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞によって鎌倉が陥落し、北条高時をはじめとする北条氏一門が東勝寺で自刃して鎌倉幕府は滅びます。

この後、赤松円心は、攻略した京に後醍醐天皇を迎えるべく兵庫に向かい、元弘3年(1333年)5月30日に、同地で後醍醐天皇に拝謁しています。

建武政権との決別

建武政権下で冷遇される

以上の結果、鎌倉幕府の滅亡に伴い、後醍醐天皇による親政が始まることとなり、赤松円心は、倒幕の功を評価されて播磨守護職に任じられます。

もっとも、新たに始まった建武政権において、早々に護良親王派と阿野廉子派(恒良親王・成良親王・義良親王)の権力争いが始まります。

そして、この権力争いは、護良親王派が阿野廉子派に敗れる形で進みます。

これにより、護良親王派であった赤松円心は新政権で冷遇されることとなり(護良親王派の楠木正成も同様の扱いを受けます)、任じられたばかりの播磨守護職も没収されます。

なお、赤松円心は、後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応して挙兵し、鎌倉幕府軍を翻弄してこれを打ち破ったという意味で楠木正成と同じ立場に立っており、赤松円心の弟である円光に楠木正成の姉が嫁ぐなど楠木正成と近しい関係にありました。

もっとも、笠置山で後醍醐天皇と対面して個人的に天皇と繋がった楠木正成と、三男である赤松則祐が護良親王に従って親王に近い位置にあった赤松円心では、その立ち位置に差が出始めます。

建武政権に見切りをつける

そして、建武元年(1334年)に護良親王が失脚すると、新政権下での赤松円心の立場が失われます。

これにより、赤松円心は、新政権に見切りをつけ、所領である播磨国佐用庄へ帰っていきました。

足利尊氏に接近

建武政権と決別して播磨国に戻った赤松円心は、同じく建武政権との対決姿勢を示す足利尊氏に接近します。

建武2年(1335年)に足利尊氏が中先代の乱を平定するために鎌倉に向かって進軍すると、赤松円心は、子である赤松範資と赤松貞範に兵を預けて足利軍に従軍させます。

建武政権と戦う足利尊氏に合流

足利尊氏の九州落ち

中先代の乱を平定した足利尊氏が鎌倉で建武政権から離反して京への進攻を開始すると、赤松円心もまたこれに協力したのですが、建武3年(1336年)、足利尊氏が北畠顕家・新田義貞・楠木正成らの軍に敗れて九州へ逃れます。

このとき、西に向かって落ちていく足利尊氏は、瀬戸内海運に力を持つ赤松円心の協力を仰ぐために播磨国に立ち寄りました。

このとき、赤松円心は、足利尊氏に対して九州に落ち延びて再起を果たすように進言し、足利尊氏を西に向かって送り出します。

このとき、九州に向かった足利尊氏は、落ちていく自分の味方をしてくれる赤松円心に感謝し、復権の際には赤松円心に播磨守護職を授けることを約束します。

新田義貞軍を足止め

その後、西に向かって落ちていく足利尊氏を追って、京から新田義貞率いる6万騎の兵が西進してきます。

赤松円心の白旗城は、当時の主要ルートである山陽道沿いにある城ではなかったために足利尊氏を追って九州に向かう新田軍が攻略する必要がなく、そのため赤松円心がわざわざ新田軍に対峙する必要はありませんでした。

それにもかかわらず、赤松円心は、自らは2000人の兵と共に白旗城に籠り、書写山を中心とする市川沿いの第一防衛線、城山城を中心とする揖保川沿いにの第二防衛線、白旗城を中心とする千種川沿いの第三防衛線をもうけてそれぞれに付城を配し、新田軍を迎え撃つ構えを見せます。

もっとも、明らかに多勢に無勢であったため、まともに戦っては勝ち目がないと判断した赤松円心は、足利尊氏が戻ってくることに賭け、籠城準備のための時間稼ぎを始めます。

赤松円心は、迫り来る新田義貞の下に使者を遣わし、後醍醐天皇が播磨守護職に復してくれる旨の綸旨を下すなら再び建武政権方につくと伝えます。

この提案を聞いた新田義貞が、後醍醐天皇に確認をするために京に向かって確認の使者を派遣したところ、10日後に後醍醐天皇が下した綸旨を携えた使者が新田義貞の下に戻ってきます。

そこで、新田義貞が赤松円心に対してこの綸旨を示して降伏を迫ったところ、赤松円心は守護・国司職は足利尊氏からもらうと言って新田義貞の使者を追い返してしまいます。

この返事に怒った新田義貞は、直ちに赤松円心が籠る白旗城に総攻撃をかけたのでますが、綸旨の取得に要した10日間で赤松円心が2000人の兵を指揮して籠城準備を終えてしまっていたため、白旗城はなかなか落ちない造りとなってしまっていました。

この結果、新田義貞が数万人の兵で攻撃を繰り返したものの、50日経過した建武3年(1336年)5月になっても白旗城は落ちませんでした。

足利尊氏の戦線復帰

赤松円心が白旗城に籠って稼いだ貴重な時間は、足利尊氏再起に役立ちます。

九州に落ちていた足利尊氏は、九州で兵を募り、また多々良浜の戦いで菊池武敏を破るなどして九州を制圧していきます。

その後、足利尊氏は、博多を発った後、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流した上で、軍勢を海と陸の二手に分けて東に向かって進んでいきます。

足利尊氏が大軍を率いて東進してきたことを聞いた新田義貞軍は、白旗城の囲みを解いて京への撤退を開始しますが、ここで白旗城から出てきた赤松軍に追撃され総崩れとなり同年5月13日には兵庫まで退き、同年5月24日に援軍としてやってきた楠木正成軍と合流します。

播磨守護復帰

その後、足利尊氏は、建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで新田・楠木軍を打ち破ると、同年6月には京を再び制圧します。

この結果、これまでの功を評価され、赤松円心が播磨守護に、また赤松範資が摂津守護に任命され、赤松家から2ヶ国の守護職が任じられました。また、室町幕府の侍所の長官にも任じられます。

もっとも、播磨丹生山で新田一族の金谷経氏が挙兵するなどしたため、赤松円心は、延元3年/暦応元年(1338年)から興国3年/康永元年(1342年)までこれらの反乱鎮圧に奔走することとなりました。

赤松円心の最期

禅宗寺院の整備

禅宗に帰依していた赤松円心は、延元2年/建武4年(1337年)には雪村友梅を招いて法雲寺(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)を創建して赤松家の菩提寺としたり、福田寺(現在の兵庫県加古川市)の整備をしたりするなどしています。

また、出家して法名を「法雲寺月潭円心」と定めます。

死去(1350年1月11日)

赤松円心は、晩年に起こった足利尊氏及び高師直と足利直義の対立(観応の擾乱)でも一貫して足利尊氏に従い、正平4年/貞和5年(1349年)8月に高師直のクーデターによって足利直義が失脚し、この状況を挽回しようとした足利直冬が中国地方から上洛しようとして東進してきた際には、播磨国でこれを撃退しています。

その後、赤松円心は、正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京七条の邸宅において、足利尊氏方の将として足利直義の養子であった足利直冬を追討するために軍を編成している最中に急死しています。享年は74歳でした。

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