北条朝時(ほうじょうともとき)は、鎌倉幕府第2代執権として絶大な権力を握った北条義時の次男です。
北条朝時の母親が北条義時の正室・姫の前であり、初代執権であった祖父・北条時政から名越屋敷を与えられるなど北条宗家を継ぐことをほぼ約束されていた人物でしたがで、女性問題で失脚し、庶子であった兄・北条泰時に後れを取ることとなった人物です。 “【北条朝時】北条得宗家を継ぐはずだった名越流の祖” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
北条朝時(ほうじょうともとき)は、鎌倉幕府第2代執権として絶大な権力を握った北条義時の次男です。
北条朝時の母親が北条義時の正室・姫の前であり、初代執権であった祖父・北条時政から名越屋敷を与えられるなど北条宗家を継ぐことをほぼ約束されていた人物でしたがで、女性問題で失脚し、庶子であった兄・北条泰時に後れを取ることとなった人物です。 “【北条朝時】北条得宗家を継ぐはずだった名越流の祖” の続きを読む
高屋城(たかやじょう)は、室町時代に大勢力を誇った三管領の1つに数えられた名門畠山氏が河内守護として河内国支配の中心城郭とした城です。
安閑天皇陵と言われる高屋築山古墳を主郭として取り込んだ特徴的かつ複雑な城であり、河内国支配の重要拠点であったがゆえに畠山氏・安見氏・三好氏による争奪戦の舞台となって再三城主が入れ替わった城でもあります。
最終的には、天正3年(1575年)に織田信長の攻撃により落城して廃城となり、その後主郭部を残して宅地開発がなされたため、今日までに城址のほとんどが失われています。 “【高屋城】安閑天皇陵が本丸として利用された管領・河内守護畠山氏の居城” の続きを読む
池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市にあった日本の城です。
建武元年(1334年)前後に現在の池田市にある五月山南麓の丘陵地に、豊島の土着豪族池田教依が築いた後は代々池田氏が城主を務めて拡張を続けました。
荒木村重が織田信長から離反した際、これを討伐するために編成された織田軍の陣城となったことでも有名です。
“【池田城(摂津国)】有岡城攻めの際の織田軍の陣城” の続きを読む
池田屋事件(いけだやじけん)は、元治元年(1864年)6月5日、新撰組が、京の三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃し、一網打尽にして京の放火計画を未然に防いだことにより新撰組の名を世間に知らしめた事件です。
この事件により多くの維新志士が失われたことで明治維新が遅れたとも、逆に明治維新を早めたとも言われる歴史の転換点となった事件でもあります。 “【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件” の続きを読む
朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、鎌倉幕府の重臣・和田義盛の三男です。
そして、北条家を礼賛するために記されたはずの吾妻鏡に、父・和田義盛が北条義時打倒のために立ち上がった和田合戦の際に和田軍の中で最も活躍した武将として詳細にその武勇が記されるという当代随一の猛将でした。
鮫3匹を水中で捕まえたとか、朝夷奈切通(朝比奈切通し)を太刀で一夜で切り開いたなどというおよそ考えられない伝説を残し、後に狂言や歌舞伎ではさらにその剛勇ぶりが誇張されるに至っています。 “【朝比奈義秀】和田合戦で最も活躍した和田義盛の三男” の続きを読む
近衛前久(近衞前久・このえさきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した公卿です。
関白宣下を受けた上藤氏長者となるなど朝廷内上り詰めたにも関わらず、上杉謙信や織田信長に接近するなどして武士の世界にも口を出して暗躍していきます。
特に織田信長とは鷹狩という共通の趣味から意気投合し、織田信長のために毛利攻めの後方支援や石山合戦の和議を取り付けるなど、外交面でその能力を発揮します。
もっとも、本能寺の変で織田信長が横死した後は豊臣秀吉に煙たがられて勢いを失っています。
本稿では、破天荒人生を歩んだ近衛前久の人生について説明死していきたいと思います。 “【近衛前久】全国を流浪した破天荒関白” の続きを読む
赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある変形輪郭式の海岸平城です。
元和偃武以降に築城された数少ない城であり、当時の最先端軍学に基づきながら強く合戦を意識せず築かれた城であり、江戸時代を通じて赤穂藩(加里屋藩)の藩庁として機能し明治維新を迎えています。 “【赤穂城(日本100名城60番)】元和偃武後に築かれた赤穂浪士の城” の続きを読む
京で室町幕府第13代将軍であった足利義輝が暗殺され(永禄の変)、その後、その弟であった足利義昭が織田信長の協力により上洛し征夷大将軍に就任したことはあまりにも有名です。
この結論はあまりにも有名なのですが、他方で、この上洛に至るまでの足利義昭の動向についてはあまり知られていないと思います。
そこで、本稿では、足利義輝が暗殺された後から征夷大将軍に就任するまでの足利義昭の足跡について説明していきたいと思います。 “【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで” の続きを読む
上月城(こうづきじょう)は、播磨国周辺に大勢力を誇った赤松家の支城として兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)に築かれた山城です。
戦国時代末期には織田・毛利の戦いの最前線となって2度に亘る大きな戦いが行われ、中国地方に一大勢力を築いた尼子家が再興に失敗して滅亡に至った城でもあります。 “【上月城】尼子家再興の夢が途絶えた西播磨の山城” の続きを読む
御着城(ごちゃくじょう)は、播磨守であった赤松家の一族として力を持っていた小寺家の居城として築かれた城です。
戦国期には、別所家の三木城、三木家の英賀城とあわせ、播磨三大城と称された堅城であり、若き日の黒田官兵衛(当時は小寺孝高と名乗っていました。)が家老として在城していたことでも知られ、織田信長の中国征伐軍として西進してきた羽柴秀吉に抵抗して落城し廃城に至っています。
現在は、ほぼ遺構が残されていませんが、土塁や堀の遺構を偲び、往時に思いをはせながら観光してみると楽しいかもしれませんので、観光の際の参考にしていただければ幸いです。
“【御着城】播磨三大城の1つである小寺家の居城” の続きを読む