【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。

戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。

龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。

本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦” の続きを読む

【二階堂行政】実務能力の高さにより政所別当となった貴族

二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、下級貴族でありながら、源頼朝は、母方が熱田大宮司家の出であった源頼朝に請われて鎌倉幕府政治に参画した人物です。

その実務能力の高さから源頼朝に重用され、ついには政所別当職にまで出世しています。

知名度はイマイチですが、源頼朝の死後に第2代鎌倉殿・源頼家の訴訟権限を制限するために作られた十三人の合議制にもメンバーの1人として参加するなど、初期の鎌倉幕府を支えた主要人物となっています。 “【二階堂行政】実務能力の高さにより政所別当となった貴族” の続きを読む

【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について

問注所(もんちゅうじょ)は、鎌倉を拠点として東国武士団を取りまとめて鎌倉幕府を開いた源頼朝が設置した訴訟事務所管機関です。

歴史の教科書に出てきますので名前を聞いたことはあるかと思うのですが詳しい説明がなされることはなかったのではないでしょうか。

元々東国武士団の集合体でしかなかった鎌倉幕府の前身を統治するために造られた小さな建物がその始まりだったたのですが、自らの土地の権利を維持するために命をかける集団である東国武士の集合体である鎌倉幕府ではこの土地紛争の解決がその要となったことから、それを裁く問注所は極めて重要な機関として発展していきます。

本稿では、ほぼ名前しか知られていないと思われる問注所について、その歴史的沿革から見ていきたいと思います。 “【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について” の続きを読む

【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて

鎌倉幕府が、その初期に源氏将軍が終わりを迎えた後、執権・北条義時による事実上の独裁政権となったことは有名です。

もっとも、ここでいう執権とは本来は、鎌倉幕府内の機関の1つであった政所の長官である別当の別称に過ぎず、最高権力者を意味する名称ではありません。

それにもかかわらず、北条義時=執権=独裁者のイメージがあるのはなぜなのでしょうか。

本稿では、執権政治についてその成立の過程から、得宗家に権力が流れて名目化していくまでについて簡単に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて” の続きを読む

【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱

和田合戦(わだがっせん)は、建暦3年(1213年)5月2日に和田義盛が北条義時打倒を掲げて起こした反乱です。

直接の引き金は直前に起こった泉親衡の乱だったのですが、それまでの北条家の横暴に耐え兼ねた和田義盛が爆発したというのが本当のところです。

合戦では、当初は和田軍が有利に進んでいたのですが、北条義時・大江広元の策略や、主家にあたる三浦義村の裏切り行為などによって敗れ、最終的には和田義盛の討死と、和田一族の事実上の滅亡という結果に終わっています。

また、この合戦の勝利により、北条義時の執権体制がより強固なものとなり、独裁への道を進んでいくこととなります。 “【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱” の続きを読む

【四国という名称の由来】4県だから4国?

四国は、北海道・本州・九州に次ぐ日本列島の主要4島の一つです。

四国島には徳島県・香川県・愛媛県・高知県の4つの県があるのですが、4県が存在するために4国と呼ばれているわけではありません。

本稿では、なぜ四国と呼ばれるようになったのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。 “【四国という名称の由来】4県だから4国?” の続きを読む

【九州という名称の由来】7県なのになぜ9州?

九州は、北海道・本州・四国とともに日本列島の主要4島の一つです。説明するまでもないですね。

この九州島には、福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の7県しかありません。沖縄県を入れて九州地方としてカウントしても8県であり、まだ9には足りません。

では、7県ないし8県であるにも関わらず何故九州と言うのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。 “【九州という名称の由来】7県なのになぜ9州?” の続きを読む

【寿桂尼】尼御台として今川家を支えた今川義元の母

寿桂尼(じゅけいに)は、今川家の黄金時代を支えた大看板の1人です。

元々は、今川義元の父である今川氏親の正室として京から駿河国に下向してきたお姫様だったのですが、その類稀なる政才により9代氏親、10代氏輝、11代義元、12代氏真の4代にわたって今川家の政務を補佐し、今川家の繁栄に寄与しています。

本稿では、今川家の最盛期を生き、今川家が滅ぶ直前に生涯を終えた寿桂尼の波瀾万丈の人生を見ていきたいと思います。 “【寿桂尼】尼御台として今川家を支えた今川義元の母” の続きを読む

【北条政範】北条家と執権職を継ぐはずだった北条時政の四男

北条政範(ほうじょうまさのり)は、鎌倉幕府の初代執権である北条時政の四男として生まれた若き御家人です。

母は、北条時政の継室である牧の方であり、北条政範が生れたときには、既に長兄北条宗時は戦死・次兄北条義時は分家しており、また北条時房は母の身分が低かったため、北条政範は生まれてすぐに北条時政の嫡男として扱われます。

大事に育てられ、どんどん出世もしていき将来を嘱望された北条政範でしたが、上洛中にわずか16歳の若さでこの世を去っています。

北条政範の死後、北条家は2つに割れて北条時政と北条義時が争い、北条義時が台頭していくことになりますので、北条政範が長生きをしていればこの歴史が代わっていたかもしれません。

本稿では、北条家を継ぐはずであった北条政範の生涯について、簡単に解説したいと思います。 “【北条政範】北条家と執権職を継ぐはずだった北条時政の四男” の続きを読む

【三浦義村】北条義時と共に数々の御家人粛清に関与した御家人

三浦 義村(みうら よしむら)は、源頼朝の旗揚げ時からこれに付き従い、最終的には鎌倉幕府内において得宗家に次ぐ鎌倉幕府の実質ナンバー2にまで上り詰めた御家人です。

首謀者とされるものはないものの、北条義時の右腕として鎌倉幕府内での粛清劇のほぼ全てに関与し、しかもその全てで勝者(源頼朝→北条時政→北条義時→北条政子)の側で行動をしていることから、黒幕といえる人物であるといえるかもしれません。

京の公家であった藤原定家の日記である明月記にも、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟(計略に長けた何を考えているのからからない人物である。)」と記載された程の暗躍ぶりでした。 “【三浦義村】北条義時と共に数々の御家人粛清に関与した御家人” の続きを読む