【細川藤孝(細川幽斎)】幕臣ながら三英傑に下り細川家を躍進させたチート武将

細川藤孝/細川幽斎(ほそかわふじたか/ほそかわゆうさい)は、足利将軍家に仕える幕臣だったのですが、後に足利義昭を見限って織田信長に下り、大名となった武将です。

途中で、明智光秀と立場が入れ変わる辛い経験もし、家を残す苦しい選択を繰り返して戦国大名として成り上がって豊前国小倉藩の礎となった武将ですが、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた一流の文化人でもありました。

細川藤孝の出自

三淵家にて出生(1534年4月22日)

細川藤孝は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員(和泉半国守護細川元常の弟)の次男として生まれます。

母は、智慶院(儒学者・国学者であった清原宣賢娘)であり(寛政重修諸家譜)、幼名は万吉(三淵万吉)といいました。

細川家に養子に出る(1540年)

その後、従来の通説によると、細川藤孝は、7歳となった天文9年(1540年)に、父・三淵晴員の兄である和泉半国守護細川元常の養子となり、名を細川万吉と改めたとされています(寛政重修諸家譜)。

もっとも、細川元常の実子とされる細川晴貞を養父と見る説もあれは、和泉守護細川氏ではなく淡路守護細川氏につながる系統を継いだと考える説も近年有力になっており、正確な養父が誰なのかは分かりません。

元服(1546年)

細川藤孝は、天文15年(1546年)に元服し、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、名を細川万吉から細川藤孝に改めます。

幕臣として室町幕府に仕える

足利義輝に仕える

成長した細川藤孝は、幕臣として足利義輝に仕え、天文21年(1552年)には、従五位下兵部大輔に叙任されています。

その後、細川藤孝は、天文22年(1553年)、三好長慶に敗れて近江国に落ち延びていった足利義輝の供をして朽木元網(稙綱の孫)を頼って朽木谷に逃れています。

沼田麝香(光寿院)を正室にもらう

細川藤孝は、永禄5年(1562年)頃、沼田光兼の娘である沼田麝香(後の光寿院)を正室にもらい受け、永禄6年(1563年)に嫡子・忠興を、その後興元、伊也(一色義有のち吉田兼治室)、幸隆、於千(長岡孝以のち小笠原長良室)、孝之、加賀子(木下延俊正室)、小栗(細川藤孝の実弟・長岡好重室)、仁伊(夭逝)らを儲けています。

なお、細川藤孝は、生涯側室、妾を持たなかったようです。

足利義昭擁立(1565年7月28日)

永禄8年(1565年)5月、第13代将軍であった足利義輝と、母・慶寿院、弟の鹿苑院院主・周暠が松永久通・三好三人衆らによって暗殺されるという大事件が起こります(永禄の変)。

このとき、足利義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)もまた、松永久通らによって捕縛され、大和国・興福寺一乗院に幽閉されます。

ここで、細川藤孝は、一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らと共に、足利義昭救出作戦を決行し、同年7月28日、興福寺一条院に押し入って足利義昭を救出します。

そして、大和国を脱出した足利義昭と細川藤孝らの一行は、木津川をさかのぼって伊賀国へ脱出した後、近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀国と近江国との国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで足利義昭が足利将軍家の当主となると宣言します。

足利義昭は、同年11月21日、野洲郡矢島村(現在の守山市矢島町)に進出し在所とし(矢島御所)、永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため還俗し足利義秋と名乗ります。

その後、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って上洛を試みましたが奏功せず、朝倉家の家臣であったとされる明智光秀の仲介により、尾張国の織田信長を頼ります。

足利義昭の上洛戦(1568年9月28日)

足利義昭は、織田信長が制圧した美濃国と、浅井長政との同盟により確保した北近江ルートを使って、外交交渉での上洛を目指しましたが六角義賢の抵抗にあって失敗に終わります。

その結果、織田信長は、外交で南近江国を通過することは困難であると考え、軍事ルート(力づく)での通過を決定します。

そして、織田信長は、永禄11年(1568年)9月12日〜13日の観音寺城の戦いで六角義賢・六角義治親子を観音寺城の戦いで下して南近江の安全を確保し、同年9月28日に足利義昭を奉じて上洛します。

この上洛の際には、もちろん細川藤孝も足利義昭に従って入京しています。

勝竜寺城改築を命じられる(1571年)

この後、織田信長は、永禄11年(1568年)9月29日、5万の兵を率いて岩成友通が守る勝龍寺城の攻略に向かいます。

大軍を率いて畿内に進軍してきた織田信長に勝ち目がないと悟った岩成友通は、降伏して勝竜寺城を織田信長に明け渡します(勝竜寺城の戦い)。

そして、この後、織田信長は、わずかな期間で畿内を制圧します。

その後、織田信長が主力軍を連れて本拠地・岐阜に戻ったため、永禄11年(1568年)10月14日、畿内から追い出された三好三人衆が本圀寺にいる足利義昭を襲撃するという事件が起こりますが、明智光秀や細川藤孝が援軍として駆け付け、また三好本家の三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの奮戦により、三好三人衆の撃退に成功します(本圀寺の変)。

織田信長は、阿波国に逃れた三好三人衆から京を防衛するため、勝竜寺城・淀古城・槇島城をもって南側の防衛ラインを構築し、この防衛ラインの一端を担う拠点として勝竜寺城を重視し、元亀2年(1571年)に細川藤孝に勝竜寺城を大改修させます(なお、細川藤孝は、このときはまだ幕臣として足利義昭の配下であったのですが、事実上は織田信長にも帰属していたような状況でした。)。

そして、細川藤孝は、改修完了後、織田信長から勝竜寺城主を命じられています。

織田信長に仕える

足利義昭の下を去る(1573年3月)

元亀3年(1572年)9月、織田信長が足利義昭に17条の意見書が突きつけたことにより足利義昭と織田信長の対立が表面化すると、細川藤孝はその立場について思い悩みます。

足利義昭は、元亀4年(1573年)1月、武田信玄の西上作戦に呼応し、淀古城の岩成友通と結ぶなどして打倒織田信長の兵を挙げ、伏見城の三淵藤英とともに南の守りを固め、西上してくる武田信玄、北の朝倉氏・浅井氏、南の松永久秀で四方から織田信長を取り囲むという作戦を立案します。

ところが、元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に蹴散らしたはずの武田軍が、武田信玄の体調が悪化を理由に攻勢を停止させます。

こうなると、もはや足利義昭に勝ち目はありません。

ここで、細川藤孝は、考え抜いた末、家を残す決断をします。

細川藤孝は、元亀4年(1573年)3月29日、足利義昭の下を離れ、軍勢を率いて上洛してきた織田信長を逢坂の関まで出向いて迎え、織田信長に恭順することを示したのです(なお、このとき兄の三淵藤英は、足利義昭方に残っています。)。

この後、細川藤孝は、織田信長の配下に組み込まれ、二条御所包囲戦に参加することとなり、元亀4年(1573年)4月2日には、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重らと共に市外に放火し、また同年4月4日には上京に放火しています。

京の町が燃えていくのを見た足利義昭は、元亀4年(1573年) 4月7日、正親町天皇から和睦の勅命を受け入れ、足利義昭の降伏という形で織田信長と足利義昭が和睦に至っています。

室町幕府滅亡(1573年7月18日)

ところが、懲りない足利義昭は、織田信長が将軍である自分を殺すことができないと考え、元亀4年(1573年) 7月3日、正親町天皇の勅命を破棄して再度挙兵し、二条御所に三淵藤英(細川藤孝の兄)、伊勢貞興、日野輝資、高倉永相などを残し、自身は槇島城に籠って、淀古城の岩成友通と共に再び織田信長と一戦交えようと図ります。

これに対し、織田信長は、同年7月10日、二条御所を取り囲み、三淵藤英を降伏させて二条御所を開城させ、これを破却します。

そして、織田信長は、そのまま槇島城に向かって南進していくのですが、途中で羽柴秀吉に命じて別動隊を組織させて岩成友通が籠る淀古城に向かわせ、淀古城から槇島城への後詰を封じます。

そして、本隊を率いて槇島城を攻撃した織田信長は、同年7月18日、嫡男の足利義尋を人質として差し出させて足利義昭を降伏させ(槇島城の戦い)、足利義昭を京から追放して室町幕府を滅ぼします。

長岡(西岡)を得て長岡姓となる

織田信長は、室町幕府を滅ぼした後、細川藤孝に、山城国西岡一帯(現在の長岡京市、向日市付近)の地を与えます。

このとき、細川藤孝は、織田信長の恩に報いるため、西岡の地名について、織田信長の「長」の字を取って、「長岡」に改めています。

また、細川藤孝自身も、姓を長岡藤孝と改めます(なお、細川藤孝は、この後しばらく長岡姓を名乗っているのですが、ややこしくなりますので本稿では細川藤孝で統一します。)。

そして、天正2年(1574)6月、勝龍寺城にて、三条西実枝から古今伝授を受け、その子三条西公国とさらにその子(実枝の孫)三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承しています。

なお、細川藤孝は、天正3年(1575年)ころには、長岡の地で抵抗勢力となっていた物集女疎入(もずめそにゅう)という武将を謀殺するなどして領地経営に奔走しています

第二次淀古城の戦い(1573年8月)

その後、細川藤孝は、元亀4年(1573年)8月には、池田勝正、三淵藤英と共に淀古城攻めに参加し、これを攻略する武功を挙げています(第二次淀古城の戦い)。

そして、この後、細川藤孝は、織田信長麾下の武将として、織田軍の戦いに転戦し、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦(天王寺砦の戦いでの明智光秀救出戦なども有名です。)、紀州征伐など、主に畿内周辺での戦いに赴いています。

また、細川藤孝は、天正5年(1577年)10月5日に始まる信貴山城の戦いでは明智光秀と共に戦い、同行していた細川藤孝の嫡男・細川忠興が片岡城攻めで手柄を立てて織田信長から感状を得ています。

明智光秀と姻戚関係となる(1578年)

天正6年(1578年)8月、織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡男・細川忠興の室として、明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)の婚儀が行われ、細川家と明智家とが姻戚関係となります。

明智光秀と姻戚関係を結んだ細川藤孝は、この後、明智光秀に随行し、天正7年(1579年)7月に始まる第二次黒井城の戦いになどで活躍しています。

丹後南半国を得る(1580年8月)

その後、明智光秀を助けて丹後国を平定した細川藤孝は、天正8年(1580年)8月、織田信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)11万石を与えられます。

ところが、あわせて、細川藤孝は、織田信長から、戦時には明智光秀の指揮下に入るよう(明智光秀の与力大名となる)にも命じられます。

これは、国持大名とするので、それまで細川藤孝の下の身分であったはずの明智光秀の命令に従って戦時行動をとれという命令です。細川藤孝としては複雑な心境になったと思います。

いずれにせよ、丹後南半国に領地を得た細川藤孝は、丹後国・八幡山城を経て宮津城へ移ります。なお、丹後北半国(中郡・竹野郡・熊野郡)は、旧丹後守護家である一色義定の領有とされています。

細川藤孝隠居

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が謀反を起こして織田信長を討ち取ると(本能寺の変)、明智光秀は自身の与力でありまた姻戚関係にもある細川藤孝に対し、自身に味方するよう求めます。

ところが、細川藤孝は、事実上これを拒否します。

その上で、細川藤孝は、織田信長への弔意を示すためとして剃髪して仏門に入り、雅号を幽斎(ゆうさい)・法名を玄旨(げんし)とします(なお、本稿では、ややこしくなりますので、以下も細川藤孝で統一します。)。

その上で、細川藤孝は、細川家の家督を細川忠興に譲って、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示すと共に、田辺城に隠居します。

明智光秀横死(1582年6月13日)

細川藤孝が明智光秀の誘いを断ったことにより、その他の明智光秀の他の与力大名であった中川清秀(茨木城主)・高山右近(高槻城主)・筒井順慶大和郡山城主)らも明智光秀の下への参集を拒絶します。

その結果、思ったように軍を集められなかった明智光秀は、羽柴秀吉・織田信孝連合軍と比べて大きく兵数が劣る結果となり、山崎の戦いに敗れて命を落とします。

豊臣秀吉に仕える

細川ガラシャ幽閉

山崎の戦いに敗れて明智光秀が没したため、細川ガラシャは謀反人・裏切者の娘となりましたので、細川忠興としても、妻とはいえ明智光秀の娘を自由にさせておくことはできません。

そんなことをすれば、細川忠興自身の内通も疑われ、さらには細川家の危機にもつながるからです。

そこで、細川忠興は、細川ガラシャを丹後国・三戸野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉します。

そして、明智光秀を討って天下を統一しつつある羽柴秀吉の取り成しにより、天正12年(1584年)3月に幽閉が解かれるまで約2年間の幽閉生活を経て、細川ガラシャは、ようやく夫・細川忠興のいる大坂の細川屋敷に戻されます。

細川忠興と共に羽柴秀吉に仕える

細川忠興に細川家の家督を譲った後も、細川藤孝は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用されて側に仕え、天正13年(1585年)の紀州征伐には将として参戦しています。

また、天正14年(1586年)には在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられ、天正15年(1587年)の九州平定にも参戦します。

梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行い(薩摩御仕置)、この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増されました(後に越前国府中に移封されています。)。

また、細川藤孝は、武将としての活躍だけでなく、文化人としても名高く、千利休や木食応其らと共に豊臣秀吉の側近として寵遇されています。

足利義昭の葬儀を主催

なお、慶長2年(1597年)8月28日に、足利義昭が、大坂又は備後国鞆浦で薨去(享年61歳)したのですが、落ちぶれて葬儀を執り行う者もいなかったため、見かねた細川藤孝が葬儀を主催したと言われています。

徳川家康に仕える

徳川家康と石田三成の権力闘争

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が病没すると、豊臣家内において、家臣団が武断派の徳川家康派と文治派の石田三成派に分かれて抗争をはじめまたのですが、徳川家康とも親交があった細川藤孝は、細川忠興と共に徳川家康方に与します。

慶長5年(1600年)7月16日、徳川家康が、上杉征伐のために軍を率いて東北に向かって出陣したのですが、このとき細川忠興も丹後国からほとんどの軍勢を引き連れてこれに同行します。

そのため、丹後国に残るのは、細川藤孝とその3男の細川幸隆率いる500人に満たない手勢で守る丹後田辺城のみとなっていました。

細川ガラシャ自害(1600年7月17日)

このとき、大坂では、石田三成が、徳川家康方の諸将が東北に向かって出発した後すぐ、徳川家康に味方した諸将の妻たちを人質に取ろうと動き始めます。

石田三成は、細川屋敷にいた細川ガラシャも人質としようと使いを出しますが、細川ガラシャがこの申し出を拒絶したため、石田三成はやむなく、慶長5年(1600年)7月17日、兵を派遣して細川屋敷を囲み、力づくで細川ガラシャを連れ去ろうとします。

このとき、細川ガラシャは、夫・細川忠興の足枷とならないよう、人質となるのを避けるために死を選びます。

もっとも、細川ガラシャが信じるキリスト教では、自殺が禁じられていますので、細川ガラシャは、屋敷内の侍女・婦人を屋敷外に出し、最後の祈りをささげた後、家老の小笠原秀清(少斎)に命じて死に至りました。享年38歳でした。

丹後田辺城の戦い(1600年7月19日~)

石田三成ら西軍は、まず畿内近国の家康側諸勢力の制圧を始め、上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つとなりました。

そして、西軍は、小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍で丹後田辺城を包囲します。

西軍1万5000人、丹後田辺城守備兵500人という兵力の差があり、また援軍の見込みもなく、田辺城は1~2週間で落城寸前となります。

もっとも、攻め手の西軍の中には、細川藤孝の歌道の弟子も多く、攻撃に及び腰であったこともあり、長期戦となります(田辺城の戦い)。

その後、後陽成天皇の勅使として三条西実条・中院通勝・烏丸光広が田辺城に下されたことにより、同年9月13日(関ヶ原の戦いの2日前)、勅命による講和が結ばれ、細川藤孝は同年9月18日に城を明け渡して敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入っています。

なお、このとき細川藤孝の命が助けられた理由としては、当時細川藤孝が唯一の古今伝授の伝承者であったため、これが失われるのを防ぐため、後陽成天皇の勅命があったためとも言われています。

細川姓に服する

その後、関ヶ原の戦いで、細川忠興が大功を挙げ、豊前国小倉藩39万9000石の大封を得たことにより、細川家の本拠地が長岡の地から豊前国・小倉に移り、当主・細川忠興をはじめとする長岡氏一門は、細川氏に復し、長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられる扱いとなりました。

もっとも、細川藤孝は、細川忠興と共に豊前国小倉に移ることはなく、京の吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。

細川藤孝の最期

細川藤孝死去(1610年8月20日)

そして、細川藤孝は、慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去します。享年77歳でした。

細川藤孝の遺領分配

細川藤孝の死により、その所領6000石とその他の遺産は、孫の長岡休無(細川忠隆、細川忠興により廃嫡)に3000石が、その他は次男・細川興元の下野国茂木藩1万石立藩の足しとして受け継がれました。

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