【八田知家】常陸守護として鎌倉幕府を支え小田城を築城した常陸国小田氏の祖

八田知家(はったともいえ)は、石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れてきた源頼朝の下に参じ、その後鎌倉幕府を創成期から支えた御家人の1人です。

源頼家の時代に設置された最高幹部による合議体である13人の合議制の構成メンバーでもあります。

常陸守護となり、小田城を築城し、後に常陸国の最大勢力ともなった小田氏の始祖でありますが、知名度はイマイチです。

本稿では、重要人物であるにもかかわらずマイナー扱いに甘んじている八田知家について見ていきたいと思います。

八田知家の出自

出生(1142年)

八田知家は、康治元年(1142年)、下野宇都宮氏の当主であった八田宗綱(宇都宮宗綱)の4男として生まれます。なお、天養元年(1144年)誕生とする文献もあります。

また、父についても源義朝の落胤とする説もありますが、年齢を考えるとおそらくあり得ません。

青年期

八田知家は、保元元年(1156年)に勃発した保元の乱では源義朝の属する後白河天皇側について戦うなどし、武功を挙げていきます。

 

源頼朝挙兵に参加

下野国茂木郡の地頭職安堵

八田知家は、以仁王の令旨を得て山木兼隆の館を襲って対平家の兵を挙げた源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れてくると、源頼朝の下に参じてこれに協力します。

その後、八田知家は、富士川の戦いを制して鎌倉に入り東国支配を進める源頼朝から下野国茂木郡の地頭職を安堵されます。

野木宮合戦(1183年2月23日)

寿永2年(1183年)2月20日、平家軍が鎌倉に襲来すると風聞されたために源頼朝の有力御家人らがこれに対抗するため駿河国に赴くという事件が起きます。

このとき源頼朝の対抗勢力であったの常陸国信太荘(茨城県稲敷市)の志田義広(源為義の3男で源頼朝の叔父)が、鎌倉が手薄となったと判断して、3万余騎を率いて下野国・野木宮へ進軍してきます。

これに対し、源頼朝は、下河辺行平と小山朝政に対応を託したのてますが、八田知家も、この討伐軍のうちの小山朝政軍に源範頼らと共に加わります。

そして、同年2月23日、両軍の決戦の結果源頼朝方が勝利し、これにより関東に源頼朝に敵対する勢力が無くなります。

右衛門尉に任官

その後、八田知家は、元暦元年(1184年)、木曾義仲討伐のため鎌倉を出発した源義経軍に従軍して入京します。

そして、源義経が、木曾義仲討伐の功により源頼朝に無断で任官した際、八田知家も便乗して右衛門尉に任官したため、後に源頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と咎められ、源頼朝に謝罪をして許されています。

源範頼の山陽道九州遠征(1184年9月)

 

一ノ谷の戦いに勝利して福原から平家を追い払った源氏方は、梶原景時を播磨・美作の、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使(守護)に任命して山陽道を確保し、また佐原義連を和泉の、佐々木定綱を近江の、津々見忠季を若狭の、大内惟義を伊賀と美濃の惣追捕使に任命して畿内の平家方勢力を討伐を図ります。

もっとも、元暦元年(1184年)7月頃から、屋島に残る平家の勢力が再び船で瀬戸内海を渡って山陽道に出没し始め、そこかしこで鎌倉御家人を襲撃するようになるのですが、水軍を持たない源氏はこれを撃退できず平家のゲリラ戦法に悩まされ続けます。

困った源頼朝は、瀬戸内の平家の力を削ぐべく、まずは山陽道及び九州の平氏勢力の討伐を決断します。

そこで、源頼朝は、源範頼に対して西国出兵を命じ、これを受けた源範頼は、元暦元年(1184年)8月8日、和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎を率いて平氏追討のために鎌倉を出立します。

その後、京に入った源範頼は、同年8月27日に追討使に任命された上で軍の結集を待ち、ここに八田知家の他、千葉常胤三浦義澄・葛西清重・小山朝光・比企能員・工藤祐経・天野遠景ら3万騎が集結し、同年9月1日、京を出発し西に向かいます(源範頼の山陽道・九州遠征)。

そして、山陽道を進む源範頼の軍は同年10月には安芸国に、同年12月には備中国に到達し、ここで平行盛軍を撃破して(藤戸の戦い)、山陽道の一応の安全を確保し、その後兵糧難・船不足など数々の問題に苦慮しつつも、なんとか豊後国から九州に到達します。

そして、九州に上陸した源範頼軍は北上し、同年2月1日に、葦屋浦の戦いで平家家人・原田種直を破り太宰府に入るのですが、八田知家もこの戦いに参戦しています。

その後の壇ノ浦の戦いの際には源範頼軍に属して九州方面の陸上部隊として彦島包囲に参加し、戦後に東国に戻っています。

奥州合戦(1189年7月~9月)

平家を滅ぼした源頼朝は、直接的に対立していたわけではなかったものの、奥羽に強大な力を持ち潜在的脅威となり得る奥州藤原氏を排除するため、罪人・源義経を匿ったためと言う名目で奥州藤原氏討伐戦を開始します。

そして、源頼朝は、文治5年(1189年)7月17日、28万4000余騎とも言われる大軍を動員し、これを大手軍(源頼朝・畠山重忠軍)・東海道軍(八田知家・千葉常胤軍)・北陸道軍(比企能員・宇佐美実政軍)の三軍に分け、3方面から奥州に戦いを仕掛けます。

このとき、八田知家は、東海道軍の総大将の1人として、常陸国や下総国の武士団を率いて岩城岩崎方面から奥州に向かっています。

そして、同年9月3日、奥州藤原氏当主・藤原泰衡が郎従の河田次郎に殺害されたことにより、奥州藤原氏が滅び、奥州合戦が終了します。

 

常陸守護補任

建久4年の常陸政変(1193年)

建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が主催して行われた富士裾野の巻狩りの直後に、曾我兄弟が工藤祐経を殺害するという事件が発生します(曾我兄弟の仇討ち)。

この話を聞いた八田知家は、この混乱に乗じて、同じ常陸国に知行地を持つ多気義幹を陥れるための策謀を巡らせます。

具体的には、八田知家が、多気義幹に対し、八田知家が軍勢を集めて多気義幹を討とうとしているという噂を流し、多気義幹を武装させた上で、防戦準備のために城に立て籠らせます。

その上で、八田知家が、源頼朝に対し、曽我兄弟の狼藉を聞いてすぐに源頼朝の下に駆け付けようと思い多気義幹にも賛同を求めたが、多気義幹が兵を集めて謀反を企ててこれを断ったと訴えたのです。

これを聞いた源頼朝は、多気義幹の常陸国筑波郡・南郡・北郡などにあった領地を没収し、その身柄は岡辺泰綱に預けます。

こうして、八田知家は、謀略により政敵の排除に成功します(建久4年の常陸政変)。なお、この事件により、多気義幹が有していた常陸平氏の惣領と常陸大掾の地位が馬場資幹に移ったとされています。

常陸守護補任

政敵・多気義幹を排除した八田知家は、この後、本拠地を多気義幹の旧所領であった常陸に移します。

そして、その後、常陸国内で大きな力を持った八田知家は、常陸守護に任命されます。

小田城築城

八田知家は、常陸守護となった頃に小田城(現在の現在の茨城県つくば市小田)を築いたとされています。

この小田城は、その後小田氏(八田知家の子孫)の居城として様々な改修が行われれましたが、主郭(本丸)の最終形状は約120m x 120mの方形館(ほうけいやかた)のままであり鎌倉時代の名残が残されたまま廃城を迎えます。

なお、壇ノ浦の戦いで捕らえた平景清(藤原景清)が、建久7年(1196年)に八田知家で絶食し果てたといわれていますので、その死亡場所が小田城だったのかもしれません。

 

13人の合議制

13人の合議制の構成員となる

建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

将軍となった源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、苦労を知らないお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。

そればかりか、源頼家は、将軍就任後3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制により行われることとなります。

この13人の合議制は、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムです。

八田知家も、有力御家人の1人としてその一翼を担います。

阿野全成誅殺(1203年6月23日)

その後、北条時政が、北条義時阿野全成らと結託し、源頼家排斥のための行動を取り始めます。

この動きに危険を感じた源頼家は、建仁3年(1203年)5月19日、武田信光に命じて阿野全成を謀反人として捕縛し、御所に閉じ込めます。

その後、同年5月25日に阿野全成が常陸国に配流されます。

そして、源頼家が常陸国を治める八田知家に阿野全成の処刑を命じたため、八田知家は、同年6月23日、これを誅殺しています。

もっとも、このときは危機を払った源頼家でしたが、源頼家自身に北条時政と戦う力程のはなく、北条氏によって将軍位を廃され伊豆国修善寺へ追放された後、元久元年(1204年)7月18日に暗殺されています。

 

八田知家の最期(1218年3月3日)

そして、八田知家は、源実朝まで源氏4代(源義朝から源実朝まで)に仕えた後、建保6年(1218年)3月3日に死去しました。

その後、八田知家の子である八田知重が八田家の家督を継いだのですが、八田知家の孫である4代・小田泰朝が「小田姓」姓を称し、戦国時代末期まで筑波地方の中心的役割を果たしました。

戦国最弱で有名な常陸国の不死鳥・小田氏治も彼の子孫です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA