【四條畷の戦い】小楠公・楠木正行が敗れ、観応の擾乱の引き金となった戦い

楠木正成(大楠公)の嫡男である楠木正行(小楠公)が、敗死したのが四條畷の戦いです。

実際には、四條畷ではなく野崎と北四条で戦っていますので、合戦名には若干の違和感もありますが、一般に知れ渡っている呼称に従って、本稿でも四條畷の戦いと表記します。

楠木正成が湊川の戦いで敗死した後も、北畠顕家・新田義貞ら南朝方の主要な武将が敗れて死んでいったため勢力が落ちていく南朝を支えようと奮闘し、23歳の若さで散った楠木正行の戦いぶりは涙腺を刺激するものがあります。

本稿では、若武者・楠木正行の最期を飾った四條畷の戦いについて、その発生機序から順に見ていきましょう。 “【四條畷の戦い】小楠公・楠木正行が敗れ、観応の擾乱の引き金となった戦い” の続きを読む

【野崎城】東高野街道の支配のために築かれた河内国の山城

野崎城(のざきじょう)は、大阪府大東市にあった日本の城です。

超マイナーで歴史マニアでもほとんど名があがることのない城です。

もっとも、実は小楠公・楠木正行が散った四条畷の戦いの舞台となり、最初の天下人三好長慶の本拠地の出城となった城でもありますので、もう少し取り上げられてもいい城だと思います。

本稿では、そんな歴史に埋もれた野崎城について簡単に説明していきます。 “【野崎城】東高野街道の支配のために築かれた河内国の山城” の続きを読む

【飯盛山城・飯盛城(続日本100名城160番)】天下人・三好長慶の最期の城

飯盛山城(いいもりやまじょう)は、河内国と大和国の国境に位置する飯盛山(現・大阪府大東市及び四條畷市)に築かれた山城です。

正式な名称は飯盛城なのですが、飯盛城という名の城は他県にも存在してややこしいので、本稿では有名な別称である飯盛山城で統一します。

名前の由来は、城の北側が椀に盛った飯のようななだらかな山容であることにちなみます。もっとも、実際には深い谷や峻険な断崖で守られた天然の要害となっており、名前のような穏やかさはありません。

織田信長に先立つ天下人・三好長慶の最期を迎えた城でもあります。 “【飯盛山城・飯盛城(続日本100名城160番)】天下人・三好長慶の最期の城” の続きを読む

【交野城(私部城)】織田信長と松永久秀の戦いに翻弄された河内国の土の城

交野城(かたのじょう)をご存知ですか。別名私部城(きさべじょう)とも言います。

近くに住んでいなければそもそも読めない難読地名である上、歴史好きでもほとんど知られていない超マニアックな城です。

歴史に埋もれてしまっていますが、戦国時代には東高野街道・山根街道に接する河内国の玄関口を牛耳った平城です。

本稿では、そんな重要ながらマイナーな城、交野城について紹介します。

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【武田信虎】甲斐国を統一し戦国最強武田軍の基礎を築いた武田信玄の父

甲斐国を統一し、甲府を建設した人物をご存知ですか。

武田信玄の父・甲斐武田宗家18代の武田信虎です。

武田信玄に追放された悲しい戦国大名というイメージが先行していますが、国をまとめ、都市を造り、優秀な人材を登用し、他国を攻略していくという偉業をなし、戦国最強武田家の礎を築いたを人物です。もっと評価されていい武将です。

本稿は、そんな武田信虎について見ていきたいと思います。 “【武田信虎】甲斐国を統一し戦国最強武田軍の基礎を築いた武田信玄の父” の続きを読む

【二股口の戦い】土方歳三の軍略が冴え渡った旧幕府軍のゲリラ戦

二股口の戦いは、渡島国亀田郡大野村(現在の北海道北斗市中山峠)で発生した、函館への進軍を目論む明治新政府軍と、これを阻止しようとする旧幕府軍との間で起こった2週間に亘る戦いです。

新撰組鬼の副長・土方歳三が、台場山に胸壁と陣地を構築してゲリラ戦を行い、兵数も装備も大きく劣る状況下で新政府軍を撃退したことでも有名です。

本稿では、この二股口の戦いについて、その発生の背景から順に見ていきたいと思います。 “【二股口の戦い】土方歳三の軍略が冴え渡った旧幕府軍のゲリラ戦” の続きを読む

【芥川山城(続日本100名城159番)】最初の天下人三好長慶の居城

芥川山城は、大阪府高槻市内の三島平野の最奥部にある三好山の山頂部東西・南北約450mに広がる中世の山城です。

畿内をほぼ制圧した最初の天下人・三好長慶が、京にほど近く淀川水系を押さえることができる交通の要衝として選んだ場所にあります。

山中に建てられていたこともあって宅地開発による破壊から免れていることから遺構の保存状態も比較的良好で、すぐ西側には摂津峡がありファミリーで遊ぶついでにアクセスするにもうってつけです。

なお、当時の呼称は「芥川城」なのですが、近くに同じ名である芥川城が存在することから混同を避けるために芥川山城と呼ばれることが一般的であるため、本稿においても芥川山城と標記します。 “【芥川山城(続日本100名城159番)】最初の天下人三好長慶の居城” の続きを読む

【江藤新平】政争に敗れ佐賀の乱で死刑となった日本近代司法制度の祖

日本の近代司法制度の生みの親が誰かご存知ですか。

維新の十傑とも言われ、日本の近代司法制度を作り上げるという偉大な功績を残したにもかかわらず、意外に知名度の低い人物・江藤新平です。

知っている方は、日本史通の方か法曹関係者の方ではないでしょうか。

知名度の低さは、逆賊の汚名を着せられて処刑されたこともその原因となっています。

本稿では、そんなマイナーな偉人・江藤新平の生涯について見ていきたいと思います。 “【江藤新平】政争に敗れ佐賀の乱で死刑となった日本近代司法制度の祖” の続きを読む

【小谷城の戦い】浅井長政が切腹し浅井氏が滅亡した戦い

小谷城の戦いは、北近江の覇者となった浅井家が、織田信長に敗れて滅びた戦いです。

徐々に追い詰められていく浅井家を見ていくと滅びの悲しさが見てとれます。

本稿では、そんな浅井家の滅びの戦いについて見て行きましょう。 “【小谷城の戦い】浅井長政が切腹し浅井氏が滅亡した戦い” の続きを読む

【室町幕府の成立】1336年の建武式目制定により成立した足利尊氏政権

後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏は、九州で再起を果たし、京を目指して進軍していきます。

なお、建武の新政の成立及び足利尊氏と建武政権の対立(建武政権が勝っていた序盤戦足利尊氏が逆転した終盤戦)については、別稿をご参照ください。

京に攻め上った足利尊氏は、後醍醐天皇を追い払った上で光明天皇を擁立し、その下で室町幕府を開きます。

本稿では、この足利尊氏入京から室町幕府の成立について見ていきましょう。 “【室町幕府の成立】1336年の建武式目制定により成立した足利尊氏政権” の続きを読む