【井伊直政】外様大名ながら徳川四天王に上り詰めた出世頭

外様大名でありながら、徳川家臣団の中で最大知行を得るまで出生した井伊直政。

幼くして父の謀反の疑いに連座して殺されかけ、家臣団の取り計らいによって徳川家康に仕え、その後の武功・政治力により最終的に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主となり30万石の基礎を築いた大人物です。

井伊の赤鬼という渾名で知っている人が多いかもしれません。

本稿では、そんな波乱万丈だった井伊直政の人生について見ていきたいと思います。 “【井伊直政】外様大名ながら徳川四天王に上り詰めた出世頭” の続きを読む

【第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)】カニバリズムに至った豊臣秀吉の兵糧攻め

鳥取城の飢え殺し(とっとりじょうのかつえころし)と言われる凄惨な兵糧攻めをご存知ですか。

攻城戦の名人として名高い豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)の城攻めの中でも1、2を争う残酷な戦いです。

綺麗事ではいかない戦争の怖さが集約された戦いとも言えます。

本稿では、地獄絵図となった第2次鳥取城の戦いについて見て行きましょう。 “【第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)】カニバリズムに至った豊臣秀吉の兵糧攻め” の続きを読む

【有岡城(伊丹城)】摂津国を支配した荒木村重の居城

織田信長に反旗を翻した荒木村重が10ヶ月間もの長きに亘って籠った有岡城。

摂津国川辺郡伊丹段丘有岡(現・兵庫県伊丹市)に存在した巨城で、摂津国を統治した荒木村重の居城であり、周囲に多くの支城をはべらした大城郭でありながら、歴史に埋もれてしまっている城と言えます。

本稿では、そんな有岡城について簡単にみていきたいと思います(なお、有岡城は在岡城とも言い、改名前は伊丹城とも言っていました。)。 “【有岡城(伊丹城)】摂津国を支配した荒木村重の居城” の続きを読む

【稲葉一鉄(稲葉良通 )】頑固一徹の語源となったと言われる西美濃三人衆筆頭武将

稲葉一鉄(稲葉良通)をご存知ですか。

美濃国曽根城主として土岐氏、斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕え、安藤守就、氏家直元と共に西美濃三人衆と称された武将です(稲葉一鉄は三人衆筆頭)。

後に江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となって権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父・養祖父にあたる人物です。 “【稲葉一鉄(稲葉良通 )】頑固一徹の語源となったと言われる西美濃三人衆筆頭武将” の続きを読む

【塙直政(原田直政)】異例の出世を遂げたが本願寺との三津寺砦の戦いで討ち取られた武将

塙直政は、織田信長の下で異例の出世を遂げ、一時期は宿老達に匹敵する知行を得ていた武将です。読み方は「ばんなおまさ」であり、「はなわ」ではありません。

出世街道を駆け上っていたにも関わらず、本願寺との戦いで討ち死にした上、その責を負わされて一族郎党追放されたためその後の歴史に名を残さずマイナー扱いされています。

本稿では、そんな歴史に埋もれた武将である塙直政について見ていきましょう。 “【塙直政(原田直政)】異例の出世を遂げたが本願寺との三津寺砦の戦いで討ち取られた武将” の続きを読む

【佐久間信盛】退き佐久間と呼ばれた戦巧者ながら織田信長にポイ捨てされた筆頭家老

佐久間信盛(さくまのぶもり)は、織田信長の尾張統一戦から常に織田信長に従って転戦してきた織田弾正忠家の筆頭家老でありながら、石山合戦直後に織田信長に追放された悲劇の武将です。

綺羅星の如く湧き出る織田家の有能武将の中でも、生涯を通して織田信長に従って各地を転戦し(佐久間信盛の戦歴は織田信長の戦歴と言えます。)、「木綿藤吉、米五郎三、かかれ柴田に退き(のき)佐久間」と呼ばれた戦巧者としてこき使われた挙句、織田信長にポイ捨てされたという悲しい結末を迎えた人物です(なお、退き佐久間とは、殿軍の指揮を得意としたことに由来したあだ名です)。

本稿では、そんな悲しき武将の生涯について見ていきましょう。 “【佐久間信盛】退き佐久間と呼ばれた戦巧者ながら織田信長にポイ捨てされた筆頭家老” の続きを読む

【多聞城(多聞山城)】大和国支配のため宗教勢力と戦う松永久秀の居城

多聞城は、三好政権下において松永久秀が難治の国と言われた大和国に侵攻するための橋頭保とするために築かれ、大和国平定後には巨大宗教勢力であった東大寺と興福寺を押さえつけ睨みを利かせるために用いられた城です。

戦国期の城の代表格と言える安土城の15年も前に築かれた城であったにもかかわらず、瓦葺きの屋根・漆喰塗りの白壁・四階建の高矢倉など、後世の築城に大きな影響を与えた画期的な城です。後の城で多用された多聞櫓の名称の由来となった櫓の発祥地となった城でもあります。

本稿では、そんな歴史的に重要な意味を持つ多聞城について紹介していきます。 “【多聞城(多聞山城)】大和国支配のため宗教勢力と戦う松永久秀の居城” の続きを読む

【以仁王の令旨】平家滅亡のきっかけとなった御教書

源氏が蜂起し、平家打倒のきっかけとなったのが、有名な以仁王の令旨です。

以仁王は、「平氏方の武将であった」源頼政に担がれて平家打倒に立ち上がったのですが、打倒計画の杜撰さと準備不足から早々に計画が露見し、両人とも宇治・平等院で敗死します。

もっとも、以仁王が挙兵の際に出した令旨が、平氏打倒の契機となって諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まるのです。

以下、以仁王の令旨について、以仁王と源頼政の反平家計画の経過を追いながら見ていきましょう。 “【以仁王の令旨】平家滅亡のきっかけとなった御教書” の続きを読む

【筒井城】筒井氏8代の栄枯盛衰を見届けた大和国の古城

筒井城は、大和国・興福寺一乗院に属する有力宗徒で宗徒の取締役として筒井城を拠点に武士化し、筒井順慶の代に戦国大名となった筒井氏の居城です。

何度も争奪戦の舞台となり、後に筒井順慶大和郡山城に移るまで筒井氏の栄枯盛衰を見届けた城でもあります。

以下、筒井氏と共に波乱万丈の戦国乱世を生き抜いた筒井城の歴史について見ていきます。
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【多々良浜の戦いから湊川の戦いまで】建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦

鎌倉幕府討伐後、その功労者である後醍醐天皇と足利尊氏確執は、中先代の乱の後に始まります。

両者の争いは、中先代の乱の後、矢作川の戦い、手越河原の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、第一次京都合戦、打出・豊島河原の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いを経て建武政権が倒れて終了します。

これらの一連の戦いのうち、前回建武政権が足利尊氏を追い払った前半戦を説明しましたので、今回は、足利尊氏が勢力を盛り返した多々良浜の戦いから建武政権終焉と室町幕府設立のきっかけとなった湊川の戦いまでについて見ていきましょう。 “【多々良浜の戦いから湊川の戦いまで】建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦” の続きを読む