【木曾義仲(源義仲)】京から平家を追放した朝日将軍の転落人生

 

木曾義仲は、平氏打倒で名を挙げて旭将軍として謳われるなど誰もがうらやむ名声を得ながら、人心を失って悲しい最期を遂げた人物です。

平家物語に描かれた、幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れのエピソードなどが有名かもしれません。

本稿では、そんな波瀾万丈の人生を駆け抜けた木曾義仲の生涯について、できるだけわかりやすく説明していきたいと思います。 “【木曾義仲(源義仲)】京から平家を追放した朝日将軍の転落人生” の続きを読む

【富士川の戦い】平家打倒で挙兵した源頼朝が関東武士団を統べるに至った合戦

安徳天皇の外戚となるなど、平氏にあらずんばひとにあらずとまで言われた栄華を誇った平氏ですが、その驕りから各地で平氏に対する不満が高まっていきます。

そして、治承4年(1180年)4月9日、源頼政と共に高倉天皇の兄宮である以仁王が挙兵し、「最勝親王」と名乗って諸国の源氏や大寺社に平氏追討の令旨を下します。

そして、この以仁王の令旨は、各地の反平氏勢力を刺激し、各地で反平氏の武装蜂起が起きます。

その多くは、早期に鎮圧されますが、源頼朝(河内源氏)、源義仲(河内源氏)、武田信義(甲斐源氏)の3勢力は、平氏勢力を蹴散らして生き残ります。

このうち源義仲は独力で京を目指すのですが、源頼朝と武田信義は協力して進んでいきます。

本稿では、この対平氏3勢力のうち、源頼朝の挙兵後の動きについて、武田信義との関係性にも配慮しつつ見ていきます。 “【富士川の戦い】平家打倒で挙兵した源頼朝が関東武士団を統べるに至った合戦” の続きを読む

源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵→東国私兵団として成立→公認東国私兵団→守護地頭設置権獲得→東北支配権→恒久的守護設置権→征夷大将軍任命という流れで確立していきます(完成は、承久の乱勝利後です。)。

この間、源頼朝はそのほとんどを鎌倉にて政治を行い鎌倉を離れていません。

すなわち、源頼朝の武家政権の樹立は、鎌倉で始まり,その後配下をうまく使って全国に拡大させていったのです。

本稿では、そんな源頼朝による武家政権の樹立のうちの初期の段階である鎌倉の開拓と東国支配に至るまでの流れについて見ていきたいと思います。 “源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造” の続きを読む

【桑山重晴】賤ヶ岳の戦いで鬼玄蕃の猛攻に耐えた武功で和歌山城代となった武将

桑山重晴(くわやましげはる)の名を聞いたことがありますか。

正直マイナーすぎる武将ですが、実は数々の武功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の猛攻を耐えて豊臣方の勝利に貢献した武将でもあります。

以下、本稿では、そんな桑山重晴の生涯について見ていきましょう。 “【桑山重晴】賤ヶ岳の戦いで鬼玄蕃の猛攻に耐えた武功で和歌山城代となった武将” の続きを読む

【徳川頼宣】徳川家康に愛され徳川秀忠に疎まれた御三家紀州藩の祖

徳川御三家・紀州徳川藩の藩祖をご存知ですか。

徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)です。暴れん坊将軍で有名な江戸幕府8代将軍徳川吉宗の祖父でもあります。

徳川家康に寵愛され、その死後も武断政治の先鋒として幕政に影響力を及ぼしていたにもかかわらず、晩年には幕府への謀反を疑われ江戸に10年もの長きに亘ってとどめ置かれるという苦労も経験しています。

本稿では、そんな酸いも甘いも噛み分けた徳川頼宣の人生について見ていきましょう。 “【徳川頼宣】徳川家康に愛され徳川秀忠に疎まれた御三家紀州藩の祖” の続きを読む

【和歌山城(日本100名城62番)】徳川御三家・紀州徳川家の居城

言わずと知れた徳川御三家の1つ紀州徳川藩の居城・和歌山城。

余り知られていませんが、御三家でありながら江戸幕府に対する藩主の謀反を疑われて惣構え構造の完成を見なかった城でもあります。

とは言え、その縄張りの見事さ、石垣の妙、重要文化財として残る岡口門、庭園や復元された御橋廊下の美しさなど一見の価値があることに疑問の余地はありません。

そこで、本稿は、和歌山城観光をより楽しむための前提となる和歌山城の歴史知識を簡単に説明します。 “【和歌山城(日本100名城62番)】徳川御三家・紀州徳川家の居城” の続きを読む

【武田信玄の佐久盆地侵攻】若き武田信玄の信濃侵攻作戦第3段となる佐久郡攻略戦

信濃国内で諏訪盆地・伊那盆地北部を獲得した武田信玄は、次に佐久盆地獲得を目指します。

主たる攻略対象は、大井貞清が治める内山城と笠原清繁が治める志賀城です。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の標的となった北伊那攻略戦

東に北条、南に今川という超大国がある甲斐国・武田家としては、領土を拡大するためには北西の信濃国に向かうほかはありません。

この点、信濃国は山地で平野部が遮られているために超大国が成立することはなく、伊那・諏訪・佐久・善光寺平・上田・松本という6つの盆地に国人衆が群雄割拠している状態でした。

そこで、武田信玄は、これらの小勢力を各個撃破していけば国力の増強が図れると考え、本拠地である甲斐国に近い場所から順に攻略作戦を展開していきます。

天文11年(1542年)9月に信濃国・諏訪郡を攻略した武田信玄は、続いて伊那獲得を目指すのですが、伊那盆地への侵攻は諏訪盆地から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)となり、具体的には藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城に決まります。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【勝竜寺城】細川ガラシャ輿入れと明智光秀最後の城

勝竜寺城は、細川忠興とその妻ガラシャが新婚時代を過ごした城であり、山崎の戦いで敗れた明智光秀が最後の夜を過ごした城でもあります。

京にもほど近く、度々歴史上のターニングポイントに現れる城であるにもかかわらず、その遺構のほとんどが消失していることから、マイナー扱いされている勝竜寺城。

本稿では、そんな勝竜寺城について簡単に解説をしていきます。 “【勝竜寺城】細川ガラシャ輿入れと明智光秀最後の城” の続きを読む

【佐久間盛政】肥後一国よりも斬首を選んだ鬼玄蕃

豊臣秀吉から肥後国一国を与えることを条件に配下になるよう求められたのに、これを断って斬首を望んだ猛将をご存知ですか。

栄養状態の良くない戦国時代に180cmもの体躯を持つ巨漢で、戦場で無類の強さを発揮して鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政です。

織田家中の重臣一家に生まれ、金沢の基礎を築いた人物でもあります。

数々の伝説を残し、太く短い人生を走り切った佐久間盛政の人生について見ていきましょう。 “【佐久間盛政】肥後一国よりも斬首を選んだ鬼玄蕃” の続きを読む