比企能員(ひきよしかず)は、乳母として罪人時代の源頼朝を支え続けた比企尼の甥であったために、比企尼の猶子となって比企家の家督を継ぎ、鎌倉幕府の有力御家人となった人物です。
比企尼の功に加え、一族を利用した姻戚関係、娘の若狭局が源頼家の側室となって嫡子・一幡を生んだことなどから、鎌倉幕府内で権勢を強めていました。
もっとも、あまりに大きくなりすぎた力を恐れた北条時政に危険視され、最終的には暗殺され、一族も粛清されて比企家滅亡に至るという悲しい結末を迎えています。
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源頼朝に仕える
比企能員の出自
その前半生に関する記録が残されていないため、比企能員の生年・父母・兄弟・出生地などはわかっていません。唯一わかっていることは、比企尼の妹の子であったということだけです。
比企家の家督相続
源頼朝の乳母であった比企尼は、伊豆国に流罪となった源頼朝を追って、武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から武蔵国に下り、以降、治承4年(1180年)の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けてその生活を支えていました(吾妻鏡・寿永元年10月17日条)。
また、比企尼は、3人いる娘のうち、長女・丹後内侍(京の二条院に女房として仕えていました。)を安達盛長に再嫁させ、娘婿となった安達盛長を源頼朝の下につけて、罪人であるために家人を持つことを許されない源頼朝の世話係をさせていました。
そんな比企尼でしたが、比企掃部允との間に3人の女子を儲けたものの男子がいなかったため、比企尼の甥であった比企能員が、比企尼の猶子となって比企家の家督を相続します。
源頼朝に従う
治承4年(1180年)8月17日に平家打倒の挙兵をした源頼朝でしたが、同年8月23日の石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れます。
もっとも、その後、源頼朝は、房総半島で安在景益・千葉常胤・上総広常らを、その後武蔵国に入って豊島清元・葛西清重・足立遠元・河越重頼・江戸重長・畠山重忠らを傘下に引き入れて勢力を拡大させて、鎌倉に入ります。
詳細な経緯は不明ですが、この途中で、武蔵国・比企郡を治めていた比企能員も源頼朝の下に参集したものと考えられます。
鎌倉・比企ヶ谷に館を構える
鎌倉に入った源頼朝は、それまでの比企尼の恩に報い、鎌倉の中心地の高台に位置する比企ヶ谷(現在の妙本寺)を比企尼に与え、比企能員と共に同地に住まわせます。
また、源頼朝は、比企家当主であった比企能員を側近として厚遇します。
このような破格の待遇を比企能員に与えた理由は、乳母として奉仕すると、育てられた子が成人してしかるべき地位に就くと、乳母の一族が所領や権力を手にすることが出来ることを意味し、ましてや、罪人として流されたことにより官位も所領も家人も失い世に出る可能性が極めて低かった源頼朝を支え続けた比企尼の功績が突出していたからです。
鎌倉幕府内で勢力を高める
源頼家の乳母父となる(1182年8月)
寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男(第3子で次男・嫡男)である源頼家が、鎌倉・比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれます。幼名は万寿と名付けられました。母は北条政子です(北条政子の子としては第2子で長男)。
乳母には比企能員の妻が選ばれ、その結果、比企能員は次期鎌倉殿の乳母父となります。
また、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)、その後は、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)など、主に比企氏の一族から選ばれます。
これは、源頼家の母が北条政子・祖父が北条時政であるために次期鎌倉殿の後ろ盾が北条氏となるのですが、それでは北条家の力が大きくなりすぎるため、比企家をけん制役とする意味があったのかもしれません(源頼朝の乳母は比企尼が務めており、源頼家に比企氏の乳母がつくことで、事実上の権力分掌がなせたのかもしれません。)。
源氏一門や有力御家人と姻戚関係を結ぶ
比企能員は、渋河兼忠の娘を室としていたのですが、この正室との間の他、多くの子を設け、そのうちの女子やさらには親族の女性を源氏一門や有力御家人に嫁がせて勢力を拡大させていきます。
① 姪・亀御前(安達盛長娘)を源範頼の正室とする
② 姪・郷御前を源義経の正室とする(1184年9月14日)
③ 姪・姫の前を北条義時に嫁がせる(1192年9月25日)
④ 娘(長女)・若狭局を源頼家の側室とする(1198年)
⑤ 娘(二女)を笠原親景に嫁がせる
⑥ 娘(三女)を中山為重に嫁がせる
⑦ 娘(四女)を糟屋有季に嫁がせる
出世を重ねる
比企能員は、元暦元年(1184年)5月に木曾義高の残党討伐のため信濃国に出陣したり、また、一ノ谷の戦いの後に行われた源範頼の山陽道・九州遠征に随行したりするなどして各地を転戦するなどして武功を挙げています。
また、壇ノ浦の戦いに敗れて捕虜となり鎌倉に送られた平家の棟梁・平宗盛と源頼朝との御簾越しに対面の際には、源頼朝の言葉を伝える役目を果たしています。
これらの功により、比企能員は、上野国・信濃国の守護(信濃国目代を兼任)を命じられます。
そして、文治5年(1189年)の奥州合戦には北陸道大将軍、建久元年(1190年)の大河兼任の乱には東山道大将軍として出陣しています。
さらに、源頼朝に御家人10人の成功(じょうこう)推挙が与えられた際には、その内の1人に選ばれて右衛門尉に任ぜられています。
源頼家の舅として権勢を振るう
以上のように鎌倉幕府内で順調に出世していた比企能員でしたが、その地位を一気に高める事件が立て続けに起こります。
建久9年(1198年)、源頼家の側室となっていた比企能員の娘・若狭局が、長男・一幡を出産したのです。
そして、建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就いたのです。
この結果、鎌倉殿の舅・次期鎌倉殿の祖父(外戚)となった比企能員の権勢が一気に高まります。
13人の合議制に名を連ねる
ところが、この権勢は、源頼家体制の発足直後からほころびを見せ始めます。
苦労を知らないお坊ちゃんである源頼家が、御家人たちの信頼を得ることができなかったのです。
建久10年(1199年)4月12日、鎌倉殿就任後3ヶ月を持たずして、有力御家人らによるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制が確立され、将軍権力の抑制がなされていきます。
この13人の合議制は、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムであり、比企能員もまた将軍近親者3名のうちの1人として、このシステムに参加します。
御家人間の権力争いの始まり
鎌倉殿の権力が抑制されるのに比例し、御家人の権力が大きくなっていったのですが、ここで御家人相互間での権力闘争が始まります。
最初のターゲットとなったのは梶原景時でした。
梶原景時失脚の始まりは、阿波局(北条時政の娘であり、北条政子・北条義時の姉妹)が、御家人である結城朝光に対し、結城朝光が謀反を企んでいると梶原景時が将軍に讒言したと讒言したことでした。なお、真偽は不明ですが、梶原景時失脚のきっかけを作ったのが阿波局であることから考えると、北条家による他氏排斥運動の始まりであると考えるのが一般的です。
身に覚えのないことから危機に陥ったと感じた結城朝光は、三浦義村に相談し、和田義盛ら梶原景時に恨みを抱く御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まり、梶原景時糾弾のための話し合いを行い、正治元年(1199年)10月28日、比企能員を含む御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元を通じて源頼家に提出されました。
連判状を見た源頼家は、同年11月12日、梶原景時を呼び出して弁明を求めたのですが、梶原景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて相模国一宮に下向してしまいました(梶原景時の変・なお、梶原景時は正治2年/1200年正月20日に一族もろとも暗殺されています。)。
この梶原景時の粛清は、一面においては、有力御家人を排除して相対的に比企能員の地位を高めたと言えるのですが、他面においては、源頼家の後ろ盾となってくれていた有力御家人を排除してしまったという比企能員陣営の損失ともいえました。
比企能員の変
比企能員暗殺(1203年9月2日)
こうして始まった御家人間の権力争いは、遂に比企能員にも及びます。
源頼朝の外戚である北条氏から、源頼家の外戚となった比企氏に権力が流れていくことを恐れた北条時政と北条政子は、比企能員を亡き者とするための謀を練ります。
建仁3年(1203年)7月に源頼家が病に倒れたため万一があった場合に時期将軍をどうするかの話し合いがなされ、また同年8月に源頼家が危篤に陥ると本格的な対策が検討されます。
このとき、本来であれば源頼家の嫡子である一幡が将軍職を継ぐはずなのですが、同年8月27日、北条時政の主導で、家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭は一幡としつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することに決まります(吾妻鏡)。
事実上、東国は一幡、西国を千幡が支配するという分割支配案です。
この決定に対し、源頼家及びその子・一幡の後見人として、鎌倉での権力を手中にできると考えていた比企能員が反発します。
権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、同年9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。
ところが、このときの密議を北条政子が立ち聞きしてその内容を北条時政に密告します。
ここで、北条時政は、先手を打って大江広元の支持を取り付けた後、同年9月2日、薬師如来の供養と称して比企能員を自邸(名越亭)に誘い出します。
北条時政追討の密議が漏れていると思っていなかった比企能員は、平服のまま北条時政の屋敷に向かってしまいます。
北条時政の屋敷に入った比企能員は、武装して待ちかまえていた天野遠景、仁田忠常らによって取り押さえられ、引き倒されたところを刺し殺されてしまいます(比企能員の変)。
比企一族滅亡
能員謀殺の知らせを受けた比企一族は、武装して鎌倉にある一幡の屋敷である小御所に立てこもります。
このことは、北条時政に、比企一族に謀反ありとして討伐する口実を与えます。
そして、北条時政は、北条義時に命じて、大軍をもって小御所を取り囲ませます。
小御所を囲んだ北条義時は、小御所に攻め入って一幡もろとも比企一族を皆殺しにして比企家を滅亡させています(もっとも、愚管抄には、一幡は同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。
なお、比企一族の菩提は、比企能員の屋敷跡に建てられた妙本寺において弔われていますので、興味がある方は是非。