【有岡城の戦い】織田軍による離反者・荒木村重討伐戦

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月に織田信長麾下から離反した摂津国有岡城主・荒木村重を討伐するため、織田方の大軍が有岡城を攻撃した戦いです。

大軍を動員した織田軍でしたが、総構え構造の強力な防衛力を持った有岡城攻城戦は難航し、天正6年(1578年)12月8日に行われた力攻めでは、たった1日で2000人もの兵を失う大損害を喫しました。

有岡城手強しと見た織田信長は、力攻めを取りやめて周囲の防衛拠点から順に無力化していく包囲戦に切り替えたため、長期戦の様相を呈していきました。

圧倒的物量を投入して来る織田軍により次第に追い詰められていった有岡城は、城主・荒木村重が城から逃亡するという事件もあり、その後の天正7年(1579年)11月19日に約1年間にも及んだ攻城戦は織田軍の勝利によって終結に至りました。

本稿では、この一大合戦となった有岡城の戦いについて、発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。

有岡城の戦いに至る経緯

荒木村重が織田信長に仕える

有岡城の戦いの際の一方当事者たる有岡城主・荒木村重は、元々は摂津国を治める池田家の家臣でした。

永禄11年(1568年)9月に足利義昭を擁して上洛を果たした織田信長が、畿内侵攻作戦を始めた際、三好三人衆方に与していた池田城主・池田勝正が織田軍に敗れてその臣下に下ったため、荒木村重もまた、陪臣として織田方の将となりました。

もっとも、荒木村重は、永禄12年(1569年)6月19日、三好三人衆の援助を受けて同じく池田勝正の家臣であった中川清秀(荒木村重の従兄弟であったとする説もあります。)を調略し、池田知正(池田勝正の弟)を擁立して織田信長に下った池田勝正に反旗を翻します。

ところが、その後も勢力拡大を続ける織田軍を見て勝ち目がないと悟った荒木村重は、元亀4年(1573年)、再び織田信長に下りました。

そして、その後、織田信長に気に入られることとなった荒木村重は織田信長から茨木城を与えられ、また摂津国の切取りを認められました。

荒木村重が有岡城主となる

摂津国内の平定戦を始めた荒木村重は、手始めに旧主・池田知正を追放してその所領を奪います。

さらに、荒木村重は、天正2年(1574年)11月15日、摂津国人である伊丹氏が支配する伊丹城を落とし、伊丹城を獲得します。

これにより摂津国内の最大勢力となった荒木村重は、伊丹城の大改修を行い、本城・侍町・城下町を掘りと土塁で囲み川で守られた東側を除いた北側・南側・西側に砦を配して惣構え構造の城を完成させた上で有岡城と名を改めて摂津国支配の拠点とします。

摂津国支配体制確立(1575年)

さらに、荒木村重は、天正3年(1575年)、有馬郡の分郡守護であった有馬国秀を自害に追い込んで摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定すると、かつての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃してその機能を有岡城に集中させ、新たな摂津国支配体制を構築します。

なお、この支配体制は、有岡城を本城とし、その周囲に、以下の支城群を巡らすことで強力な防衛力を持つこととなりました。

高槻城:城主・高山右近

茨木城:城主・中川清秀

多田城:城主・塩川長満

尼崎城(大物城):城主・荒木村次(嫡男)

三田城:城主・荒木重堅(一門)

花隈城:城主・荒木元清(一門)

大和田城:城主・安部良成

吹田城:城主・吹田村氏(荒木村氏)

丸山城(能勢城):城主・能勢頼道

宮原城:城主・小岸存之

羽柴秀吉による中国攻め(1577年10月)

この点、荒木村重が治める摂津国が毛利戦線の橋頭堡となり得る位置関係にあったことから、荒木村重は播磨国人への調略にも活躍していました。

とこらが、天正5年(1577年)10月23日、織田信長の麾下の武将・羽柴秀吉が、織田信長の命により毛利攻めの総司令官となって毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道攻略のために進軍を開始します。

このときの羽柴秀吉の総司令官任命は、山陰方面の橋頭堡たる明智光秀、山陽方面の橋頭堡たる荒木村重を飛び越えての抜擢人事であったため、明智光秀のみならず荒木村重にとっても屈辱的人事であったとも考えられます(羽柴秀吉が総司令官となることは、明智光秀や荒木村重がその指揮下に入ることを意味するためです。)。

いずれにせよ、荒木村重が治める摂津国を通過して播磨国に入った羽柴秀吉は、出雲街道・西国街道へ行くことができる交通の要衝に位置する姫路城の城主であった黒田官兵衛から姫路城の本丸の拠出を受け、ここを播磨国攻略の拠点とします。

その後、羽柴秀吉は調略を進め、また西播磨の上月城や福原城など力攻めで攻略するなどしてかつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを服従させていき、一旦播磨国全域を支配下に治めます。

なお、このときの羽柴秀吉の調略は、臣下に下った黒田官兵衛の策や人脈を利用して行ったのはもちろんですが、それまでに荒木村重が行っていた調略活動の成果でもありました。

別所長治離反(1578年2月)

ところが、天正6年(1578年)2月、中国方面侵攻を進める羽柴軍を危機に陥れる事件が起こります。

三木城主であった別所長治が織田信長の下から離反して毛利氏側についたのです。なお、このとき別所長治が離反した理由としては、毛利の庇護下にいた足利義昭から織田信長討伐の御内書が届いていたこと、姻戚関係にあった丹波の波多野氏が織田氏から離反したこと、赤松氏の一族という別所氏の名門意識から百姓上がりの羽柴秀吉の命令に反目したこと、織田軍による上月城の虐殺への義憤などがあったなどと言われていますが、詳しいことはわかりません。

いずれにせよ、別所長治が織田信長から離反したことにより、その影響下にあった東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

この結果、対毛利の最前線にいた羽柴軍は、西に宇喜多・東に別所・南に瀬戸内毛利水軍に囲まれるという完全孤立の立場に追い込まれることとなったのです。

さらに悪いことに、別所長治離反により西国街道を失って補給線が遮断されてしまったため、もはや毛利攻めどころではなくなります。

困った羽柴秀吉は、戦局を打開し兵站を回復させるため、別所長治が守る三木城への攻撃を開始しますが(三木合戦)、三木城の守りは堅く攻城戦は長期化していきます。

なお、この後、羽柴軍の西側の守りを担う上月城が毛利方の3万の大軍により包囲され、陥落しています(上月城の戦い)。

荒木村重離反(1578年10月)

この羽柴軍の苦境を見た荒木村重が、天正6年(1578年)10月、反織田信長を掲げて挙兵します。

これにより、羽柴秀吉は、またもや西国街道を押さえられて兵站が閉ざされます。

さらに悪いことに、荒木村重が治める摂津国が三木城から六甲山地を挟んで南側に位置するために摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹生山方面を通って三木城へ行く新たな補給路ができることとなり、三木城包囲網に穴が開きます。

一気に苦しくなった羽柴秀吉は、翻意を求めるべく黒田孝高が有岡城にいる荒木村重の説得に向かったのですが、逆に荒木村重に捕らえられて有岡城に幽閉されてしまいます。

第二次木津川口の戦い(1578年11月)

以上の経過から、荒木村重の離反により羽柴軍(織田軍)の敗北が決定付けられるはずだったのですが、これを一変させる事態が起こります。

織田軍により包囲されていた石山本願寺に物資を運ぶために出陣した毛利水軍が、天正6年(1578年)11月6日、木津川口において織田水軍(九鬼水軍)の鉄甲船により壊滅されたのです(第二次木津川口の戦い)。

これにより、多くの船と水夫を失った毛利水軍は、瀬戸内海の制海権を失います。

このことは、その反射効として織田方が瀬戸内海の制海権を得たこと(羽柴秀吉軍に海路での物資搬入が可能となったことのみならず、海路で有岡城へ毛利軍を送ることが困難となったこと)を意味しします。

こうなると、戦局は戦力に優る織田方の圧倒的優位に進んでいくこととなります。

逆に、毛利軍の援軍なしに対織田の最前線に取り残されることとなった有岡城は絶対絶命の危機に陥ります。

荒木村重孤立

瀬戸内海の制海権を確保した織田信長は、離反した荒木村重を討伐するため、天正6年(1578年)11月9日、大軍を動員して摂津国方面へ進軍して行きました。

このときの織田方の大軍を目にした荒木方の諸将は驚き、勝ち目がないと悟った荒木方から離反者が相次ぎます。

まずは、高槻城の高山友照・高山右近父子らが織田方に下り、続けて、中川清秀(茨木城)・小岸存之(宮原城)・大和田城(安部良成)・多田城(塩川長満)・三田城(荒木重堅)が続きました。

また、将の離反が起こった結果、兵の逃亡も相次ぎ、挙兵当初は1万人とも1万5000人とも言われた荒木軍は5000人にまで減ってしまいました。

有岡城の戦い・力攻め

織田軍諸将集結(1578年11月14日)

相次ぐ離反により荒木軍の勢力が低下したと見た織田信長は、天正6年(1578年)11月14日、軍を再編成するため、刀根山に築かれた刀根山城(刀根山砦)に滝川一益・丹羽長秀・明智光秀・蜂屋頼隆・武藤舜秀・氏家直通・安藤定治・稲葉一鉄・羽柴秀吉・細川藤孝らを集めます(信長公記)。

そして、同日、これらの軍が、有岡城に向かって進軍した上で周辺に火をかけて回ったため、迎撃に出た荒木村重軍先鋒隊と交戦に至りました。

織田信長が池田城に入る(1578年11月27日)

また、天正6年(1578年)11月27日には、織田信長自ら「古池田(池田城)」に入ります。

他方、同年12月4日、織田軍別動隊の滝川一益・丹羽長秀隊が、兵庫一ノ谷を焼き払い塚口付近に布陣しています。

有岡城の戦い開戦(1578年12月8日)

そして、織田軍は、天正6年(1578年)12月8日、一斉に有岡城に向かって同城に取り付き、同城攻城戦を開始します。

有岡城攻城戦は、堀秀政・万見重元・菅屋長頼らが鉄砲隊を率いて町口から有岡城に鉄砲を撃ち込み、続けて3隊に分かれた弓隊が町屋に火矢を打ち込んで城内に火を放つことから始まりました。

その後、数に勝る織田軍が、有岡城への力攻めを開始します。

ところが、総構え構造の有岡城の防御力は高く、織田方は、同日の戦いで、万見重元をはじめとする近臣や2000人もの兵を失う大損害を被りました。

持久戦に切り替え

織田信長は、初日の戦いで有岡城の堅さを思い知り、力攻めでの同城攻略を諦め、持久戦での攻略に切り替えます。

有岡城の戦い・包囲戦

池田城を本陣と定める(1578年12月11日)

織田信長は、天正6年(1578年)12月11日、一旦、古池田(池田城)に下り、同城を有岡城攻めの拠点と定めて、同城に長期戦に備えるための大改築を施すよう指示を下します。

織田軍による陣城建築

また、織田信長は、有岡城を取り囲むため、付城の建築を命じ、それぞれに在番を任じます。

この結果、織田軍は、有馬から山崎までの広範囲に布陣することとなり、有岡城攻城戦は長期することとなりました。

長期戦の様相を呈することとなったため、織田信長は、同年12月15日、一旦安土城に帰城します。

有岡城包囲戦

この点、織田軍に取り囲まれることとなった有岡城の頼みは、織田軍と対立する毛利家からの援軍でした。

毛利家としても有岡城の抵抗は対織田戦線の利となるため、毛利家からの兵站補給が続けられました(当初は海路で尼崎城に運びそこから陸送、このルートが織田軍に塞がれた後は海路で花隈城に運んだ後そこから神呪寺城・鷲林寺城を経るルートで有岡城まで運んでいました)。

もっとも、毛利家には、兵站補給は行ったものの、援軍を差し向けるほどの余力はなく、籠城期間が長くなるに従って有岡城内の士気は低下していきました。

士気が低下していき戦いの維持が困難になりつつある状況を見た荒木村重は、低下し続ける士気を高めるため、天正7年(1579年)1月に500人の兵を率いて織田信忠が入っていた加茂砦に奇襲を仕掛けるなどして必死に戦局維持を図りました。

有岡城北側の守り崩壊(1579年8月)

その後も荒木村重は、有岡城に篭城した上で、毛利方の援軍を頼りに徹底抗戦します。

もっとも、明智光秀が、天正7年(1579年)2月に八上城を攻略し、同年8月9日に黒井城を落城させて丹波国を平定し、続けて丹後国も平定をしたことから、有岡城は北側を織田勢により封鎖されます。

南側の瀬戸内海は既に織田水軍に押さえられ、西には羽柴秀吉軍・東には織田本軍がいるという状態となっていましたので、明智光秀の丹波国攻略によって有岡城が完全封鎖されるに至りました。

こうなると、荒木家中の動揺も大きくなり有岡城に籠る荒木村重軍の戦況は絶望的となってしまいました。

荒木村重が有岡城から逃亡(1579年9月2日)

この絶望的な状況で、天正7年(1579年)9月2日、さらに有岡城内に籠る兵を絶望に陥れる事件が起こります。

同日夜半、荒木村重が、5〜6人の側近を連れて有岡城を脱出し、船で猪名川を下って嫡男・荒木村次がいる尼崎城(大物城)へ移動してしまったのです。

この荒木村重の有岡城脱出の理由として、絶望的な状況から逃れるためだったとする説や、自らが安芸に出向いて毛利家に援軍要請しようとしたとする説、毛利軍の支援を受けるために内陸の有岡城から海沿いの尼崎城へ戦略的に移動したとする説など、様々な説が唱えられているのですが本当の理由は明らかとなっておりません。

ただ、四方を大軍で包囲された状況下で総大将が城を抜け出して逃亡した形となったため、このときの有岡城に籠る将兵の落胆は容易に想像できます。

織田軍の動き

荒木村重有岡城脱出の事実は厳重に伏せられていたのですが、間もなく織田信長に発覚します。

織田信長は、天正7年(1579年)9月12日、有岡城を包囲していた兵の半数を織田信忠に預け、荒木村重を討ち取るために尼崎城へ向かわせます。

また、城主が逃亡したことを奇貨として、滝川一益に命じて有岡城内での調略を開始しました。

宇喜多直家が毛利家から離反(1579年10月)

さらに、ここで有岡城に籠る荒木方の将兵を絶望に陥れる事態が起こります。

天正7年(1579年)10月、毛利軍の最前線の守りを担っていた備前国・美作国を治める宇喜多直家が羽柴秀吉に寝返ったのです。

宇喜多家が織田方に与した結果、毛利軍と羽柴軍の前線が一気に宇喜多領の西側である備前・備中国境地帯に移動したため、もはや毛利家の参戦はもちろん、有岡城への兵站補給すら絶望的となってしまいました。

荒木方の敗北が決定した瞬間でした。

有岡城への総攻撃(1579年10月15日)

滝川一益は、荒木村重逃亡や宇喜多家調略の事実を巧みに利用して、有岡城の西側を守る上﨟塚砦守将・中西新八郎と副将・宮脇平四郎の調略に成功します。

上﨟塚砦の通行権を手にした織田軍は、天正7年(1579年)10月15日午後10時頃から、有岡城への総攻撃を開始します。

有岡城西側に押し寄せた滝川隊が、事前の約定に応じて上﨟塚砦側から城内に乱入したことにより有岡城内は大混乱に陥ります。

高い防御力を誇る総構え構造の有岡城と言えども城内に入られてしまってはその防御力を発揮することはできず、増援の雑賀衆を含めた有岡城兵が織田軍に次々と討ち取られていきました。

織田軍が乱入して来る状況を見た北ノ砦守将・渡辺勘太郎と、鵯塚砦守将・野村丹後が、勝ち目がないことを悟って織田方に降伏を申し出たのですが、この段に至っての降伏は認められず、切腹して果てることとなりました。

そして、有岡城内を蹂躙する織田軍は、城内に火を放って町屋(三の丸)・侍町(二の丸)を次々と陥落させて行き、残すは本丸を取り囲むこととなりました。

降伏勧告拒絶

そして、有岡城を取り囲む織田軍から、荒木村重に代わって城守を務めていた荒木久左衛門(池田知正)に対し、荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸に籠る荒木一族と家臣一同の命は助けるとの条件の下、降伏勧告がなされます。

これに対し、荒木久左衛門は、300人の兵を率いて自ら荒木村重がいる尼崎城に赴き、荒木村重に降伏の有無を問うこととします。

ところが、尼崎城にいた荒木村重は、共に尼崎城に入っていた毛利家家臣・本願寺仏僧・雑賀衆御番衆に反対されたことから織田信長からの講和条件に同意することはできず、織田信長からの降伏勧告を拒否します。

荒木村重の説得に失敗した荒木久左衛門は、このまま有岡城に戻っても責任を問われるだけですので、有岡城に戻ることはせず、引き連れてきた300人の城兵と共に逃亡してしまいました。

有岡城落城(1579年11月19日)

結局、天正7年(1579年)11月19日、支えきれなくなった有岡城方が開城を決断します。

そして、有岡城明け渡しの使者が織田信長の下に遣わされ、織田信長の甥である津田信澄が部隊を率いて本丸に入り、同城を接収して有岡城の戦いが終結しました。

有岡城の戦い後

荒木一門・重臣らの処刑(1579年12月)

有岡城を接収した織田信長でしたが、荒木村重の離反や、荒木久左衛門の出奔という不義理に激怒していたため、見せしめのために有岡城に残った荒木一門衆・女房衆・重臣家族など合計670人の処刑を命じます。

そして、天正7年(1579年)12月13日、まずは有岡城女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀にて惨殺されます(信長公記)。

また、荒木村重一族とその重臣家族の36人は京に護送された後、同年12月16日、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後六条河原で斬首されました(立入左京亮宗継入道隆佐記)。

荒木村重亡命(1580年7月)

有岡城から尼崎城に逃れていた荒木村重でしたが、同城も織田軍による総攻撃を受けて落城寸前となったため、天正7年(1579年)12月中に同城を抜け出し花隈城に移ります。

ところが、その後、花隈城もまた織田軍の攻撃を受けたころから、荒木村重はまたもや同城を脱出し、天正8年(1580年)7月、荒木村次・荒木元清らと共に毛利家を頼って備後国・鞆城に亡命していきました。

荒木村重が堺で活動(1583年ころ)

花隈城から落ち延びた荒木村重は、その後毛利領にて隠遁生活を続け、本能寺の変により織田信長が横死したことを見届けに移ります。

有岡城主時代に津田宗及・今井宗久・千利休などの堺の茶人と茶会を重ねて利休十哲の一人に選ばれるほど茶道の腕を磨いていた荒木村重は、天正11年(1583年)初めには津田宗及の茶会に出席していることが記録されています。

その後、道薫(どうくん)と名乗った荒木村重は、お伽衆となって羽柴秀吉に近侍します。

なお、道薫の名乗りについては、荒木村重が過去の過ちを恥じて自らを陥れるために「道糞」と名乗ったところ、羽柴秀吉にたしなめられて「道薫」に改めたとの説があるのですが、荒木村重が「道糞」を名乗ったとする一次史料が見られないことからず事実ではないと考えられています。

荒木村重死去(1586年5月4日)

そして、荒木村重は、そのまま堺で生活を続け、天正14年(1586年)5月4日に堺で死去しています。享年は52歳でした。

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