泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期に鎌倉の実権を握った北条義時の打倒を目指して信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸(三男・栄実)を鎌倉殿に擁立しようとして起こした反乱です。
もっとも、反乱自体は軍事的蜂起に至る前の建暦3年(1213年)2月15日に発覚し、首謀者が逃亡・捕縛されたため実行に至ることはありませんでした。
この泉親衡の乱が特筆すべきなのは、当時の鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛の一族が泉親衡に加担しており、その処分を巡って和田合戦の引き金となったことにあります。
本稿では、この和田合戦の前哨戦ともいえる泉親衡の乱について、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【泉親衡の乱】北条義時打倒を目指した和田合戦の前哨戦” の続きを読む