【源頼朝の征夷大将軍就任】権威があれば何でも良かった初代鎌倉殿の肩書

日本の歴史上、武家政権の長としての官職・肩書は征夷大将軍であるとの認識が一般的です。

室町幕府でも江戸幕府でもこの認識は変わりません。

もっとも、初期の鎌倉幕府では違います。鎌倉幕府の長の肩書は、「鎌倉殿」であり、征夷大将軍ではありません。

征夷大将軍とは、律令制の令外官として存在した「夷」を「征」服する「大将軍」をいうため、東北遠征軍の軍事指揮官に過ぎず武家政権や幕府の長などという意味はないからです。

後に征夷大将軍が武家政権の長の代名詞となったのは、鎌倉幕府の初代トップ(鎌倉殿)であった源頼朝が就任しその力を絶対化させたからです。

本稿では、源頼朝が、後に武家政権の長の代名詞となった征夷大将軍に就任するに至った経緯とその意味について説明していきたいと思います。

源頼朝の右近衛大将就任と辞任

武家の頂点としての権威付けを志向

武家の棟梁を目指していた源頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼし、念願の武力による東国・西国・東北の統一を果たします。

武力による敵対者のいなくなった源頼朝は、その武家政権を盤石化するため、自らの権威付けと、次世代(源頼家)への力の承継に取り掛かっていきます。

このときに源頼朝がとった手段は、朝廷権力への迎合でした。

源頼朝は、武家の頂点に立ったとはいえ、京で幼少期を過ごした記憶から中央貴族の末裔としての意識を捨てきれず、自身の権威付けのために朝廷が必要と考える呪縛から逃れることはできませんでした。

源頼朝上洛(1190年11月7日)

そのため、源頼朝は、建久元年(1190年)10月3日、朝廷の権威付けを受けるべく、上洛するために鎌倉を出発します。

その後、源頼朝は、平治の乱で父・源義朝が討たれた尾張国野間や、父と兄・源義平が留まった美濃国青墓などを経て、同年11月7日、1000余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛も住んでいた六波羅に建てた新邸に入ります。

平治の乱に敗れて伊豆に流されて以来、30年ぶりの入京でした。

権大納言・右近衛大将就任と辞任

その後、源頼朝は、建久元年(1190年)11月9日、後白河法皇に拝謁して会談し、権大納言・右近衛大将に任命されることが決まります。なお、源義経と源行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位を、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものとすることに切り替える旨の交渉も行われています(実際、翌年3月22日の恒久的な諸国守護権として認められています。)。

権大納言は、太政官に置かれた官職の一つである大納言(太政官においては四等官の次官に相当します。)の臨時職です。

また、右近衛大将は、律令官制における令外官の一つである宮中の警固などを司る右の近衛府の長官で右大将とも言われます(左の近衛府の長官がより高位)。

もっとも、権大納言や右近衛大将は、いずれも京都の朝廷における公事の運営上重要な地位であるために公事への参加義務を負うこととなり、鎌倉に戻らなければならない源頼朝が有していい官職ではありません。

そこで、源頼朝は、就任直後の建久元年(1190年)12月3日、権大納言・右近衛大将の両官を辞任しています。

両官を辞任した源頼朝でしたが、後白河法皇から武官の最高職という地位を与えられた事実は消えることはありませんので,以降、源頼朝は「前」右大将と名乗り、後白河法皇の権威を利用しています。

そして、源頼朝は、後白河法皇と会談した建久元年(1190年)11月9日の夜、九条兼実とも面会して政治的提携を確認し、その後も、後白河法皇や九条兼実らとの交渉を繰り返した後、同年12月14日には京を去り、同年12月29日に鎌倉に戻っています。

源頼朝の征夷大将軍就任

後白河法皇崩御(1192年3月)

建久3年(1192年)3月、朝廷内の最高権力者であった後白河法皇が崩御します。

この結果、源頼朝の権威の根拠が失われます(後白河法皇から与えられた「前」右大将の権威が失われたからです。)。

「大将軍」任官を求める(1192年7月)

そのため、源頼朝は、新たな朝廷からの権威を得る必要に迫られます。

このときの天皇は後鳥羽天皇だったのですが、まだ13歳と若かったため、朝廷の実権は関白・九条兼実が掌握していました。

そこで、源頼朝は、新たな朝廷の権威を得るため、九条兼実に接近し、建久3年(1192年) 7月、九条兼実に対し、新たな権威となる「何らかの大将軍」への任命を求めます。

朝廷内においても源頼朝の要求を拒否することはできなかったため、源頼朝にふさわしい大将軍の肩書はどれか検討されます。

具体的に検討された肩書の候補は、「惣官」、「征東大将軍」、「征夷大将軍」、「上将軍」の4つでした。

このうち、「惣官」は平重盛が、「征東大将軍」は木曾義仲が任官していたため不吉であるとして退けられます。

また、「上将軍」は中国の官職としてあったものの日本では先例がないとして退けられます。

その結果、消去法によって、かつて坂上田村麻呂が任官して東北遠征を成功させた「征夷大将軍」が吉例として選ばれました

この結果、九条兼実から後鳥羽天皇に対して、源頼朝を征夷大将軍に任命するよう働きかけられます。

征夷大将軍就任(1192年7月12日)

そして、建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任ぜられました。

以上のことからわかるとおり、源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、単に後白河法皇の崩御により失われた権威を九条兼実(後鳥羽天皇)によって回復するためでした。

そのため、このとき就任すべき地位は征夷大将軍である必要はなく、京に滞在することなく就任できる権威ある感触であれば何でもよかったのです。

征夷大将軍という職は、消去法により選ばれた形式的なものに過ぎませんでした。

当然、征夷大将軍という官職に、鎌倉幕府の主であるという意味などあろうはずもありません。

征夷大将軍の意味

実際、源頼朝の子・源頼家が征夷大将軍に就任したのも、2代目鎌倉殿になった3年後であり、「鎌倉殿(鎌倉幕府の長)≠征夷大将軍」だったのです。

もっとも、それまでは従三位以下の東方軍事司令官でしかなかった征夷大将軍に、全国に支配力を及ぼす源頼朝が就任したことにより、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わります。

その結果、以降の軍事政権担当者も征夷大将軍に任命されることとなり、いつしか征夷大将軍こそが、そのときの軍事政権担当者であることの証となり、以降、幕末まで700年近く続く軍事政権の慣例が始まったのです。

余談(娘の入内工作)

大姫入内工作(1195年2月)

征夷大将軍となって新たな権威を手にした源頼朝でしたが、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかったため、娘の入内と外孫の即位による権力支配までも志向していきます。

源頼朝は、更なる朝廷との結びつきを得るため、建久6年(1195年)2月、病気がちであった源頼朝の長女・大姫を連れて、北条政子(母)、源頼家(弟)と共に上洛します。

このときの源頼朝一行の上洛目的は、表向きは東大寺の落慶供養でしたが、実際は大姫を後鳥羽天皇の妃とするための入内工作でした。

源頼朝にも、許婚であった木曾義高を失って負った大姫の傷も天皇の妻になれば癒えるのではないかという親心があったのかもしれませんが、基本的には大姫を天皇とのパイプとなるよう駒として使うのが本心でした。

そのため、京に入った源頼朝は、朝廷内の実力者であった土御門通親と丹後局に接触を図り、入内工作の準備を進めていきます。

もっとも、この源頼朝の大姫入内工作は、建久8年(1197年)7月14日、大姫が病で死去したことにより失敗に終わります。

三幡入内工作

ところが、外戚の地位を諦めきれない源頼朝は、大姫が死去すると、その妹である三幡を次なる入内者候補とする工作を始めます。

そして、三幡には女御の称を与えられ、正式の入内を待つばかりとなり、源頼朝が三幡を伴って上洛し朝廷の政治についての意見を具申するところまで話が進みます。

もっとも、入内を前にした建久10年(1199年)1月13日に源頼朝が死去したため、三幡入内は保留となります。

そして、同年6月30日に三幡までもが死去したため、この入内工作は完全に頓挫しています。

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