【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家

ヤマト政権は、三輪山麓に成立した小国が、弥生時代後期に朝鮮半島との交易によって鉄へのアプローチを手にしたことを利用して全国の小国を束ねることによって勢力を高め、現在の天皇家へと繋がる国家の盟主となった古代王権です。

ヤマト政権が成立・発展していった時代は、王墓として古墳が造られていった時代であることから、そのことにちなんで古墳時代と呼ばれています。

古墳時代にはまだ国内で文字が使われていませんでしたので、ヤマト政権成立の詳細を示す国内文献が残されておりませんが、大陸の文献や考古学的調査から明らかとなった結果がありますので、本稿ではこれらを基に現在の到達点を紹介していきたいと思います。 “【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家” の続きを読む

【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代前期に摂政が天皇の代理人(天皇が幼少・病弱などの理由により政務を行うことができない場合にこれに代わって政治を行う役職)となり、また関白が天皇の補佐人(太政官からの意見を成人天皇に奏上する役職・令外官)となることにより、これらが天皇に代わって政治を行う政治形態を言います。

藤原氏が外戚の地位を利用して摂政・関白をはじめとする朝廷の要職を独占したことから藤原摂関政治とも言われます。

摂政という役職自体は奈良時代からあり、当初は天皇の代理人という職責の強さから元々は皇族のみが就任できる役職だったのですが、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられ、また仁和3年(887年)11月17日に新たに関白職が設置されて藤原基経が就任したことにより、藤原氏の人間がこれらの職に就いて天皇に代わって政治を行う政治形態となり、平安時代前期の藤原氏の栄華の代名詞となりました。

この藤原摂関政治は、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられた後、白河院が院政を始めた応徳2年(1086年)まで約220年間もの長きに亘って続きました。

本稿では、藤原氏による政治=藤原摂関政治の始まりについて、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯” の続きを読む

【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つであり、推古天皇が即位して飛鳥豊浦宮に都が置かれた推古天皇元年(593年)から奈良盆地に平城京を造営して遷都する和銅3年(710年)までの117年間を飛鳥時代と言うのが一般的です。

この117年の間には、一時的に難波宮・大津宮に都が置かれていたことがあるものの、主に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に都が置かれていたことからその名称が付されました。

飛鳥時代は、大別すると蘇我氏独裁政権時代(前期)・唐と新羅からの侵攻対策に追われた混乱時代(中期)・律令国家形成時代(後期)の3つの時代に区分されます。

以下、これらを順に見ながら飛鳥時代の概要について説明していきたいと思います。 “【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略” の続きを読む

【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む

【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで

崇徳上皇は、日本の歴史上で最強の怨霊となったとされる人物です。

日本では、強い恨みを残してこの世を去った人物は怨霊になって禍をもたらすと言われており、またその禍の程度は恨みの程度に加えてその者の生前の地位に比例すると言われています。

強い怨霊となった人物が日本三大怨霊として括られ、菅原道真・平将門・崇徳上皇がそこに挙げられるのですが、このうちでも崇徳上皇が最強の怨霊としてその地位を盤石なものとしています。

その理由は、血縁上は鳥羽天皇の子として産まれながら、実際は鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の祖父である白河上皇との不倫により産まれ子であったことから、鳥羽上皇に徹底的に嫌われた人生を送ったことに始まります。

そして、その結果として、弟である後白河天皇と朝廷を2分する争いを起こして敗れて讃岐国に流され、同地で非業の死を遂げたことによります。

この悲しい末路から、後に宮中に起こった不幸の全てが崇徳上皇の怨霊によるものであるとされ、伝説的な怨霊伝説に繋がることとなったのです。 “【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで” の続きを読む

【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。 “【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑” の続きを読む

【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史

鎌倉は、初めての武士政権である鎌倉幕府の本拠地となった場所です。

あまりにも有名な場所であるため昔から発展していた場所のようなイメージを持ちがちですが、平安時代以前の鎌倉は、都であった京から430kmも離れたど田舎であり、お世辞にも発展しているとは言い難い場所でした。

もっとも、源頼朝が鎌倉に入った後、源頼朝によって三方を山・一方を海で囲まれた防衛拠点としての基礎が築かれ、その後北条泰時によって陸上・海上交通が整えられ、さらに北条時頼によって禅宗寺院を出城として配置することで武士の都として完成を迎えます。

本稿では、この武士の都・鎌倉の発展の経緯について、順に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史” の続きを読む