【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都

藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。

壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。

それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。

また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。 “【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都” の続きを読む

【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由

日本人の多くは仏教徒と言われています。

もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。

なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。

実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。

より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。

これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。

他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。

本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由” の続きを読む

【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】

618年に建国された中国王朝の唐は、建国直後から朝鮮半島への軍事的野心を示し、朝鮮半島北部の高句麗と対立すると共に、朝鮮半島南部新羅と組んでその他地域の侵攻を試みます。

この結果、7世紀の朝鮮半島は、唐からの軍事侵攻にさらされる戦いの世紀となったのです。

そして、この唐と朝鮮半島諸国家との戦いに、朝鮮半島南部国家であった百済からの援軍要請に応じたヤマト政権(倭国)も参戦します。

もっとも、海を渡ったヤマト政権軍は、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、朝鮮半島内の拠点を全て失って倭国(日本)に逃げ帰ります。

それだけなら良かったのですが、超大国である唐に喧嘩を売ったヤマト政権としては、その報復として唐・新羅連合軍からの侵略の危機に晒されるという、国家存亡の危機を迎えることとなったのです。

そこで、ヤマト政権は、この後に内政・軍事・外交というあらゆる面でその対策に追われることとなってしまいました。

本稿では、白村江の戦いの敗戦後にヤマト政権が、迫り来る唐・新羅軍の侵攻の脅威に備えてどのような対策を取ったのかについて説明していきたいと思います。 “【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】” の続きを読む

【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について

奈良時代創建された当初の東大寺は、唐の文化を受けた天平文化を色濃く反映した伽藍でした。

ところが、平家による焼き討ちに遭った後、鎌倉時代に復興した東大寺は、それまでの伽藍に復元することはせず、新たに南宋の文化を色濃く反映した大仏様(天竺様)の伽藍に変更されて再建されました。

本稿では、平安時代末期に創建当初の東大寺が焼失するに至った経緯と、鎌倉時代初期の再建事業・再建内容について簡単に見ていきたいと思います。 “【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について” の続きを読む

【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む

本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?

戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。

天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。

明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。

他方、あまり話題になっていないことがあります。

それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。

当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。

以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。 “本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?” の続きを読む

【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。 “【守護大名と戦国大名の違い】” の続きを読む

【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉

低い身分から成り上がり、ついには天下人にまで上り詰めた人物として有名な豊臣秀吉ですが、実は死ぬまで羽柴秀吉だったことご存知ですか。

羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したかのようなイメージを持ちがちですが、実際には違います。

豊臣=氏・羽柴=名字(苗字)であり、豊臣氏を下賜された後も羽柴という名字を変更していないため、豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのです。

死ぬ直前の名乗りは、豊臣朝臣太閤羽柴秀吉であり、羽柴という名字を最期まで使用しています。

本稿では、戦国時代頃の名前の付け方を踏まえて、豊臣秀吉の名前の変遷について説明したいと思います。 “【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉” の続きを読む

明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?

天正10年(1582年)6月2日に京の本能寺において織田信長を殺害したことで有名な明智光秀ですが、その前半生の経歴ほとんど明らかになっていません。

また、室町幕府の幕臣を辞して織田家に仕官し、その後に織田家筆頭家老の地位にまで上り詰めた大人物であるにもかかわらず、織田家家臣団に編入された時期やその経緯についても明らかなことはほとんどわかっていません。

そこで、本稿では、明智光秀が織田家家臣団に編入されるに至った時期について、明智光秀・足利義昭・織田信長らの周囲に起こった事実関係を基に考察していきたいと思います。 “明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?” の続きを読む