江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。
また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。
そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。
では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。
【目次(タップ可)】
江戸への物流システム構築の必要性
徳川家康の江戸城入城(1590年8月)
豊臣秀吉によって250万石を与えられて関八州への移封を命じられた徳川家康は、天正18年(1590年)8月1日に江戸と本拠地定めて江戸城に入ります。
もっとも、徳川家康が江戸城に入った時期は、小田原征伐によって後北条氏が滅んだ直後であったために関東全域が権力移行の混乱期であり、また突然旧領から移されたことによる徳川家臣団の不満も噴出期という最悪のタイミングでした。
そこで、江戸に入った徳川家康は、まず江戸の統治機構の構築から始め、江戸城近辺を直轄地(100万石余)とした上で、板倉重勝を江戸町奉行に任じ、さらに大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好らを代官として江戸の町の調査から始めていきます。
その上で、各地から商工業者を呼び寄せて江戸の町の大改造を始めます。
江戸への物流システム構築の必要性
元々江戸に住んでいた50万人とも言われる町人に加え、超巨大勢力となった徳川家を支えるために江戸に集まってくる武士を相手に商売をしようとする者が地方からの江戸に流入してきたため、江戸の町における消費物資の需要が急増しました。
また、江戸は、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡頃までには多くの人が集まる一大政治都市となり、また寛永12年(1635)に参勤交代制度が始まったことにより、当時の江戸の町の約7割とも言われる広大な範囲に大名屋敷が建ち並ぶこととなったため全国各地から武士が集まってくるようになりました(藩主に従って2年に1度国元と江戸を往復する者もいれば、江戸に常駐する者もいました。)。
さらに、明暦3年(1657年)に起こった明暦の大火などの度重なる災害や、江戸城修復・藩邸の再建などの巨大な建築工事・土木工事が行われたために、建設資材の需要も急増していきました。なお、当時は各藩の城米を江戸へ確実に輸送しなければならない徴税制度もありました。
これに対し、江戸初期の関東地域では、これら増え続ける江戸の町の消費物資(農産物など)を賄うだけの生産力はありませんでした。
そこで、江戸時代に、全国各地から江戸に消費物資を運び込んでくる物流システムの構築が急務となりました。
陸上交通による物資搬入の限界
陸上情報伝達網の流用の試み
期せずして江戸を本拠地とするに至った徳川家康は、その支配領域から情報を江戸に集約させるため、1590年代前半ころには陸上情報伝達網を整備していました(街道整備や宿場町の選定など)。
その後、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いに勝利し、大きな権力を手にした徳川家康は、やがて来るであろう豊臣家との戦いを見据え、支城防衛網を構築すると共に、速やかな情報伝達網の整備を図ります。
このとき徳川家康が最初に行ったのは、東海道(五十三次・五十七次)・中山道・日光街道(日光道中)・奥州街道(奥州道中)・甲州街道(甲州道中)からなる五街道の整備でした。
慶長6年(1601年)に東海道で、翌年の慶長7年(1602年)には中山道で宿駅伝馬制(朱印状によって各宿場に伝馬、すなわち駅馬とは別に公用に使わせた馬の常備を義務付ける制度)を敷いていきます。なお、日光街道・奥州街道・甲州街道も同年に開設され、朱印状によって各宿場町に伝馬の常備を義務付け、公用人馬の調達・公用文書の輸送・旅行者の宿泊の用に供されるための宿場の整備が進められました。
そして、徳川家康は、慶長8年(1603年)、全国の大名に普請を命じて「外濠」や運河の開削を行った上で日比谷入江を埋立て(このときまでは日比谷入江が邪魔して芝より北側に東海道を通せませんでした)、東海道を北に延伸して日本橋を起点とします。
その上で、中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中もまた日本橋を起点としたことにより、いわゆる江戸の五街道の全てが日本橋を起点とするという陸路のインフラ整備が整い、江戸幕府への情報集約を可能としたのです。なお、現在においてなお、7本の国道(1号・4号・6号・14号・15号・16号・20号)が日本橋を起点とするなど陸上交通の中心となっています。
また、慶長10年(1605年)には、五街道の標準幅員を5間(約9m)に広げた上で、1里(約4km)ごとに塚を配置して道案内を志向し、さらに沿道に松並木を植えるなどして景観も整えられていきました(なお、1630年代には砂利や砂を敷いて路面を平らに固められ、さらなる交通を容易にする努力が行われました。)。
そして、寛永4年(1632年)12月(吏徴別録)または万治2年(1659年)7月19日に道中奉行が置かれたことにより、五街道とその付属街道としての主要街道が江戸幕府の直轄下に置かれ、江戸幕府によって宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁・渡船・並木・一里塚の整備などが集中管理され、道路網の管理が進められました。
陸上物流の限界
以上のとおりの陸上交通網を持っていた江戸幕府では、一部この陸上交通網を利用して江戸への物資搬送を試みます。
もっとも、この情報伝達網を流用した陸上輸送には大きな問題点が2つありました。
1つは起伏の激しい日本では陸上交通網の途中に厳しい峠が何度も立ちはだかりこれが障害となったことです。
また、もう1つは牛馬の去勢技術を持たなかったことであり、気性の抑えられていない牛馬に馬車を引かせて悪路を進むことは極めて困難だったのです。
以上の大きな問題点から、当時の陸上輸送手段としては、大八車や荷駄を利用して難路を進まざるを得なかったのですが、これでは輸送容量が小さすぎて江戸の消費生活を支えるだけの物資大量輸送が出来ませんでした。
また、これらの陸上交通網と河川(江戸川・利根川・荒川など)を利用した舟運とを組み合わせて江戸に物資を運ぶ試みが行われていったのですが(特に、承応3年/1654年に、利根川の本流が銚子で太平洋に注ぐようになって以降が顕著)、この方法だと、何度も船からの荷下ろしや積み替えが必要となるため手間と費用がかかる上、総輸送量がボトルネックとなる箇所の限度に制限されることから安定した大量輸送が困難でした。なお、陸運は、地域ごとに異なる業者が担当していたため、多くの業者が関与することによる無駄な事務作業が必要となり不効率でもありました。
そこで、江戸幕府によって検討されたのが、船舶を用いて外洋から江戸に物資を完全海路で運ぶ方法でした(もっとも、寛永12年/1635年の武家諸法度寛永令で500石/75t積以上の船は禁止されていました。)。
海上交通システム開発
以上のとおり、運搬量に乏しく不経済な陸送では、増え続ける江戸の物資需要を充足することができません。
そのため、日本全国から江戸に向かって、大量かつ安価に物資を運搬するためには、必然的に完全海運での物流システムを構築する必要がありました。
この点、この頃までの日本における海運としては、木造1枚帆船である弁才船(べざいせん、積石数は、110~960石と様々であり、当初の主力は250石でしたが時代を経るうちに巨大化していき最後は1000石規模となり千石船と呼ばれました。)が利用されており、外洋に出る必要のない瀬戸内航路における当時最適の貨物船でしたが、外洋を安全に航行する能力はありませんでした。
この状況を技術革新が一変させます。
特に有用だったのは、織物技術の発展によって帆船の帆が筵帆から厚手の丈夫な木綿帆に変わった結果、弁才船が外洋での使用に耐えるようになったことです。
大坂との消費財海運(1619年、菱垣廻船)
江戸に物資を運搬する上で当初から最も重要視されたのが、産業の中心であり全国の物資集散地でもあった大坂と、政治の中心として日本最大の消費地となっていた江戸とを結ぶ航路でした。
前記のとおり、弁才船の改良によって外洋航行の可能性が生まれると、早くも元和5年(1619年)に堺商人が弁才船によって大坂から江戸に物資の運送を始めます。
そして、これをきっかけとして大坂と江戸とを結ぶ大動脈となる定期航路整備がなされていきました。
その後、大坂商人が、運賃を稼ぐために次々とこの航路に参入することによって荷主と船主の取引を仲介する廻船問屋が林立し(寛永元年/1624年の泉屋平右衛門など)、隆盛を極めていきました。
この大坂・江戸航路は瞬く間に大発展して年間延1200~1300艘が就航するようになり、これにより大坂経済圏の雑多な消費物資(繰綿・木綿・油・醤油・酒など)が、大量に江戸に運び込まれることとなったのです。
なお、大坂・江戸航路の主力を担った弁才船を特に菱垣廻船といい、両舷(船の両側面)に設けられた垣立と呼ばれる舷墻に装飾として木製の菱組格子を組んだことがその名称の由来となりました。
また、弁才船航路経路上には多くの風待ち湊が整備されることとなり、その結果、日本各地に湊が造られることで海運網が整備されていきました。
大坂との清酒海運(1730年、樽廻船)
江戸時代に入ると、大阪湾近郊の灘・伏見・伊丹・池田などが日本酒の一大生産地となり、これが江戸に運ばれて飲用に供されるようになりました(下り酒)。
この大坂から江戸への酒の廻送(下り酒)は、大坂・江戸間の海運に開発に成功した菱垣廻船によって行われました。
そして、元禄7年(1694年)には、不正や海難事故防止のために大坂で二十四組問屋・江戸で十組問屋が結成され、菱垣廻船は両問屋が所属することが義務付けられました。
この点、菱垣廻船においては、そのバランスをとるために下に重い積荷を、上に軽い積み荷を積み込む方法で積み込まれていたところ、重量物である酒樽は下積荷物とされていました。
菱垣廻船が海難事故に遭った場合、上部の上積荷物のみを破棄して安全を図ることがあったのですが、この上積荷物の補償を問屋が共同で負うとされていたため、損害を被らなかった酒問屋が度々賠償義務を負わされることがあり不満が高まっていました。
また、菱垣廻船は、多様な積荷で船を満載にしてから出帆することとしており、荷待ちの時間の酒の腐敗が問題となっていました。
そこで、享保15年(1730年)、以上の点に不満を持つ酒問屋が菱垣廻船問屋を脱退し、酒専用の樽廻船問屋を結成することにより専用船による独自の運営をはじめました。
これが樽廻船です。
樽廻船では、弁才船に清酒特化の改造を行い、船倉を深くするなどして積み込みの合理化を図り、大坂→江戸の酒廻送の大幅時間短縮を達成しました。(なお、樽廻船の迅速輸送が評価された後は、余積として酒以外の荷物も安い運賃で輸送するようになったために次第に菱垣廻船を圧倒するようになっていきました。)。
東北太平洋側米海運(1671年、東廻航路)
元和5年(1619年)の大坂・江戸航路の成功により、弁才船による外洋航行が可能となったことがわかり、 弁才船を主力とするその他の国内水運の航路の開拓も可能と考えるようになりました。
このことに目を付けた仙台藩は、人口増加により不足する江戸に米を高く売りつけるため、自領の北上川・鳴瀬川・広瀬川・阿武隈川などの流域の新田開発を進め、これを米を江戸に積み出す計画を始めます。
そして、仙台藩では、河川改修や用水路の開削などの大規模治水事業を行い、石巻港に設けた米蔵(元和8年/1622年建築)に領内で取れた米を集めた後、これを弁才船に積み込んで江戸に送ることで巨万の利益を得ました。
このときの仙台藩の江戸への米廻送ルートは、荒浜を出帆した後に利根川河口の銚子で川船に積み換えて利根川を遡り、関宿から江戸川を下った後、行徳から陸路で江戸に運び込むという内川江戸廻りの航路が使われていましたのですが(危険な犬吠埼沖通過を避けていたのです。)、この廻送ルートは、何度も米の蔵入り・積み替えが必要となり、時間と手間が相当なものとなっていました。
そこで、江戸幕府では、仙台藩よりも優位な条件で東北地方太平洋側の幕府代官所が管轄する年貢米の江戸廻送の検討を始め、河村瑞賢に対して、より迅速・簡便な米の廻送ルートの開発を命じました。
この命に対し、河村瑞賢は、積み替えが必要となる利根川・江戸川といった河川舟運の利用を排除し、房総半島を回るという完全海路での直接江戸に運び込み廻送ルートを検討します。
そして、河村瑞賢は、荒浜から江戸までの海岸線にある多くの湊の状況を調査した後、江戸幕府と綿密な協議を重ねて、荒浜→平潟→那珂湊→銚子→小湊を寄港地とする航路を策定し、その後小湊から三崎(または下田を経由して三崎)に入り、その後江戸に入港するというルートを開発します(当時の弁才船の性能では黒潮を乗り越えて進むことはリスクが大きいとして房総半島を回り込んで直接江戸に入るルートは避けられました。)。
その上で、河村瑞賢は、途中寄港地に船の修理・積荷の安全管理を担当させる船番所を設置するなどして準備を整え、寛文11年(1671年)、荒浜から江戸までの海上輸送が実施して成功を収めます。
こうして銚子から江戸までの間も完全海路による廻送ルートが成功し、またこのルートの安全性が確認されたことにより、東北地方太平洋側の米廻送費用・期間の大幅短縮に成功し、この完全海路ルートが東回り航路として定着します。
この東回り航路の完成は、東北・関東の舟運を一変させ、東北地方の大発展をももたらしました。
なお、外洋航行に成功したとはいえ、弁才船は、1枚の帆が風を受けて航行するためその航行は天候に左右され、そのために風向きや天候を見ながら航行する必要がありました。
東北日本海側米海運(1672年、西廻航路)
東回り航路の開発を成功に手応えを感じた江戸幕府は、これを成功させた河村瑞賢に対し、今度は東北地方日本海側の迅速・簡便な米の廻送ルートの開発を命じます。
この当時の東北地方日本海側の米廻送ルートは、酒田を出帆した後に敦賀で陸揚げし、その後琵琶湖北岸まで陸送した後、琵琶湖を船で南進して大津で再度陸揚げし、その後再び桑名まで陸送し、三度桑名で船に積み替えて江戸まで海上輸送するというものだったのですが、この廻送ルートは、何度も米の蔵入り・積み替えが必要となる上、難所となる峠越えの必要もあったため、東回り航路を大きく超える時間と手間が必要となっていたからです。
これに対し、河村瑞賢は、東北地方日本海側の米廻送ルートについても、完全海路での江戸運び込み廻送ルートを検討します。
河村瑞賢は、酒田から江戸までの海岸線にある多くの湊の状況を調査した後、江戸幕府と綿密な協議を重ねて、酒田→小木→福浦→柴山→温泉津→下関を寄港地とすることによりまずは大坂まで廻送する航路を策定し、その後大坂→大島→方座→畔乗→下田に入った上で江戸に入港するという完全海路ルートを開発します。
また、弁才船についても、日本海の荒波を超えるために船首・船尾のそりを強め、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板を航(船底兼竜骨)なみに厚くし、はり部材のうちの中船梁・下船梁を統合して航に接した肋骨風の配置にするなどして、構造を簡素化させつつ船体強度を高めるなどの改造をほどこしました。
さらに、河村瑞賢は、途中寄港地に船の修理・積荷の安全管理を担当させる船番所を設置するなどして準備を整え、寛文12年(1672年)5月2日、酒田から江戸までの計3900石の米を積んだ海上輸送を実施して成功を収めます。
こうして完全海路での東北地方日本海側の米廻送ルートの安全性が確認されたことにより、米廻送の費用・期間の大幅短縮に成功し、このルートは西回り航路として日本海側の物流の大動脈となりました。
西廻り航路の成功により日本海側海運の安全性が確認されると、日本海側諸藩が次々とこの海路の利用を始めてそれぞれが大坂に商品を販売するために年貢米や物品を廻送するようになり、これが天下の台所としての大坂の大発展にもつながりました。
【参考】西廻航路の延伸(北前船)
また、西廻り航路の安全性が確認されると、その利益率の高さを知った船主自身が主体となって貿易を行うようになり、西廻り航路の出発地点となっていた酒田からさらに北の蝦夷地にまで進んで同地と貿易を行う者が現れるようになりました。
この航路を行き交う船舶は、北前船(北国廻船)と呼ばれ、商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を売買することで利益を上げる買積み廻船という形態で営業されました。
北前船では、特定の船形が用いられたわけではなく、当初は北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船、18世紀中期以降は1000石規模の弁才船が使用されることが多かったようです。
北前船は荒れる冬の日本海を避けて航行されていたため、冬の間は大坂に係留された後、3月下旬頃に物資を積んで大坂を出帆し、途中、瀬戸内海・日本海沿岸の湊に立ち寄って商品の売買をしながら北上し、5月下旬頃に蝦夷地に到着して荷揚げして積荷を売りさばいた後、大坂向けの商品を買い込んで7月下旬頃に蝦夷地を出帆し、途中の寄港地でも商品売買を行いながら11月上旬ころまでに大坂に戻ってくるというのが基本スケジュールでした。
北前船が扱う商品は食料品から生活物資まで様々であり、大坂→蝦夷地は木綿類、蝦夷地→大坂は海産物が主力となっていました。なお、余談ですが、この北前船が蝦夷地の昆布を大坂に運んできたため、大坂の出汁は昆布出汁が基本となっているのです。
江戸に運ばれた物資の行方
様々な廻船によって江戸に運ばれてきた物資は、時代によって変遷があるものの合計で70箇所程度設けられたとされる河岸で陸上に荷揚げされました(町人の荷揚場を河岸、武士の荷揚場を物揚場といいました。)。
河岸の船着場に着いた船は荷揚場に運ばれ、河岸問屋・船問屋によって荷揚げ・荷積み、荷物保管手数料の徴収が行われ、市場として機能した同地で売り捌かれたり、目的地に運ばれて行ったりすることで江戸市中に流れていきました。