【三備の制】三河国統一後に編成された徳川家康の軍制

三備の軍制(みつぞなえのぐんせい)とは、三河国を統一した松平家康(後の徳川家康)が、系統を明確にして機動的な軍の編成をすると共に、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させるために構築されたピラミッド型の軍事支配システムです。

三備の軍制により、それまでバラバラに戦っていた兵を指揮官の指揮の下で効率的に運用できるようになり、野戦に強い三河武士の礎となりました。

本稿では、徳川家康躍進を支えた三備の軍制について簡単に説明したいとおもいます。 “【三備の制】三河国統一後に編成された徳川家康の軍制” の続きを読む

【織田信長の居城遍歴】那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城への居城移転

織田信長は、生涯を通じて4回も居城を移転した稀有な戦国大名として有名です。

当時の戦国大名は、生涯拠点を動かさなかったことが多かったため、織田信長の居城移転歴は、当時としてはかなり異質なものに見えます。

もっとも、織田信長の居城移転は、その時々の戦略目的から最も適した位置を選んでいるという意味で極めて合理的であり、また父である織田信秀が、勝幡城→那古野城→古渡城→末盛城と居城を移したことを目にして育った織田信長にとっては何ら不思議なことではなかったのかも知れません。

本稿では、織田信長の居城の遍歴について、そのときの戦略目的を振り返りながら見ていきたいと思います。 “【織田信長の居城遍歴】那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城への居城移転” の続きを読む

【清洲同盟】織田信長と徳川家康を結んだ軍事同盟

清洲同盟(きよすどうめい・清須同盟)は、永禄5年(1562年)に尾張国を治める織田信長と、西三河を治める松平家康(後の徳川家康)との間で結ばれた軍事同盟です。

清州同盟は、美濃国への侵攻を進めたい織田信長と東三河への侵攻を進めたい徳川家康との思惑が一致したことにより、婚姻を伴う対等な軍事同盟としてスタートとします。

もっとも、その後に織田家と徳川家との国力の差が大きく開き始めたため、天正2年(1574年)冬ころには、その性質について徳川家康が織田信長に臣従する形での従属同盟に変化していきました。

もっとも、清州同盟締結中、織田信長・徳川家康の双方がいずれも他方を裏切ることなく続いた戦国時代としては極めて稀な軍事同盟とも言え、織田信長の勢力拡大や、後の徳川家康の名声に繋がった大きな意味のある同盟と言えます。 “【清洲同盟】織田信長と徳川家康を結んだ軍事同盟” の続きを読む

【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興

戦国時代を終わらせて天下泰平の江戸時代を築いた徳川家康ですが、その人生は苦難の連続でした。

三河国の国人領主の家に生まれ、生まれた直後から織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれ、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられています。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れてなんとか岡崎城に入り、紆余曲折を経てなんとか独立にこぎつけています。

本稿では、この徳川家康独立について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興” の続きを読む

【御陵衛士】新撰組から分離した伊東甲子太郎一派

御陵衛士(ごりょうえじ)は、新撰組ナンバー3の参謀の地位にあった伊東甲子太郎が、局中法度に定められた切腹処分を免れて新撰組から脱退するために組織した団体です。

名目上は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織とされ、高台寺塔頭の月真院を屯所としたために高台寺党とも呼ばれます。

名目上は新撰組の活動の一端を担うとされていたものの、実質上は倒幕のための活動を続けていたことから、慶応3年(1867年)11月18日に長であった伊東甲子太郎が新撰組に暗殺され、事実上の解散を迎えています。 “【御陵衛士】新撰組から分離した伊東甲子太郎一派” の続きを読む

【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、元治元年(1864年)6月5日、新撰組が、京の三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃し、一網打尽にして京の放火計画を未然に防いだことにより新撰組の名を世間に知らしめた事件です。

この事件により多くの維新志士が失われたことで明治維新が遅れたとも、逆に明治維新を早めたとも言われる歴史の転換点となった事件でもあります。 “【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件” の続きを読む

【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで

京で室町幕府第13代将軍であった足利義輝が暗殺され(永禄の変)、その後、その弟であった足利義昭が織田信長の協力により上洛し征夷大将軍に就任したことはあまりにも有名です。

この結論はあまりにも有名なのですが、他方で、この上洛に至るまでの足利義昭の動向についてはあまり知られていないと思います。

そこで、本稿では、足利義輝が暗殺された後から征夷大将軍に就任するまでの足利義昭の足跡について説明していきたいと思います。 “【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで” の続きを読む

【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について

問注所(もんちゅうじょ)は、鎌倉を拠点として東国武士団を取りまとめて鎌倉幕府を開いた源頼朝が設置した訴訟事務所管機関です。

歴史の教科書に出てきますので名前を聞いたことはあるかと思うのですが詳しい説明がなされることはなかったのではないでしょうか。

元々東国武士団の集合体でしかなかった鎌倉幕府の前身を統治するために造られた小さな建物がその始まりだったたのですが、自らの土地の権利を維持するために命をかける集団である東国武士の集合体である鎌倉幕府ではこの土地紛争の解決がその要となったことから、それを裁く問注所は極めて重要な機関として発展していきます。

本稿では、ほぼ名前しか知られていないと思われる問注所について、その歴史的沿革から見ていきたいと思います。 “【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について” の続きを読む

【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて

鎌倉幕府が、その初期に源氏将軍が終わりを迎えた後、執権・北条義時による事実上の独裁政権となったことは有名です。

もっとも、ここでいう執権とは本来は、鎌倉幕府内の機関の1つであった政所の長官である別当の別称に過ぎず、最高権力者を意味する名称ではありません。

それにもかかわらず、北条義時=執権=独裁者のイメージがあるのはなぜなのでしょうか。

本稿では、執権政治についてその成立の過程から、得宗家に権力が流れて名目化していくまでについて簡単に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて” の続きを読む

【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、承久の乱の後、朝廷を監視するために置かれた鎌倉幕府の出先機関です。

朝廷を監視するための機関と言っても、実際には朝廷を威圧して意のままに動かすために設置された機関ですので実際の機能は鎌倉幕府の軍事基地です。

この六波羅探題の設置により、それまでの朝廷と鎌倉幕府という二元政治体制が終わりを迎えて真の武家政権が成立していますので、本稿ではそこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立” の続きを読む