【平城京】条坊制を採用して築かれた奈良時代の都城

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代に大和国北部(奈良盆地北部、現在の奈良市・大和郡山市)におかれた日本の都です。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城であり、和銅3年(710年)、それまでの都であった藤原京から遷都された後、短期間の中断期間を経て、延暦4年(785年)に長岡京に遷都されるまで都として政治の中枢を担いました。 “【平城京】条坊制を採用して築かれた奈良時代の都城” の続きを読む

【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵

天智天皇山科陵(御廟野古墳)は、京都市山科区に存在する天智天皇(在位668〜671年)を祀った古墳です。

山科盆地北辺の南向きの傾斜面に位置した八角墳であり、宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇陵に治定されています。

数多く存在する京都市内の天皇陵の中で最も古い陵としても有名です。

もっとも、実は天智天皇は、生前に山科の地には縁もゆかりもなく、なぜ山科の地に陵があるのかについて様々な説があります。 “【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵” の続きを読む

【天皇陵一覧】宮内庁により治定された歴代天皇の葬送地

天皇陵とは、天皇が葬られた場所を言い、その根拠は皇室典範27条に求められます。

皇室典範27条では、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所を陵というとしていますので(その他の皇族を葬る所は墓とししています。)、陵のうち天皇が葬られた場所を「天皇陵」ということとなるのです。

日本に点在する陵墓の被葬者を特定することを「治定」といい、治定作業は古くは江戸時代(元禄~文久年間)からその当時の学問水準を基にして行われており、今日の水準からすると疑問点の多いものとなっています。

もっとも、これまでに天皇陵として治定されたものは宮内庁の管理下におかれ、発掘調査どころかその立入さえ許さないという制限を受けていますので、その真偽を質すことさえ出来ない状況となっているということを理解した上で本稿をご参照いただければ幸いです。

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【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった女真族襲来事件

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、 寛仁3年(1019年 )3月27日から4月13日までなされた女真族による壱岐・対馬・九州襲撃事件です。

1019年に起こった、10(と)1(い)の九州(9)襲撃として、日本史上、最も覚えやすい語呂合わせの年に発生し、記録されただけでも死者365人・拉致被害者1289人・牛馬被害380匹・家屋45棟以上喪失という甚大な被害を被った一大事件です。

もっとも、刀伊の入寇は、なぜか教科書などではほとんど紹介されておらず、マイナー事件の扱いを受けています。

そこで、本稿では、刀伊の入寇について、事件発生の経緯からその概略を説明していきたいと思います。 “【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった女真族襲来事件” の続きを読む

【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟

織田長益(おだながます)は、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれた武将であり、織田信長の末弟にあたります。

織田信忠の下について織田家の勢力拡大戦に従軍したのですが軍才はなく、目立った武功は見受けられませんでした。

本能寺の変により織田信長が死亡した後は、織田信雄・豊臣秀吉・豊臣秀頼の臣下となったのですが、そこでも武将としての活躍はほとんどありませんでした。

もっとも、千利休に茶道を学んで利休十哲の一人にも数えられるほどの茶人となり、千利休の死後に自らの茶道流派である有楽流を創始するに至り、長益系織田家嫡流初代として織田家の血を後世に残すことに成功しています。

出家後に有楽(うらく)・如庵(じょあん)と号したことから、織田有楽斎(おだうらくさい)と呼ばれることもあります。 “【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟” の続きを読む

【日本の都一覧】天皇の代替わり毎に行われていた遷都の歴史

現在の日本の首都は東京都(正確には東京奠都がなされていますので京都もまた首都であるはずです。)ですが、歴史的に見るとそこに至るまでに数々の遷都が行われてきました。

延暦13年(794年)の平安京遷都後は1000年以上も同じ場所に置かれていたためにあまり知られていませんが、それまでは天皇の代替わり毎に(場合によっては同一天皇の代に複数回)に都の場所が移転していました。

本稿では、日本において遷都が繰り返されてきた理由を説明し、移り変わった都の一覧を列挙していきたいと思います。 “【日本の都一覧】天皇の代替わり毎に行われていた遷都の歴史” の続きを読む

【環濠都市・堺】戦国時代最大の貿易都市の栄枯盛衰

堺(さかい)は、大坂南部に位置した、大阪湾に面する一大商業都市です。

堀によって周囲を取り囲んで守る環濠都市としても有名です。

堺周辺の海は遠浅であったために大型船の接岸には向かないため、必ずしも港として優れていたわけではなかったにもかかわらず、戦国時代には、対明貿易・南蛮貿易の玄関口としての役割を果たして商業都市として栄え、戦国大名からも無視できない勢力として度々歴史上の事件に関わっていきました。

あまりの繁栄ぶりから、三好長慶・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などのときの権力者がこぞって直轄支配を行った都市でもありました。

本稿では、環濠都市・堺が、どのように発展したどのような都市であったのかについて、簡単に説明していきたいと思います。 “【環濠都市・堺】戦国時代最大の貿易都市の栄枯盛衰” の続きを読む

【御土居】豊臣秀吉が築いた京を囲む土塁

御土居(おどい)は、豊臣秀吉によって作られた京の町を囲む惣構え構造の土塁です。土塁に沿って掘られた堀とあわせて御土居堀とも呼ばれます。

御土居は、聚楽第・方広寺・寺町建造、天正の地割など豊臣秀吉による一連の京改造事業の1つとして建造されました。

目的としては京防衛のためであったと考えられるのですが、防衛設備としては不十分なものであり、現在でもその設置目的については様々な議論がなされています。

なお、現在も御土居の遺構が一部現存し、国の史跡に指定されています。

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【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男

織田 信雄(おだのぶかつ/おだのぶお)は、織田信長の次男です。

織田家による南伊勢乗っ取りのために南伊勢の北畠家に養子に出されて、同家で成長して見事に同家の乗っ取りを成功させ、織田家中も一門衆序列4位という高位に位置していました。

もっとも、武将としての評価は芳しいものではなく、織田信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に織田家を簒奪された上、その軍門に下って改易処分を受けるなど、その器量には大きな疑問符もつきます。

もっとも、数多く生まれた織田信長の息子のうち、江戸時代に大名として存続したのは織田信雄の系統だけであり、お家存続という成果を挙げたという意味では高く評価してもいい人物と考えます。 “【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男” の続きを読む

【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。

元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。

関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。 “【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦” の続きを読む