【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について

日本最初の武家政権として誰もが知っている鎌倉幕府ですが、その成立時期については諸説あります。

その理由は、事実認識の違いというわけではなく、鎌倉幕府が段階的に成立していったため、どの段階に達したことをもって幕府成立といえるかの判断が人によって異なるためです。

具体的に言うと、鎌倉幕府が元々何も持たなかった流人の源頼朝が伊豆国で挙兵して鎌倉に関東に影響を及ぼす私的武装団を組織し(1180年)、この武装団が公的に容認され(1183年閏10月)、武装団による関東支配権が認容され(1185年)、その支配権が東北に及び(1190年)、武装団の長である源頼朝が右大将に任命され(1190年11月)、恒久的な諸国守護権が認められ(1191年3月)、長である源頼朝が征夷大将軍に任命され(1192年7月)、朝廷までも事実上の支配下に置く(1221年7月)という成立過程を経ているため、どの段階をもって武家政権の成立=鎌倉幕府成立といえるかについての認識が人によって異なるからです。

本稿では、前記鎌倉幕府の成立過程を簡単に紹介していきますので、どの段階をもって鎌倉幕府が成立したと言えるかについて考えてみていただければ幸いです。 “【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について” の続きを読む

【蜆川(曽根崎川)】大阪北新地を貫いていた河川

蜆川は、現在は埋め立てられて消滅してしまっていますが、かつて大阪屈指の繁華街である北新地のど真ん中の場所を流れていた川です。

江戸時代に河村瑞賢により河川大改修と周囲の再開発が行われ大阪を代表する一大繁華街の大動脈となり、南側を流れる堂島川と相まって中州である堂島を形成させていた川でもありました。

もっとも、明治末期の北の大火の瓦礫により上流域が、また大正末期までに下流域が埋立てられたことにより消失してしまいました。

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【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将

片桐 且元(かたぎりかつもと)は、豊臣秀吉死後に豊臣家と徳川家との対立に翻弄された武将です。

若い頃は賤ヶ岳の七本槍の1人にも数えられるほどの武功を挙げるなどしていたのですが、豊臣秀吉からは官僚としての能力を買われて直参とされ、豊臣秀吉死後には家老として豊臣家を支えました。

もっとも、方広寺鐘銘事件に端を発した豊臣・徳川の対立の際に、徳川家康との内通を疑われて豊臣家から出奔し、徳川家臣として旧主家の滅亡を見届けることとなっています。 “【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将” の続きを読む

【東寺】空海によって真言宗の根本道場に造り変えられた平安京の官立寺院

東寺(とうじ)は、平安京入口東側に創建された平安京鎮護のための官立寺院であり、その後に空海に下賜されたことから真言宗の総本山・根本道場となった寺院でもあります。教王護国寺ともいわれます。

後白河法皇の皇女であった宣陽門院が東寺に莫大な荘園を寄進することによりその財政基盤をつくったこと、弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになったことなどから栄えていきました。

現在においてなお創建当時の寺域を維持し、数々の国宝・重要文化財を有する京都の代表的な名所として存続しています。

本稿では、東寺観光をより有意義なものとするため、東寺の歴史、伽藍配置、観光モデルコースなどについて紹介します。 “【東寺】空海によって真言宗の根本道場に造り変えられた平安京の官立寺院” の続きを読む

【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇

平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。

妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。

しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。

最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。

本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。 “【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇” の続きを読む

【豊国神社】なぜ豊国神社が方広寺境内にあるのか

豊国神社(とよくにじんじゃ)は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であった場所(現在の京都市東山区)に建てられた、神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る神社です。

元々は、豊臣系の寺社が立ち並ぶ区域の最奥(東端)に鎮座していた巨大神社だったのですが、一旦は、豊臣家滅亡後に徳川家康の命を受けて廃絶されています。

その後、明治維新後に明治天皇の勅命によって方広寺境内内に再興され、現在に至っています。

旧社格は別格官幣社(神祇官が祀る官社のうちの官幣小社待遇)であり、現在は神社本庁の別表神社とされています。 “【豊国神社】なぜ豊国神社が方広寺境内にあるのか” の続きを読む

【比叡山延暦寺】観光前に知っておきたい延暦寺の歴史概略

延暦寺は、現在の日本最大の湖である琵琶湖の西側に京都市と滋賀県大津市にまたがる場所にそびえる標高約848mの比叡山に、伝教大師・最澄によって開かれた天台宗の総本山です。

延暦寺とは、その名称から1つの寺であるかのような印象を持ちがちですが、その名の1つの寺(建物)があるのではなく、比叡山山上と山下にある100を超える堂宇の総称です。

その中心は、開祖最澄が延暦7年(788年)に建てたお堂(一乗止観院)を前身とする国宝・根本中堂(現在の建物は、江戸幕府3代将軍の徳川家光が建てたものです。)で、本尊は薬師如来です。

最澄の教えを学ぼうとして多くの才能が集まり、また最澄の死後に受戒が許される寺となったこともあって多くの名僧が巣立っていった場所でもあります。

現在は、1700haの広大な敷地内に東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔エリアに分かれてそれぞれに本堂が存在し、さらに山中に100を超える堂宇が点在していますので、全て回るためには1日がかりとなります。 “【比叡山延暦寺】観光前に知っておきたい延暦寺の歴史概略” の続きを読む

【平城京】条坊制を採用して築かれた奈良時代の都城

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代に大和国北部(奈良盆地北部、現在の奈良市・大和郡山市)におかれた日本の都です。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城であり、和銅3年(710年)、それまでの都であった藤原京から遷都された後、短期間の中断期間を経て、延暦4年(785年)に長岡京に遷都されるまで都として政治の中枢を担いました。 “【平城京】条坊制を採用して築かれた奈良時代の都城” の続きを読む

【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵

天智天皇山科陵(御廟野古墳)は、京都市山科区に存在する天智天皇(在位668〜671年)を祀った古墳です。

山科盆地北辺の南向きの傾斜面に位置した八角墳であり、宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇陵に治定されています。

数多く存在する京都市内の天皇陵の中で最も古い陵としても有名です。

もっとも、実は天智天皇は、生前に山科の地には縁もゆかりもなく、なぜ山科の地に陵があるのかについて様々な説があります。 “【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵” の続きを読む

【天皇陵一覧】宮内庁により治定された歴代天皇の葬送地

天皇陵とは、天皇が葬られた場所を言い、その根拠は皇室典範27条に求められます。

皇室典範27条では、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所を陵というとしていますので(その他の皇族を葬る所は墓とししています。)、陵のうち天皇が葬られた場所を「天皇陵」ということとなるのです。

日本に点在する陵墓の被葬者を特定することを「治定」といい、治定作業は古くは江戸時代(元禄~文久年間)からその当時の学問水準を基にして行われており、今日の水準からすると疑問点の多いものとなっています。

もっとも、これまでに天皇陵として治定されたものは宮内庁の管理下におかれ、発掘調査どころかその立入さえ許さないという制限を受けていますので、その真偽を質すことさえ出来ない状況となっているということを理解した上で本稿をご参照いただければ幸いです。

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