【金戒光明寺】法然が開き江戸幕府が城塞化した浄土宗大本山

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗開祖である法然が比叡山延暦寺を下り最初に庵を結んだ場所に開かれた浄土宗の大本山寺院です。

比叡山を下りて石に腰かけた際に紫の雲が立ち上って大空を覆い光明が差したという逸話から山号を紫雲山、寺号を光明寺(後に光厳天皇から金戒の二字を賜ったことにより金戒光明寺)といいます。

浄土宗始まりの地として重要な寺であり、浄土宗の七大本山の1つ、かつ京都四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の1つに数えられています。

以上のとおり、浄土宗の始まりの地として重要な寺ではあるのですが、その後、江戸幕府によって要塞化され、幕末期に京都守護職が置かれた場所としても有名です。

そのため、金戒光明寺は、創建された鎌倉期、要塞に改造された江戸時代初期、京都守護職が置かれた幕末期にちなんだ時代の異なる歴史が混在する寺ですので、これらの時代背景を意識して観光いただければより一層楽しめると思います。

本稿では、金戒光明寺について、この時代背景に意識しつつ簡単に説明していきたいと思います。 “【金戒光明寺】法然が開き江戸幕府が城塞化した浄土宗大本山” の続きを読む

【南禅寺が五山之上という別格扱いにされている理由】

南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山であり、臨済宗寺院である京都五山・鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院として日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つとされています。

もっとも、南禅寺が五山之上という別格扱いにされた理由は、宗教的な理由ではなく、後醍醐天皇の政治的思惑と足利義満のわがままによるものです。

本稿では、南禅寺が五山之上に位置することに至った経緯・理由について簡単に説明します。 “【南禅寺が五山之上という別格扱いにされている理由】” の続きを読む

【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名

荒木村重(あらきむらしげ)は、摂津国の有力国人の池田家に仕える武士の子として生まれ、後に織田信長に下った上で池田家を乗っ取り摂津国全域を支配するに至った戦国武将です。

その才覚を高く評価されて織田政権下で重用されながら、織田信長に反旗を翻し敗れ全てを失った武将でもあります。

また、織田信長との戦いでは、妻を残して居城であった有岡城から脱出しこれを見殺しにしたため、後世すこぶる評判の悪い人物でもあります。

本稿では、その後に茶人として生き、利休十哲の1人にもなった波乱万丈の戦国大名・荒木村重の生涯について簡単に紹介していきたいと思います。 “【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名” の続きを読む

【安閑天皇陵(高屋築山古墳)】高屋城の主郭に転用された天皇陵

高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)は、宮内庁によって安閑天皇陵に治定されている古市古墳群の最南端にある前方後円墳です。

学術的に見ると高屋築山古墳=安閑天皇陵とする点については疑問も残るのですが、そのことよりも戦国時代に河内守護畠山家の居城となった高屋城の主郭に転用されたことで有名です。

本稿では、この安閑天皇陵(高屋築山古墳)について、簡単に説明していきたいと思います。 “【安閑天皇陵(高屋築山古墳)】高屋城の主郭に転用された天皇陵” の続きを読む

【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓

豊国廟(ほうこくびょう)は、豊国神社の境外地となった京都市東山区今熊野北日吉町にある豊臣秀吉のお墓です。

麓から563段の石段を登った阿弥陀ヶ峰の山頂に建てられた石造五輪塔として祀られています。

後の天下人となった徳川家康が久能山(後に日光)に葬られたことと比較すると、一見、質素かつマイナーであるかのように感じますが、その理由は、徳川家康が豊臣家滅亡後に行った豊臣家の痕跡抹消政策によるものです。

本稿では、豊臣家と徳川家の勢力争いをからめつつ豊臣秀吉の墓である豊国廟について簡単に説明したいと思います。 “【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓” の続きを読む

【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について

日本最初の武家政権として誰もが知っている鎌倉幕府ですが、その成立時期については諸説あります。

その理由は、事実認識の違いというわけではなく、鎌倉幕府が段階的に成立していったため、どの段階に達したことをもって幕府成立といえるかの判断が人によって異なるためです。

具体的に言うと、鎌倉幕府が元々何も持たなかった流人の源頼朝が伊豆国で挙兵して鎌倉に関東に影響を及ぼす私的武装団を組織し(1180年)、この武装団が公的に容認され(1183年閏10月)、武装団による関東支配権が認容され(1185年)、その支配権が東北に及び(1190年)、武装団の長である源頼朝が右大将に任命され(1190年11月)、恒久的な諸国守護権が認められ(1191年3月)、長である源頼朝が征夷大将軍に任命され(1192年7月)、朝廷までも事実上の支配下に置く(1221年7月)という成立過程を経ているため、どの段階をもって武家政権の成立=鎌倉幕府成立といえるかについての認識が人によって異なるからです。

本稿では、前記鎌倉幕府の成立過程を簡単に紹介していきますので、どの段階をもって鎌倉幕府が成立したと言えるかについて考えてみていただければ幸いです。 “【鎌倉幕府成立時期はいつなのか?】初の武家政権の段階的な成立過程について” の続きを読む

【蜆川(曽根崎川)】大阪北新地を貫いていた河川

蜆川は、現在は埋め立てられて消滅してしまっていますが、かつて大阪屈指の繁華街である北新地のど真ん中の場所を流れていた川です。

江戸時代に河村瑞賢により河川大改修と周囲の再開発が行われ大阪を代表する一大繁華街の大動脈となり、南側を流れる堂島川と相まって中州である堂島を形成させていた川でもありました。

もっとも、明治末期の北の大火の瓦礫により上流域が、また大正末期までに下流域が埋立てられたことにより消失してしまいました。

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【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将

片桐 且元(かたぎりかつもと)は、豊臣秀吉死後に豊臣家と徳川家との対立に翻弄された武将です。

若い頃は賤ヶ岳の七本槍の1人にも数えられるほどの武功を挙げるなどしていたのですが、豊臣秀吉からは官僚としての能力を買われて直参とされ、豊臣秀吉死後には家老として豊臣家を支えました。

もっとも、方広寺鐘銘事件に端を発した豊臣・徳川の対立の際に、徳川家康との内通を疑われて豊臣家から出奔し、徳川家臣として旧主家の滅亡を見届けることとなっています。 “【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将” の続きを読む

【東寺】空海によって真言宗の根本道場に造り変えられた平安京の官立寺院

東寺(とうじ)は、平安京入口東側に創建された平安京鎮護のための官立寺院であり、その後に空海に下賜されたことから真言宗の総本山・根本道場となった寺院でもあります。教王護国寺ともいわれます。

後白河法皇の皇女であった宣陽門院が東寺に莫大な荘園を寄進することによりその財政基盤をつくったこと、弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになったことなどから栄えていきました。

現在においてなお創建当時の寺域を維持し、数々の国宝・重要文化財を有する京都の代表的な名所として存続しています。

本稿では、東寺観光をより有意義なものとするため、東寺の歴史、伽藍配置、観光モデルコースなどについて紹介します。 “【東寺】空海によって真言宗の根本道場に造り変えられた平安京の官立寺院” の続きを読む

【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇

平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。

妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。

しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。

最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。

本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。 “【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇” の続きを読む