蜂須賀小六(正勝)は、豊臣秀吉の天下統一に貢献したその筆頭宿老です。
何度も主君を失った後、織田家の美濃国侵攻戦の際に豊臣秀吉の与力となり、その後直臣となってその覇業を支えました。
豊臣家筆頭宿老となり、最終的には蜂須賀家に阿波一国を与えられたことにより阿波徳島藩蜂須賀家の藩祖とされています。
なお、江戸時代に書かれた物語により野盗の頭目であったとか、墨俣一夜城の築城に貢献したなどというフィクションのイメージが作り上げられたため、ドラマなどでは面白おかしく描かれることの多い人物でもあります。
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蜂須賀小六の出自
出生(1526年)
蜂須賀小六(蜂須賀正勝)は、大永6年(1526年)、尾張国海東郡蜂須賀郷の国衆であった蜂須賀城主・蜂須賀正利(200貫)の長男として蜂須賀城で生まれました。
母は、大橋定広の娘(尾張群書系図部集)とする説もありますが、蜂須賀家記などでは某氏とされているなど実際のところは不明です。
幼名は、鶴松(鶴丸)(尾張群書系図部集)、通称は小六・小六郎または彦右衛門といいました(後に彦右衛門)といいました。
なお、生涯において名乗りが鶴松→利政→正勝と変遷しているのですが、本稿では便宜上、太閤記での役名として広く知られる「蜂須賀小六」の表記で統一します。
斎藤道三に仕える(1553年2月)
天文22年(1553年)、蜂須賀小六の父である蜂須賀正利が織田信秀に追われて蜂須賀村を出て美濃斎藤家に仕え始めたため、蜂須賀小六もまた同年2月25日から斎藤道三に近侍することとなりました。
このとき、斎藤道三から偏諱を受けて初名を蜂須賀利政と名乗り、また、同年、伊勢国司・北畠具教の側室であった「まつ(大匠院)」を貰い受け、これを正室としています。
その後、蜂須賀小六は、斎藤道三の下で数々の戦いに参戦し、弘治2年(1556年)の長良川の戦いでも斎藤道三側について首級を上げる活躍をしたのですが、同戦で斎藤道三が敗死したため主君を失います。
織田信賢に仕える
蜂須賀小六は、斎藤道三が敗死して主君を失った後、尾張国岩倉城主・織田信賢に仕えます。
なお、このタイミングの永禄元年(1558年)、正室「まつ」との間に嫡男・蜂須賀家政を儲けています。
もっとも、織田信賢が、織田信行・斎藤義龍らと結んで織田弾正忠家の織田信長と敵対して永禄元年(1558年)の浮野の戦いで敗れ、翌永禄2年(1559年)には織田信長・織田信清連合軍に岩倉城を攻め落とされて追放されてしまいました。
この結果、蜂須賀小六は、またもや主君を失います。
織田信清に仕える
その後、蜂須賀小六は、犬山城主であった織田信清に仕えたのですが、織田信清が織田信賢の旧領地の分与を巡って織田信長と諍いを起こし、永禄5年(1562年)に挙兵して織田信長と対立します。
もっとも、永禄8年(1565年)2月22日に織田信長の攻撃により犬山城が陥落し、織田信清が甲斐国に逃亡してしまいました。
この結果、蜂須賀小六は、またまた主君を失います。
織田信長に仕える
三度主君を失った蜂須賀小六は、尾張国支配権を確立した織田信長に仕え、蜂須賀郷に戻ります。なお、織田信長に下るにあたって豊臣秀吉が仲介をしたとの説もありますが(武功夜話)、真偽は不明です。
豊臣秀吉の与力として
豊臣秀吉の与力となる(1565年7月頃)
織田家家臣となった蜂須賀小六は、豊臣秀吉(木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名乗りを変えていくのですが、便宜上、本稿では豊臣秀吉の表記で統一します。)の与力として付けられ、永禄8年(1565年)7月頃に始まった織田家による美濃攻略戦に従軍することとなりました。
美濃国に入った蜂須賀小六は、かつて斎藤道三に仕えていた際の縁を生かして羽柴軍の案内役を務め、軍事作戦のみならず調略にも活躍します。
なお、この美濃侵攻戦の際に豊臣秀吉が一夜で墨俣城を築城することとなり、これに蜂須賀小六が稲田大炊助・青山秀昌・長江景親・梶田景儀らと共に土豪衆の1人として加わり活躍したとの逸話が有名なのですが、この話は後世の創作である可能性が高いと言われています。
代官として在京する
美濃侵攻戦の功により織田信長から50余村と500貫を与えられた蜂須賀小六は、その後も豊臣秀吉の与力として使われます。
そのため、織田信長の上洛戦であった永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いでも豊臣秀吉の麾下として箕作城攻撃に参加し、その後豊臣軍の将として上洛しています。
足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長でしたが、その本拠地は美濃国・岐阜であったために織田信長自ら京(畿内一帯を含む)政策の陣頭指揮を執ることはできず、代理人となる奉行人を在京させて足利義昭を補佐することとします。
このとき、足利義昭の補佐をするために京に置かれた足利義昭及び織田信長の代理人を京都奉行といいました(足利義昭追放後に置かれた「京都所司代」や江戸時代に置かれた「江戸町奉行」とは別物です。)。
そして、織田信長は、永禄12年(1569年)に豊臣秀吉を京都奉行に任じたのですが、蜂須賀小六がその代官として京に留まって警備にあたりました。
5000石を領する
永禄12年(1569年)5月に二条御所にて火災が発生した際、在京していた蜂須賀小六がこれを速やかに鎮火し、その褒美として足利義昭から桐の紋の入った羽織を与えられ、家紋としての使用が許されています。
なお、これにより蜂須賀家では桐紋を使用することとなったのですが、後に豊臣秀吉が桐紋(太閤桐)を用い始めたことから、これに配慮して柏紋(抱き柏紋)に改めています(江戸時代に系図が修正された後は蜂須賀万字を使用)。
このときの蜂須賀小六の活躍は織田信長の耳にも入り、織田信長からも褒美として尾張春日井郡三淵郷5000石を与えられました。
浅井・朝倉攻めに従軍(1570年4月〜)
元亀元年(1570年)4月、織田信長は、上洛要請を無視する越前朝倉家を討つため、京を発って北進していきます。
このとき、蜂須賀小六は、豊臣秀吉麾下の将として従軍し、天筒山城・金ヶ崎城攻めに参加します。
ところが、越前朝倉家攻撃に向かっていた織田信長に対し、北近江の浅井長政が織田家と手切れして敵対します。
浅井家の離反によって越前国で挟撃される形となった織田信長は、殿として池田勝正・明智光秀・豊臣秀吉を残した上、残りを京に向かって全軍撤退させる決断をします(金ヶ崎の退き口)。
このとき、殿の1人となった豊臣秀吉には5人の与力(木村重茲、生駒親正、前野長康、加藤光泰、蜂須賀小六)が付き従っており、蜂須賀小六もその1人として活躍したとされています(甫庵信長記)。
裏切った浅井家と織田家が敵対関係となったため、この後、織田家による北近江攻めが始まります。
堅城として有名であった浅井家の本拠地・小谷城を力攻めすると損害が大きくなると考えた織田信長は、周囲の支城を順に攻略して孤立させた後に小谷城を攻撃することに決定します。
この後の戦いでも蜂須賀小六は、豊臣秀吉麾下の将として従軍し、姉川の戦いや近江横山城攻略戦にも参戦します。
また、元亀2年(1571年)5月、堀秀村が入る箕浦城が浅井方に攻められた際には、蜂須賀小六が後詰として派遣され、一番槍として浅井軍を撃退する武功を挙げています。
横山城代を務める(1572年)
織田信長は、小谷城に近い横山城を攻略して同城に豊臣秀吉を入れた後、元亀3年(1572年)8月9日、小谷城の南西近くに位置する虎御前山を城塞化して前線基地とし、小谷城と南方の支城とを分断します。
その後、豊臣秀吉が中心となって小谷城との連絡網を遮断されて孤立した虎御前山城以南の支城調略を進めていくこととなったのですが、このとき、蜂須賀小六が横山城に任じられ、豊臣秀吉不在時の横山城を任されました。
豊臣秀吉の直臣として
豊臣秀吉の直臣となる(1573年)
天正元年(1573年)秋、豊臣秀吉が、浅井家攻略の武功により浅井家旧領である湖北3郡(坂田郡・浅井郡・伊香郡)12万石と小谷城を与えられて北近江に入ると、蜂須賀小六は、豊臣秀吉から知行を与えられその直臣となります。
その後、蜂須賀小六は、豊臣秀吉麾下で戦闘に参加し、天正4年(1576年)に起こった石山合戦での激戦であった天王寺合戦では、豊臣秀吉隊の先鋒を務めて「楼岸一番の槍」の戦功を挙げるなどの数々の武功を挙げています。
この結果、蜂須賀小六は、豊臣秀吉から感状と加増100石が与えられ、さらに織田信長からも定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けています。
中国攻め・前半戦(1577年〜)
豊臣秀吉が中国方面軍司令官に任命され、天正5年(1577年)から織田軍による毛利家攻めか始まると、蜂須賀家からは、蜂須賀小六に加え、嫡男・蜂須賀家政もこれに従軍します。
天正7年(1579年)の三木城攻め(三木の干殺し)においては、蜂須賀小六は、三木城への兵糧搬入路となっていた大村坂を巡る戦いで援軍として駆けつけた毛利方の小早川隊を撃退し、200もの首級をあげると共に兵糧強奪まで成功させる武功を挙げました。
また、天正8年 (1580年)の長水城(兵庫県宍粟市山崎町)攻めでは、蜂須賀家政と共に美作へ逃れようとした城主・宇野祐清を追いかけ、千種で追いついてこれを討ち取っています。
この功により、蜂須賀家政には月毛の名馬が、蜂須賀小六には長水城が与えられました。
播磨国内5万3000石を領する
播磨国を平定した豊臣秀吉は、本格的な毛利領侵攻の準備にとりかかります。
まず、黒田官兵衛の助言に従って、姫路城を全軍の本拠地と定め、その大改修を行います。
次に、周囲の主要城郭に家臣を入れていきました。
このとき、蜂須賀小六には、織田信長の許しを得て播磨国龍野5万3000石が与えられたため、蜂須賀小六は城持大名となって龍野城に入りました。
中国攻め・後半戦

天正9年(1581年)、鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)が始まると、蜂須賀小六軍もこれに従軍し、包囲に加わります。
蜂須賀小六は、鳥取城包囲に参加しながら、その支城への調略を同時に進め、吉岡城・大崎城・鹿野城などを次々に取り込んでいきました。
鳥取城落城後の同年11月、豊臣秀吉軍が淡路遠征を行っていた際、由良城(由良古城)の安宅清康が、蜂須賀小六と池田恒興家臣であった伊木忠次に投降を申し出て淡路勢が降伏するに至ります。
この後、蜂須賀小六が、豊臣秀吉の名代として岩屋城を引き取り、その後、岩屋城は池田領、洲本城は羽柴領として与えられています(羽柴領となった洲本城は仙石秀久に与えられました)。
その後、中国攻めに戻った豊臣軍では、天正10年(1582年)3月、蜂須賀小六と黒田官兵衛が、小早川隆景の水軍の将であった乃美宗勝・乃美元信の調略を試みますが失敗に終わりました。
また、同年4月より備中高松城の戦い(備中高松城水攻め)が始まり、ここでも蜂須賀小六と黒田官兵衛が、城将の清水宗治の陣へ使者として赴き、投降の説得をしたのですが、清水宗治に拒否されています。
毛利家との講和(1582年6月)
その後、毛利方の陣に向かっていた明智光秀の使者である藤田伝八郎が、天正10年(1582年)6月3日深夜に羽柴軍の警戒網に引っ掛かって捕らえられたこと、同年6月4日に京の豪商・長谷川宗仁からの書状を持つ使者が羽柴秀吉の下に届いたことから、豊臣秀吉が本能寺において織田信長が横死したことを知ります。
ここで、豊臣秀吉は、織田信長横死の事実を隠して即座に毛利方と和睦して陣を払い、明智光秀を討つために京に戻るとの決断をします。
そこで、豊臣秀吉は、毛利方の交渉窓口であった安国寺恵瓊を呼び寄せ、和解条件として河辺川(高梁川)・八幡川以東の割譲(それまでの5か国から、備中国・美作国・伯耆国の3か国に減らされています。)と清水宗治自刃を和睦の条件として提示します。
織田信長横死の事実を知らない毛利方としては、これ以上豊臣軍と対峙しても勝ち目はないと判断して豊臣秀吉から提示された条件を受け入れたため、毛利・羽柴の間に停戦が成立することとなり、同日の清水宗治の切腹をもって和睦成立となります。
中国国分
毛利方との和睦を成立させた豊臣秀吉は、備中高松城の包囲を解いて陣を払い、畿内へ戻るための準備として一旦姫路城に帰還します。
このとき、豊臣秀吉の命を受けた蜂須賀小六が、姫路城の蔵を全て開け、付いて来た家臣団に蓄えていた金銀米穀を分配することで混乱して離散しそうになるのをなんとか繋ぎ止めます。
その後、豊臣軍は、大急ぎで畿内に戻り(中国大返し)、山崎の戦いで明智軍を破っているのですが、蜂須賀小六も当然この戦いに参戦しています。
山崎の戦いの後、備後・備中・出雲・伯耆・美作の 5カ国割譲を条件と主張する織田方(窓口は蜂須賀小六及び黒田官兵衛)と、3カ国と主張する毛利方(窓口は安国寺恵瓊及び林就長)との間で和睦条件の調整が行われます。
この交渉は難航したのですが、約3年の交渉期間を経て、最終的には、東伯耆・備前・美作の3カ国割譲で合意に至ります。
そして、これら3カ国が毛利家から豊臣秀吉が受け取ることとなり、蜂須賀小六がその受け取り役を担いました。
このとき、毛利家が豊臣秀吉に従属することとなり、小早川隆景の養子である小早川元続と吉川元春の三男である吉川経言が、人質として豊臣秀吉の下に送られました。
豊臣秀吉の宿老として
賤ヶ岳の戦い
他方、織田信長・織田信忠を同時に失った織田家では、清洲会議で基本体制が決定したものの、織田信孝を担ぐ柴田勝家と織田信雄を担ぐ豊臣秀吉との間で織田家筆頭家老の地位を巡って争いが起こります。
そして、山陰方面に宮部継潤、山陽方面に蜂須賀小六を配置して毛利家を牽制させた豊臣秀吉が、天正10年(1582年) 12月2日、大軍を率いて近江に出兵し、柴田勝家方の長浜城を攻撃することにより両者の戦いが具体化します。
なお、前記のとおり、蜂須賀小六自身は毛利家との折衝のために中国地方に残っていたため、柴田勝家との戦いにおいては蜂須賀隊(13隊中の9番隊)の指揮は赤松広秀に委ねられました。
その後、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、蜂須賀小六も参戦して豊臣秀吉の本陣に控え、柴田勝家敗走後には佐久間盛政の居城であった尾山城への降伏勧告を成功させています。
また、柴田勝家を滅ぼした後、蜂須賀小六は、長島城に籠城していた滝川一益の下に赴き、その投降を受け入れて滝川領の織田信雄への受け渡しを果たしています。
隠居(1583年頃)
正確な時期は不明ですが、遅くとも天正11年(1583年)夏以前に蜂須賀家の家督を嫡男・蜂須賀家政に譲り、蜂須賀小六は隠居しています。
天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが勃発すると、蜂須賀小六及び蜂須賀家政は大坂城留守居役を命じられています。
筆頭格の宿老となる(1584年9月)
天正12年(1584年)9月ころから小牧・長久手の戦いの講和交渉が始まったのですが、その最中の同年9月9日に豊臣秀吉の伯父である杉原家次(豊臣秀吉の正室高台院の母の兄)が死去したため、蜂須賀小六が豊臣家中における筆頭宿老となりました。
そこで、蜂須賀小六は、丹波国及び河内国内に合計5000石と大坂城西側近くの樓岸(現在の大阪市中央区石町の辺り)に新しい邸宅を与えられ、豊臣秀吉の側近として毎日大坂城に登城することとなりました。
黒田家との血縁(1584年)
徳川家康や織田信雄と対立を深めながらも天下人への道を進む豊臣秀吉は、家中の安定を図るため、天正12年(1584年)に家臣の双璧を担っていた蜂須賀家と黒田家との縁を結ぼうと考えます。
そこで、豊臣秀吉は、蜂須賀小六の次女(元亀2年/1571年に側室・白雲院との間に産まれた子)を自身の養女とし、黒田官兵衛の嫡男であった黒田長政に嫁がせることとし、両家に血のつながりが生まれます。
なお、黒田長政の正室となって一女をもうけた糸姫でしたが、慶長5年(1600年)5月5日、徳川家とのつながりを強くするために信濃国高遠城主保科正直の娘である栄姫(徳川家康の姪)を継室としようと考えた黒田長政によって突然離縁されます。
この離縁は、蜂須賀家にとって屈辱的なものであり、蜂須賀家と黒田家は不仲となり、享保12年(1727年)に和解するまで127年間に亘る確執に発展しています。
紀州征伐(1585年3月)
天正13年(1585年)3月、豊臣家による紀州征伐が始まると、嫡男・蜂須賀家政が大坂城留守居役を務めたのですが、同年3月26日、根来・雑賀衆らが大坂の町に侵入して来ます。
その後の整備により要塞化した大坂城ですが、この頃はまだ建設中であったために防御力に乏しく、蜂須賀家政は、生駒親正・黒田長政らと共にこれらの撃退に努めました。
なお、同月、豊臣秀吉が内大臣宣下を受けた際、蜂須賀小六もあわせて従四位下を賜り、修理大夫に叙任されています。
四国征伐(1585年5月)
続けて行われた四国征伐では、出兵直前に、豊臣秀吉から蜂須賀小六に対して戦勝後に阿波一国を与えるとの内意を示されたのですが、高齢となって隠居していた蜂須賀小六はこれを断り、その代わりに豊臣秀吉に対して同国を嫡男・蜂須賀家政に賜るよう願いました。

そして、天正13年(1585年)5月から始まった四国攻めにおいて、宇喜多秀家を大将とする播磨勢の1隊として蜂須賀家政が蜂須賀軍を率いて参戦し、讃岐方面を攻め進んで行きました。
蜂須賀小六もまた目付として従軍し、阿波国・木津城主であった東条関之兵衛を降伏させることに成功しています。
蜂須賀家が阿波一国を得る(1585年8月)
天正13年(1585年)8月に長宗我部元親が降伏して四国征伐が成功に終わると、その論功行賞として、蜂須賀家政に赤松則房に与えられた1万石を除いた阿波一国(17万3千石)が与えられました。
なお、それまでの龍野城は福島正則へ与えられています。
蜂須賀家政は、同年11月頃、蜂須賀家の本拠地を阿波国に移すために同国に入り、渭山城を破却して徳島城の築城に取り掛かりました。
蜂須賀小六の最期
死去(1586年5月22日)
天正14年(1586年)に病(労咳・肺結核)を患った蜂須賀小六は、床に臥せるようになり、京で養生を始めます。
その後、一時的に快復の兆しが見えたことから大坂に帰ったのですが、ほどなく病が悪化し、天正14年(1586年)5月22日、大坂の楼岸にあった邸宅で死去しました。享年は61歳でした。
蜂須賀小六の亡骸は、大坂楼岸の龍雲山安住寺(元々は美濃国厚見郡鏡島にて荒廃していたものを蜂須賀小六が大坂に移して再興させた寺であり、大坂の冬の陣の際に焼失しその後四天王寺の脇に移されて国恩寺として再建されたのですが、同寺も明治期に廃寺となっています。)に葬られました。
なお、蜂須賀小六の墓所となっていた寺(安住寺→国恩寺)が明治期に廃寺とされたため、荒れてしまった蜂須賀小六の墓でしたが、大正14年(1925年)に徳島県有志によって修復された後、昭和46年(1971年)に徳島県徳島市眉山町所在の万年山に移されて改葬されています(位牌所は徳島市下助任町の興源寺)。
隠居領の返還
蜂須賀小六の死に伴い、その遺言に従って蜂須賀小六の隠居領として与えられていた5000石が豊臣家に返還されました。
そこで、豊臣秀吉は、新たに蜂須賀小六の正室である大匠院に河内国丹南郡日置庄(現在の堺市東区)に1000石を与えています。
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