【山内一豊】土佐藩20万2600石の祖

山内一豊(やまうちかつとよ)は、生家が織田弾正忠家に滅ぼされて全国を放浪するになるまで没落したところから、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えて槍働きにより出世していき、豊臣秀吉死後にはいち早く徳川家康に取り入って土佐一国を治めて土佐藩を立藩するまでに出世した戦国大名です。

司馬遼太郎の著書「功名が辻」の主人公としても知られ、平成18年(2006年)度のNHK大河ドラマの主人公ともなりました。

また、妻・見性院の内助の功や、天正地震により一人娘を失った悲劇などの波乱万丈のエピソードでも有名です。

山内一豊の出自

出生(1545年)

山内一豊は、天文14年(1545年、天正15年説あり)、尾張国守護代として上四郡を支配していた岩倉織田家家老・山内盛豊の三男として尾張国岩倉(現在の愛知県岩倉市)で生まれます。なお、同地所在の神明生田神社の遷座式で棟札が発見され、これが山内一豊誕生地の有力な資料となりました。

母は尾張国土豪の梶原氏の娘である法秀尼であり(法秀院説あり)、幼名は辰之助、通称は伊右衛門または猪右衛門といいました。

なお、「山内」の読みについては、「やまのうち」と訓まれることが多いのですが、大蔵卿局(淀殿侍女)作成の書簡に平仮名で「やまうちつしまどの」と記載されていることから「やまうち」と訓むのが正しいと考えられることが多いです。

また、「一豊」の読みについては、「かずとよ」と訓まれることが多いのですが、家臣に与えた偏諱の訓みから「かつとよ」と考えるのが自然と思われます。

山内家没落(1559年)

前記のとおり、山内一豊が生れた頃の山内家は、岩倉織田家(当主:織田信安→織田信賢)の家老を務める家だったのですが、岩倉織田家が尾張国内で急成長していった織田弾正忠家の織田信長と対立していったため、山内家もまた必然的に織田弾正忠家と戦っていくようになります。

この戦いは、織田弾正忠家有利に進んでいき、弘治3年(1557年)に兄である十郎が手引きされた盗賊に黒田城を襲撃されて討ち死にし、また永禄2年(1559年)に織田弾正忠家により攻められて岩倉城が落城したには父である山内盛豊が死亡します(討死か自刃かは不明)。

こうして岩倉織田家が滅亡し、その家臣であり、当主を失った山内家も没落してしまいました。

岩倉織田家滅亡後も生き残った山内一豊は、諸国を流浪して苅安賀城主の浅井新八郎政貞→松倉城主の前野長康→美濃国牧村城主の牧村政倫→近江国勢多城主の山岡景隆などに次々と士官し、飛躍の機会をうかがいます。

木下秀吉に仕える(1568年?)

ところが、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、当時山内一豊の主君であった南近江国人の山岡景隆がこれに抵抗の姿勢を見せます。

そのため、京に向かって兵を進める織田信長により山岡景隆が籠る近江国勢多城が攻め落とされることとなったのですが、史料がなく正確な時期・理由は不明であるものの、この頃に山内一豊は、織田信長の下に下り、木下秀吉(後の豊臣秀吉、本稿では改名時期を問わず豊臣秀吉の表記で統一します。)の家人として付けられたと考えられています(豊臣秀吉への仕官時期については、天正2年頃とする説もあり、天正4年/1576年の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名していることから最大限遅く見ても同年までに豊臣秀吉の直臣となっていたことが確認されています。)

豊臣秀吉に従う

最前線で戦う

豊臣秀吉の家人となった山内一豊は、元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いからその麾下での戦いを始めます。

その後の天正元年(1573年)8月、越前朝倉家との戦いである刀禰坂の戦いでは、頬に矢が刺さる重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門と戦い、これを討ち取ったとされています(一豊公御武功附御伝記、もっとも勘右衛門の死は元亀元年とする説もあり真偽は不明)。

なお、このとき頬に刺さったとされる矢は、その後に矢を抜いた郎党である五藤為浄によって引き抜かれ、その子孫が家宝とした後、現在は高知県安芸市所在の歴史民俗資料館に所蔵されています。

結婚(1573年?)

そして、正確な時期は不明ですが、元亀の初めから天正元年(1573年)の間のいずれかの時期に見性院(若宮友興または遠藤盛数の娘といわれ、「千代」または「おまつ」とされることが多いが実名かどうかは不明。)を、正室として迎えています。

なお、天正8年(1580年)、正室・見性院との間に長女「与祢(およね)」を儲けたのですが、その後の2人は子宝に恵まれませんでした。

また、山内一豊は、側室を娶らなかったため、山内一豊の血を受け継ぐ子は残されませんでした。

近江国浅井郡唐国400石を領する(1573年)

最前線で武功を挙げていったことを評価され、山内一豊は、天正元年(1573年)、近江国浅井郡唐国(現在の滋賀県長浜市唐国町)で400石を与えられます。

その後も豊臣秀吉の出世に従って山内一豊の所領も加増されていき、天正3年(1577年)に播磨国有年(現在の兵庫県赤穂市有年)に700石、続けて同年、同地に2000石を与えられています。

秀吉麾下の将とし織田家の勢力拡大戦に付き従った山内一豊は、豊臣秀吉の中国攻め(毛利攻め)にも従軍し、その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨三木城包囲戦(三木合戦)、因幡鳥取城包囲戦(第二次鳥取城の戦い)、備中国高松城包囲殲滅(備中高松城水攻め)などにも参加しています。

京都馬揃えの際の逸話

天正9年(1581年)2月28日に行われた織田信長主催の京都御馬揃えの際、誇れる名馬を持っていなかった山内一豊に対し、妻である見性院が、嫁入りの持参金またはコツコツと蓄えた黄金で名馬(鏡栗毛)を買い与えて山内一豊に武士の面目を施させたという美談が語り継がれています。

もっとも、この話は、山内一豊死後1世紀近く経過した後に編纂された藩翰譜(新井白石)や鳩巣小説(室鳩巣)に記されたものであり、山内一豊存命時代の一次資料には全く記載がなく信憑性がありません。

話の辻褄が合わない上、そもそもこの時点で数千石の所領を有していた山内一豊が馬を買う金を工面できなかったは到底考えられません。

この話は、おそらく積年の見性院の内助を表す象徴的な話として創作されたものと考えられるのですが、余りにも有名な逸話ですので、一応紹介だけはしておきます。

本能寺の変後の活躍

本能寺の変により織田信長が横死した後は、謀反人明智光秀を討ち取った豊臣秀吉が調略・軍略を駆使して織田家筆頭の立場に駆け上がっていくのですが、それに伴ってその家臣団もまた出世を重ねていきます。

山内一豊もまた、天正10年(1582年)9月25日には播磨国印南郡(現在の兵庫県南部地域)に500石の加増を、また天正11年(1583年)8月1日には賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄を挙げたことなどが評価されて河内国禁野(現在の大阪府枚方市禁野本町近辺)に361石の加増を受けています。

そして、豊臣秀吉が、織田信孝や柴田勝家を下し、またその他の有力家臣を傘下に収めていたったことにより織田家筆頭の立場を確かなものにした後、最後の総決算として残る織田信長の二男である織田信雄に狙いを定めました。

これに対し、織田信雄が徳川家康に助けを求めたため、天正12年(1584年)、豊臣秀吉対織田信雄・徳川家康という構造が成立したのですが、反豊臣秀吉方として雑賀衆・長宗我部元親・佐々成政などが参加したことから、大規模な秀吉包囲網が結成されて大きな戦いに発展します(小牧・長久手の戦い)。

山内一豊は、この戦いにおいては直接的な武功を挙げたわけではないのですが、付城構築などを行い、徳川家康を牽制する作業に従事しました。

豊臣秀次の家老として

豊臣秀次の付家老となる

その後、織田信雄・徳川家康と痛み分け的な和睦を成立させた豊臣秀吉は、同戦の際に自らを苦戦させる原因となった秀吉包囲網の各個撃破を図ります。

そこで、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)3月に紀州征伐、同年6月に四国征伐、同年8月に富山の役をそれぞれ成功させ、秀吉包囲網を瓦解させました。

その後、豊臣秀吉は、再び徳川家康と対峙するために軍の再編成を行うこととし、家臣団の大掛かりな国替えを行いました。

このとき、小牧・長久手の戦いで敵対した徳川家康(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)と織田信雄(尾張・北伊勢)に近い南近江については、20万石を与えて甥である羽柴秀次を配しました。

また、新たに大領を与えられた羽柴秀次自身にこれらを単独で統治する能力はなく、また統治を行う実務担当者も不足していたため、山内一豊・田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らに合計23万石を与えて羽柴秀次の付家老とし、羽柴秀次を補佐させることとしたのです。

近江長浜2万石を領する(1585年9月)

山内一豊は、天正13年(1585年)6月2日、羽柴秀次を支えるためとして若狭国高浜城と1万9870石を与えられ大名となります。

もっとも、その直後である同年閏8月21日、羽柴秀次が安土を見下ろす八幡山城(現在の滋賀県近江八幡市)に居城を築いて入ることとなったため、同年9月には山内一豊もまた同地に近い近江国長浜2万石に移封され、長浜城主となりました。

そして、天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)4月までの間に正五位下対馬守に叙任されました(一豊公記、なお、豊臣家臣団の中で山内一豊と同格と考えられる人物の多くが当時従五位下に叙せられていることから山内一豊も正五位下ではなく従五位下の誤記とする説もあります。)。

徳川領侵攻作戦(1585年11月)

豊臣秀吉からの追加の人質要求に対し、徳川家中では、これを拒絶すべしとする武闘派(本多忠勝など)と、応じるべしとする穏健派(石川数正など)に分かれて議論が錯綜します。

小牧・長久手の戦いの際には勝利をした徳川方でしたが、このような劇的な勝利を繰り返すことは容易ではなく、徳川家は存亡の危機に立たされます。

このとき徳川家康は、豊臣秀吉の申し出を拒絶して敵対することを選択しました。

この決定に対し、徳川家滅亡の危険を察知した徳川家宿老であった石川数正が、天正13年(1585年)11月13日、徳川家から出奔して豊臣秀吉の下に下るという選択をしたため、その結果

徳川家の軍事機密が豊臣家に流出するという事態に発展します。

そして、石川数正を迎え入れて徳川軍の全容を理解した豊臣秀吉は、すぐさま得た情報を基に徳川領侵攻作戦を立案します。

その上で、豊臣秀吉は、徳川領侵攻準備のため、天正13年(1585年)11月18日、最前線基地となる大垣城に兵糧蔵を建築した上で、15万人分・5000俵とも言われる大量の兵糧の備蓄を開始します(一柳文書)。

そして、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)11月19日、ついに天正14年(1586年)正月から徳川領への侵攻を開始すると公言するに至りました。

この徳川領侵攻に際し、400万石程度と言われた豊臣領から召集した兵のみならず、毛利家・宇喜多家・制圧したばかりの四国勢に動員を命じ、小牧・長久手の戦いを遥かに超える兵の準備を進めていきました。

そして、豊臣秀吉は、これらの兵を兵站基地と定めた大垣城に向かわせ同城を中心として前線となる城に10万人とも言われる兵を集結させていったのですが、近江国・長浜2万石を預かっていた山内一豊もまた動員され、豊臣秀次に付き従って京に滞在することとなりました(そのため、城主不在となっていた長浜城は、正室・見性院と家老が留守を預かっていました。)。

天正大地震発生(1585年11月29日)

ところが、豊臣秀吉が、徳川領侵攻のため京を出発した後に大垣城を目指して東進し坂本城に入っていた天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする巨大地震(天正大地震)が発生します。

この大地震により徳川領侵攻作戦の最前線兵站基地としていた大垣城が倒壊・焼失し、そこに集めていた15万人分の兵糧などが失われた上、領内の復興の必要が生じるなど西日本を中心に勢力を強めていた豊臣家支配地域に特に甚大な被害をもたらし、もはや豊臣家側に徳川領侵攻作戦を行う余裕がなくなりました。

そこで、豊臣秀吉は、武力による徳川家康征伐を断念し、外交政策により徳川家康を臣従させる方法へと政策変更することとします。

そして、この地震による被害は、山内一豊が領していた近江国・長浜にも及びます。

長浜城は、琵琶湖水運を最大限活用するために織田信長配下時代の豊臣秀吉が織田信長の命を受けて築かれた湖城であり、その目的から水辺の軟弱地盤に基礎を固めて築かれた城であったため、当時の土木技術からすると相当無理のある城でした。

そのため、天正地震の際の激震により長浜城一帯の地盤が沈下し、城下町全体が崩壊するという壊滅的被害がもたらされました。

山内一豊とその正室・見性院との間には数え6歳であった「与祢(およね)」という女子がおり、天正地震発生当時、見性院と「およね」は長浜城内の御殿で就寝中だったところ、当該御殿も自身により崩壊してしまいました。

揺れが収まった後、家臣団が御殿に駆け付けてきて城主家族の救出活動が始まりました。

この救出活動の様子は、山内家家臣の功績を記録した「御家中名誉」に記載されています。

それによると、まず家老であった五藤市左衛門が真っ先に御殿にたどり着いたものの真っ暗で何も見えなかった。

そうしたところ、崩壊した御殿の上にいた見性院から「市左衛門か?」と声を掛けられ、「そうです」と返事をすると、「およね」はどうなったと聞かれた。

このとき、五藤市左衛門は、おそらく「およね」は無事ではないと考えたものの、混乱に乗じて夜盗などが襲ってくる可能性も考え、まずは見性院の安全を確保しなければならないと考え、「およね」は無事であると嘘をついてまずは見性院を安全な場所へと避難させた。

その後、五藤市左衛門が、崩れ落ちた「およね」の部屋に向かうと、大きな棟木が落ちているのが見え、その下で「およね」と乳母が息絶えていたのを発見したとされています。

以上の結果、天正地震により、山内一豊の一人娘が圧死するという悲劇があったことが明らかとなっています。

その他、山内家家臣である乾彦作をはじめとする数十人が死亡したとされています。

そして、この山内一豊と見性院との間の一人娘死亡という悲劇には後日談があります。

1000戸を超える規模の町であった長浜城城下町は、揺れによる倒壊とその後発生した火事により壊滅し(ルイスフロイス「日本史」)、城下町に住んでいた多くの人が死亡し、逃亡してしまいました。

この惨状を確認するために、見性院が城下町に赴いたところ、寒空の下で、藁編かごに短刀一口と共に入れられ捨てられた1人の男児を発見しました。

一人娘を失った見性院は、この捨て子を哀れに思い、城に連れ帰って「拾」と名付け、その養育をすることとしたのです。

捨て子を養育し始めた山内一豊と見性院は、だんだんこの男児に情がわいてきた結果、実子がいないためにこの子を養子として山内家を継がせようと考え始めます。

ところが、大名家である山内家を拾い子に継がせるなど家中が納得するはずがありません。

そこで、山内一豊と見性院は、この子を京・妙心寺に入れます。

その後、この子は、湘南宗化という高名な学問僧となり、後に土佐藩に移封することとなった山内家において学問を普及させ、土佐藩=学問藩と言われるほど同藩の学問レベルと引き上げた功労者となっています。

遠江国掛川5万1000石を領する(1590年9月)

天正17年(1589年)5月27日に豊臣秀吉の側室・茶々が豊臣秀吉待望の男の子(鶴松)を出産したことにより豊臣家の後継者が決定することとなり、また天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により日本全国の武力統一を完成させたことから、豊臣家では鶴松が日本全国を支配するための一大配置転換が行われます。

この時点での国内での要注意勢力は徳川家康でしたので、豊臣秀吉は、天正18年(1590年)の小田原征伐後に徳川家康を関東に移封させ、関東から大坂(鶴松の居城)までの道中に、徳川家康からの進軍を防ぐ盾とするための一族・譜代大名を配置していくこととしました。

この点、豊臣秀長時代から統治を続けていた大和大納言家はそのままでよかったのですが、同年、織田信雄を改易したことで尾張・伊勢北部5郡が空白地となっていました。

そこで、尾張・伊勢北部5郡を羽柴秀次に加増し、これを外壁と定め、その内側にある大和大納言の大和国を内壁とすることで二重の防衛網を構築することとしました。

そして、このときの羽柴秀次の加増に伴い、その宿老達も加増転封されることとなり、そのうちの1人である山内一豊は、天正18年(1590年)9月20日、5万1000石を与えられて遠江国掛川に加増転封となりました。

掛川に入った山内一豊は、掛川城修築と城下町建設を行い、また隣接する駿府城主中村一氏と共に洪水の多かった大井川の堤防建設や流路変更を進めるなど積極的な領内発展政策を進めていきました。

なお、山内一豊は、同年10月25日に遠江国周智郡一宮(現在の静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官に任命され、また文禄3年(1594年)9月21日に伊勢国鈴鹿郡(現在の三重県鈴鹿市)に1000石の加増を受けています。

秀次事件(1595年)

天正19年(1591年)12月27日、豊臣秀吉が、関白職を甥である豊臣秀次に譲って豊臣政権の後継者と定めて日本の政治を任せ、自身は唐入りに専念することとします。

そのため、直属の長が次期天下人となることとなった山内一豊にとっても明るい未来が見えてきました。

ところが、文禄2年(1593年)8月3日、豊臣秀吉の側室である茶々が男児を出産したことから暗雲が漂い始めます。

その後、豊臣秀吉は、次第に豊臣秀次を廃して拾に豊臣家の家督を相続させ方向に意思を固めて行ってしまいます。

そして、豊臣秀吉は、最終的には、文禄4年(1595年)6月20日、天皇の侍医であった曲直瀬道三が同時に病を患った後陽成天皇の診察より豊臣秀次の診察を優先した事件を理由として、同年7月3日に石田三成らを聚楽第に派遣して豊臣秀次を詰問し、この結果、豊臣秀次は高野山へ入ることとなりました(豊臣秀吉の命令だったのか、豊臣秀次の自発的行為だったのかは不明)。

そして、同年7月8日に高野山に向かった豊臣秀次は、同年7月15日に高野山で切腹してしまいました(豊臣秀吉の切腹命令だったのが、謀反を疑われた豊臣秀次が真実を訴えるために自発的に切腹したのかは不明)。

このとき、豊臣秀次の家老であった渡瀬繁詮は豊臣秀次をかばったために連座して切腹を命じられ、また同家老前野長康もまた中村一氏預かりとして蟄居させられた後切腹を命じられています。

これに対し、山内一豊は、中村一氏・堀尾吉晴らと共に豊臣秀次を取り調べる立場となったために連座を免れ、そればかりか豊臣秀次死後の文禄4年(1595年)7月15日には遠江国内にあった豊臣秀次の蔵入地から8000石の加増まで受けています。

徳川家康に与する

会津征伐

慶長3年(1598年)8月18日、天下人となった豊臣秀吉が死亡したことにより、一旦泰平の世となった世界が、織田信長・豊臣秀吉の下でひたすら耐え忍んでいた徳川家康が動き始めたことをきっかけとして動き始めます。

徳川家康は、各大名と縁戚関係を結ぶなどして味方となりそうな各大名の取り込みを始めます。

他方、敵対する大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていきます。徳川家康は、同じく豊臣政権では五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫りました。

これに対して、上杉方は、有名な「直江状」を送り付け、徳川家康の提案をはねつけます。

この結果、慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐が始まったのですが、山内一豊もまたこれに参加します。

石田三成挙兵(1600年7月)

会津に向かうため畿内を離れた徳川家康と入れ替わる形で、慶長5年(1600年)7月17日、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の要請を受けた毛利輝元が大坂に到着し、同年7月19日に大坂城に入ります。

また、毛利家の助力を得た石田三成は、三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(内府ちがいの条々)を記し、諸大名に発送します。

こうして、毛利輝元を総大将・石田三成を実質的指揮官とする対徳川家康連合軍が組織されます。

徳川家康は、同年7月24日、会津征伐に向かう途上で滞陣していた下野国・小山で石田三成挙兵の報を聞きます。

小山評定(1600年7月25日)

石田三成挙兵の報を聞いて、徳川家康は焦ります。

このとき徳川家康が引き連れていた諸将のほとんどが豊臣家譜代の武将であり、その妻子が大坂残されていたこともあって、これら諸将の去就が徳川家康の興亡の境目だったからです。

そこで、徳川家康は、同年7月25日、急遽本陣に諸将を招集して軍議を開き、諸将の意見を質します。

このとき、尾張国・清洲城主の福島正則が、石田三成憎しの感情から徳川家康の意に従う旨述べます。

この結果、多くの豊臣恩顧の大名がそれに倣ったのですが、これは豊臣恩顧の大名が徳川家康軍(東軍)として従軍することを意味するだけであり、裏切らないという保証は全くありません。

当然ですが、小山にいた徳川家康が、そこから江戸を経て上方に向かうためには、東海道・中山道を西進しなければならないため、その道中の豊臣恩顧の大名が途中で寝返ると、徳川家康軍(東軍)は孤立してしまう危険な状況下でした。

山内一豊が、自身が治める掛川から兵を集めて全て出陣させ、空になった掛川城を徳川家康に預けるとの発言をします。

この山内一豊の発言は、掛川城に残した自身と家臣団の妻子を徳川家康に人質として差し出すことを意味し、全面的に徳川家康に従う旨の宣言だったのです。

徳川家康に与することを決め、その後の実入りを最大限に得ようとした老獪な発言でした。

この結果、多くの豊臣譜代の諸将がこれに続くこととなり、豊臣譜代の諸将が徳川家康の幕下に組み込まれることとなったのです(藩翰譜、なお、この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾忠氏が発案したものなのですが、油断してうっかり洩らしたものを山内一豊が聞きつけ、あたかも自分の案として家康に申し出たものと言われています。)。

なお、小山評定の存在及びこれらの一連の流れについては疑問の余地があるものの、福島正則や山内一豊の行動により諸将が徳川家康の幕下に入ることとなったことについては間違いないものと考えられています。

そして、以上の軍議の結果、徳川家康率いる軍は、会津征伐を取りやめて石田三成を討伐するため西上することに決まります。

当然ですが、徳川家康は、危うい状況にあった自らの立場を保全してくれた山内一豊に感激し、後にこの行動を絶賛しています。

関ヶ原の戦い

その後、徳川家康の指揮下に入った各将が西に向かって進むこととなり、その道中で石田三成方に与した将兵と戦っていきます。

このとき、山内一豊もまた同様の行動をとっており、池田輝政・浅野幸長らと共に関ヶ原の戦い本戦の前哨戦となる河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を破るなどしています。

他方、山内一豊は、関ヶ原の戦い本戦では、南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当することとなったのですが、毛利軍先鋒の吉川広家隊が徳川家康方に内応していたために戦闘に発展することはなく、直接武功を挙げる機会は訪れませんでした。

土佐一国の国持大名となる

土佐一国への加増転封(1600年11月)

関ヶ原の戦い本戦では目立った活躍ができなかった山内一豊でしたが、小山評定における発言や東海道諸将の取りまとめを徳川家康に高く評価され、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)11月、土佐国一国9万8000石への加増転封を受けました。

また、徳川家康は、山内一豊に対し、血縁関係のない家臣に対して初めてとなる松平姓の名乗りを許しています。

土佐藩立藩(1601年)

土佐に加増転封となった山内一豊は、土佐国吾川郡浦(現在の高知市浦戸)に建つ浦戸城に入城し、土佐藩を立藩します。

もっとも、浦戸が拡張性に乏しいと判断した山内一豊は、関ヶ原の戦い後に浪人となった百々綱家を7000石で招聘して築城奉行に任じ、大高坂山に高知城の築城を始め(本丸・二の丸完成は慶長8年/1603年、全体の完成は慶長16年/1611年、なお4層6階の天守は転封前の居城であった掛川城を参考にしたと言われています)、またこれを拠点として城下町の整備を進めていきました。

長宗我部旧臣の粛清(1601年3月)

土佐国を領することとなった山内一豊でしたが、元々土佐国を治めていた長宗我部家の旧家臣団(一領具足など)がこれに反発し、旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど土佐国内で多くの紛争が起きました(浦戸一揆、滝山一揆など)。

困った山内一豊は、長宗我部家旧家臣団を一網打尽にする策を講じます。

山内一豊は、慶長6年(1601年)3月1日、新国主入城の祝賀行事と称し、土佐国桂浜に土佐国中から取手を招いて大規模な相撲興行を開催しました。

大規模祝賀行事となったこの相撲興行に領民のみならず長宗我部家旧家臣団もこぞって参加し、大変な盛り上がりを見せました。

ところが、山内一豊の目的は祝賀行事開催ではありませんでした。

山内一豊は、土佐国内で反発していた一領具足や庄屋などを事前に調査して把握しており、相撲興行を利用して集まった人々の中から対象者となっていた73人を捕まえ、種崎浜で磔にして粛清したのです。

そして、新たに土佐国を治めるための家臣団を上方などで募り、外来家臣団で要職を固めて土佐国支配を始めました。

なお、土佐藩では、山内家臣団・新たに採用された外来家臣団は上士と呼ばれたのに対し、旧長宗我部家家臣団は郷士と呼ばれて不当な差別を受けたとされています。

土佐藩の経済的困窮のきっかけをつくる

また、山内一豊は、四国で一番の大名の評価を得るため、江戸幕府に対して、隣国である阿波国蜂須賀家17万3000石(18万6000石とも)を越える20万2600石であると申告しました。

この申告石高は、表高といい、実際の石高である実高とは異なる形式的な石高です。

そのため、表高と実高は必ずしも整合しておらず、「表高〉実高」の藩もあれば、「表高〈実高」の藩もありました。

この点、江戸時代に入ると、大名達は、その石高や格式に応じて江戸幕府からいわゆる天下普請(土木工事)・手伝い普請(各地の警護・軍役・朝廷の接待など)などを求められることとなったのですが、これらは表高(形式上の石高)によってその程度が決められました。

この結果、土佐国が長宗我部時代の2倍以上の石高となった申告してしまったため、江戸時代を通じて身の丈を超えた負担を課されることとなり、経済的に常に苦しい状態となる結果をもたらしてしまいました。

なお、このように経済的無理を重ねたにもかかわらず、土佐藩士は、江戸時代を通じて関ヶ原の戦い本戦で武功を挙げていないにもかかわらず大領を得ていることを他藩士からからかわれ続けることとなり、この屈辱が明治維新の際に土佐藩が薩長側に与することとなった理由の1つとなったと言われています。

山内一豊の最期

土佐守叙任(1603年3月25日)

その後、山内一豊は、慶長8年(1603年)3月25日、豊臣姓を下賜されて従四位下に昇叙し、土佐守に任じられます(徳川実紀)。

隠居(1605年)

家を継ぐ実施に恵まれなかった山内一豊は、慶長8年(1603年)、同母弟である山内康豊の長男・山本忠義(文禄元年/1592年生、徳川秀忠に偏諱を与えられて山内康豊から改名)を養嗣子に貰い受けます。

そして、山内一豊は、慶長10年(1605年)に隠居して山内康豊に家督相続します。

死去(1605年9月20日)

山内一豊は、慶長10年(1605年)9月20日、高知城にて病死します。享年は61歳でした。

 

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