【豊臣政権による中央集権目的国替え】中国国分・四国国分後の豊臣系大名の再配置

織田信長の死後に柴田勝家を討って織田家筆頭宿老となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、さらにその後は織田家への下剋上を成功させて天下人の階段を駆け上っていきます。

小牧長久手の戦いが終結した天正12年(1584年)頃になると、羽柴秀吉が事実上の天下人に位置付けられるようになり、もはや単独でこれに対抗することができる勢力はいなくなるほどその勢力は大きくなりました(事実上の羽柴政権樹立)。

日本国内最大勢力となった羽柴秀吉は、摂津国大坂を本拠と定めた上でその隣国である河内国・和泉国を直轄地とし、その周囲に一門・譜代を配置することで中央集権化を図り、政権の盤石化を進めていきました。

本稿では、この豊臣秀吉による中央集権化のための国替えについて、簡単に説明していきたいと思います。

小牧長久手の戦い前の勢力状況

織田家家臣時代の羽柴領

山崎の戦い後に行われた清洲会議によりそれまでの播磨国・但馬国に加えて河内国と山城国が加増された羽柴秀吉は、4カ国を治める大大名となり、柴田勝家との戦いを見据えて山城国・山崎城を居城とします。

その後、天正11年(1583年)4月に柴田勝家と織田信孝を滅ぼして織田筆頭家臣の地位を得た羽柴秀吉は、織田家に対する下剋上を始めます。

羽柴秀吉が摂津国大坂を本拠とする

このときの羽柴秀吉の構想は、摂津国の石山本願寺跡地を本拠地とし、同地を中心とする羽柴家中央集権政治体制を構築することでした。

そこで、羽柴秀吉は、天正 11年(1583年)5月、織田政権下で摂津国を領してきた池田恒興を織田信孝の旧領である美濃国に加増転封させることにより摂津国を接収します。

そして、その直後から、石山本拠地跡地に羽柴家の本拠地とするための巨大城郭(大坂城)の築城を始めます。

石山本願寺跡地は、湿地帯と淀川水系の上にそびえる上町台地の北端にある極めて高い防御力を誇る天然の要害であっただけでなく、京と大阪を牛耳る経済の要衝に位置するのに加え、北・東・西を川と湿地で守られるという防衛上の優位性を持つ絶好の立地で、まさに天下人となるべき人物の居城として相応しい場所でした。

なお、羽柴秀吉は、本拠地と定めた摂津国内旧勢力を排斥するため、天正 14年(1586年)10月に川辺郡の塩川国満を滅ぼし、また天正15年(1587年)に高槻の高山右近を播磨国明石に、同年8月にいったん能勢郡に入れた脇坂安治を大和国高取に移しています。

その上で、河内国・和泉国の大半を羽柴直轄領としたため、摂津国と合わせて畿内65万石が羽柴家本領となりました(その他、全国各地に直轄領あり)。

その上で全国の金山・銀山・有力貿易港を羽柴家直轄領として代官を派遣することで財政基盤を整えると共に地方有力大名を牽制することとしました。

この戦略は、旧主である織田信長や弟である羽柴秀長が提唱していた重商政策であり、直轄地から莫大な金銭収入が上がってきますので、羽柴秀吉存命中は極めて効率的であり、羽柴家の財政は極めて裕福なものとなりました。

他方、直轄地が少なかった上、さらにそれが全国各地に分散していたため本拠地に動員できる直属の兵力が限定され、さらにそれが全国各地に点在して集めることが困難であるという問題点を残していました(これが、秀吉死後に問題となってきます)。

中国国分

摂津国を本拠地と定めた羽柴秀吉は、続けて、西側の安全を固めるため(実際には、本能寺の変の後から交渉を始めていました)、毛利家・宇喜多家との国家画定を行います(中国国分)。

(1)毛利輝元領

天正11年(1583年)から行われた領土配分・国境線画定交渉により、最終的に合意に至ります(中国国分)。

この中国国分により、毛利家は、羽柴秀吉に臣従することで割譲地を東伯耆3郡・東備中3郡・美作国・備前国児島郡に留めることに成功し、伯耆国中央〜備中国高梁川が毛利家との国境として画定した結果として以西の9カ国112万石(長門・周防・石見・安芸・出雲・隠岐・備後・備中西部・伯耆西部)が毛利領と定まりました(この他に四国と九州の安国寺・小早川領あり)。

この結果、中国国分後も毛利家は中国地方の巨大勢力として君臨し続けました。

(2)宇喜多秀家領

毛利家を臣従させた羽柴秀吉でしたが、中国地方9カ国112万石もの大領を有する超大国の存在は懸念材料でしかありません。

しかも、羽柴家の本拠地は畿内にありますので、仮に毛利家が離反した場合、直ちにこれに対応することは困難です。

そこで、羽柴秀吉は、羽柴領と毛利領との間に緩衝地帯を作ろうと考え、国分により毛利家が手放した領土のほとんどを宇喜多秀家に与えて宇喜多家を対毛利の最前線とすることとしました。

その結果、宇喜多家に、毛利家が手放した備前国児島郡、美作国(19万石)、備中国3郡(賀陽郡・都宇郡・窪屋郡)が与えられ、またその後に播磨国3郡も追加されたことから、宇喜多領は、それまで領有していた備前国(22万石)の大部分と合わせて合計57万4000石を領する大大名となりました(大名領としては徳川家・毛利家・上杉家・前田家・伊達家に次ぐ全国6番目の石高)。

(3)更なる以西

毛利家を臣従させたものの、まだ四国には長宗我部家・九州には島津家・大友家という大国が残っていました。

小牧長久手の戦い直後の勢力状況

織田信雄領

中国国分により一応の西側の安全を得た羽柴秀吉は、織田家からの下剋上を図るべく、天正12年(1584年)3月から、実質的な織田家当主となっていた織田信雄とそれに与する徳川家康との戦いを始めます(小牧・長久手の戦い)。

半年以上にも及んだこの戦いは、戦術的に見ると織田・徳川連合軍が勝利したのですが、最終的に織田信雄が羽柴秀吉に下るという結果で決着することとなったため、美濃・伊賀・伊勢南部における織田信雄の影響力を排除することに成功するという意味で羽柴秀吉の戦略的勝利となりました。

前記のとおり、織田信雄が、小牧長久手の戦いの講和として、事実上の織田家当主として認められる代償として事実上羽柴秀吉に臣従したことにより、それまで領していた113万9000石(尾張国52万1000石・美濃国石津郡2万7000石・伊勢国9郡46万6000石・伊賀国3郡8万4000石・三河国碧海郡半分4万1000石)から、伊勢国4郡・伊賀国3郡・三河国碧海郡半分が羽柴秀吉に召し上げられてしまいました。

その結果、戦後、尾張国・美濃国石津郡・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・鈴鹿)の計78万3000石に減じられました。

もっとも、織田信雄は、いまだ事実上の織田家当主として東海地方の大勢力としてあり続けました。

徳川家康との対峙

織田信雄が羽柴秀吉に与したことにより、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国という5カ国を治める大大名として東海地方に鎮座していた徳川家康が羽柴秀吉と接地することとなりました。

また、徳川家康が治める東海の先には、関東には北条家・越後には上杉家・奥州には伊達家という超大国が残っていました。

四国国分

以上の状況下において、羽柴秀吉は臣従したばかりの毛利家の軍事力をも利用して四国征伐を開始し、天正13年(1585年)8月6日、長宗我部元親の降伏をもってこれを達成します。

四国征伐を成功させた羽柴秀吉は、その後の評定によって、まずは四国における大掛かりな国替えを行います。

① 土佐国

まず、最終的に羽柴秀吉に臣従する決断をした長宗我部元親に対しては、土佐一国安堵としました。

他方、長宗我部元親が概ね平定を終えていた伊予国・阿波国・讃岐国については、羽柴秀吉が召し上げ、これを羽柴傘下の大名に分配することとなりました。

② 伊予国(毛利家麾下)

伊予国については、毛利氏がかねてより領有を主張していたこともあり、四国征伐に大軍を動員した毛利家に対する論功として、伊予国には毛利家麾下の小早川隆景・安国寺恵瓊・来島通総らが封じられました。

③ 阿波国

阿波国については、創成期からの重臣であり、当時の筆頭宿老であった蜂須賀小六正勝に与えられる予定だったのですが、これを固辞されたため、実際にはその大部分が蜂須賀家政に与えられ、残りを赤松則房が領しました。

④ 讃岐国

讃岐国については、その大部分が古くから羽柴家を支えた仙石秀久に与えられ、その他を十河存保に与えられました。

⑤ 淡路国

淡路国については、古くから羽柴家を支えた脇坂安治と加藤嘉明に与えられました。

以上の結果、四国は、羽柴家に下って土佐一国を維持した長宗我部家以外について、羽柴家麾下の大名家が配されることとなりました。

この結果、羽柴家としては、従前の中国地方に加え、四国の安全までもが確保されるに至りました。

畿内を一門で固める

以上のとおり、畿内を治める羽柴秀吉が四国を征服した後には、西側は羽柴家に下った毛利家が中国地方、羽柴系大名が治める四国が存することとなり、九州に大友家・島津家が残るものの羽柴家の西側の安全が確保されます。

他方、また、東側には、旧主家の織田信雄・その先に徳川・上杉、さらにその先には東国(北条など)・東北(伊達など)が存する状況となり、まだまだ羽柴家が安泰とは言い切れません。

そこで、羽柴秀吉は、摂津国に羽柴家の本拠地とし、その周囲を一門・譜代・系列大名で固めることとします。

羽柴秀長領(一門)

天正13年(1585年)3月から始まった紀州征伐の論功により紀伊国・和泉国2国など計64万石余の所領を与えられていた羽柴秀長でしたが、その後の四国征伐の論功により、同年閏8月、大和国を加増されて73万石を擁する大大名となりました。

さらに、この後、天正17年(1589年)に伊賀国10万石を治めていた筒井定次が与力として編入されたことにより、それまでの所領とあわせて計約83万石を擁するに至りました。

① 大和国

伊藤義之→加藤光泰(宇陀松山城・秋山城)・脇坂安治→木下利久(高取城)など

② 和泉国

小出秀政(岸和田城)など

③ 紀伊国

桑山重晴和歌山城)・青木紀伊守(羽柴秀長のいとこ・入山城)・杉山無心(芳養城)など

④ 伊賀国(天正17年12月編入)

筒井定次(上野城)など

羽柴秀次領(一門)

さらに、天正13年(1585年)閏8月、甥である羽柴秀次に対し、本人領として近江国蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡20万石が与えられ、安土城を廃して、蒲生郡八幡山(現在の滋賀県近江八幡市)に八幡山城が築かれました。

また、羽柴秀次には、以下の付家老等が付され、これらを含めた支配領が合計23万石とされたことから、羽柴秀次がこれらを足した計43万石の大大名となって近江国の大部分押さえることとなりました。

① 一柳直末(美濃国大垣城2万5000石)

② 中村一氏(近江国水口岡山城6万石)

③ 堀尾吉晴(近江国佐和山城4万石)

④ 山内一豊(近江国長浜城2万石)

⑤ 田中吉政(筆頭家老扱いであるが、宮部家より5000石を与えられて八幡山城に常駐)

その他一門領

① 浅野長政領

羽柴秀吉は、天正14年(1586年)、自身の正室・北政所ねねの養父であり近江国下甲賀及び大津2万石を領する浅野長政に対し、坂本城を廃城して大津に新たな城を築くよう命じます(大津城)。

その上で、天正15年(1587年)2月までに浅野長政を大津城に入れ、東海道の京東側の守りを担当させました。

② 木下家定領

畿内に移ったことにより統治者のいなくなった羽柴秀長の旧領が譜代大名に引き継がれ、播磨国は正室・北の政所の兄である木下家定・延重、家定の子延俊の3名を配置し、但馬国は羽柴秀次の養父であった宮部継潤に任されました。

国替え完成

徳川家康討伐断念(1585年11月)

小牧・長久手の戦い後も勢力を拡大し続けた羽柴秀吉は、天正13年(1585年)3月に紀州征伐・同年6月に四国征伐・同年8月に富山の役を成功させた後、同年11月、満を持して天下統一事業の障害となる徳川家康を討伐するための作戦行動を進めていきます。

そして、羽柴秀吉は、徳川領侵攻準備のため、同年11月18日、最前線基地となる大垣城に兵糧蔵を建築した上で15万人分・5000俵とも言われる大量の兵糧の備蓄を開始し(一柳文書)、同年11月19日、徳川家康討伐を宣言します。

その上で、羽柴秀吉が、徳川領侵攻についての指揮を自らとることを決め、京から出陣してまずは前線基地となっていた大垣城を目指して東進していきました。

ところが、東進していた羽柴秀吉が、道中の坂本城に入っていた際にまさかの事態が起こります。

同年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする巨大内陸地震(天正地震)が発生したのです。

この天正地震によって兵站基地としていた大垣城が倒壊・焼失し、そこに集めていた15万人分の兵糧などが失われました。

また、対徳川最前線となる近畿・中部地方にある豊臣系大名の領地に甚大な被害が出たことがわかり、もはや徳川家康征伐を行う余裕はなくなります。

そこで、羽柴秀吉は、武力による徳川家康征伐を断念し、外交政策により徳川家康を臣従させる方法へと政策変更することとし、織田信雄を三河国に派遣して徳川家康と面談させて交渉を開始し、天正14年(1586年)2月8日、羽柴秀吉が徳川家康討伐中止を宣言することで和睦の動きがまとまり始めます。なお、その後、同年10月に徳川家康が豊臣秀吉に臣従することで正式に討伐計画が消滅しています。

中央集権化の完成

以上の経過を経て、羽柴家は、畿内を中心とした中央政権国家としての領国体制を固めていきました。

そして、天正13年(1585年)に関白に任ぜられた羽柴秀吉は、翌天正14年(1586年)9月9日に正親町天皇から豊臣氏を賜り豊臣秀吉と名乗りを改めました。

さらに、この後に京における政庁・居館目的で聚楽第の建築を開始して天正15年(1587年)9月にこれを完成させ、九州征伐からの帰還後に同城に移りました(なお、聚楽第完成前の豊臣秀吉は京拠点は妙顕寺城でした。)。

徳川家康の関東移封(1590年7月)

小田原征伐の結果、天正18年(1590年)7月5日に後北条氏が降伏し、後北条氏及びその幕下の諸将が治めていた関八州が権力の空白地帯となります。

ここで、豊臣秀吉は、徳川家康に対し、徳川家康が治める5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を召し上げ、新たに後北条氏の旧領であった関八州(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部)を与えることで関東に移封してしまいます。

その上で、豊臣秀吉は、徳川家康が謀反を起こして畿内に攻め入る場合の経路となりうる旧領の5カ国に豊臣系大名を配置し、豊臣政権をさらに盤石なものに仕上げました。

次世代への引き継ぎ志向

天下統一事業を進めていた豊臣秀吉は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により日本全国の武力統一を完成させます。

その後、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月27日、関白職を、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の長男である内大臣・豊臣秀次に譲ることにより日本の政治を任せ、自身は唐入りに専念することとなり、これをきっかけとして政権の崩壊が始まっていくのですが、話が長くなりますので、以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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