【名和長年】隠岐島脱出直後の後醍醐天皇を支えた建武政権樹立の功労者

名和長年(なわながとし)という名の武将をご存じですか。

名和長年は、伯耆国名和湊付近で力を持っていた豪族で、隠岐島を脱出してきた後醍醐天皇を助けた建武政権樹立の礎となった「三木一草」の1人です。

前半生の記録はほとんど残っておらず、後醍醐天皇を助けた元弘3年(1333年)から、討死をした延元元年/建武3年(1336年)6月までのわずか3年間だけ歴史の表舞台に登場し、後世に名を残した武将です。 “【名和長年】隠岐島脱出直後の後醍醐天皇を支えた建武政権樹立の功労者” の続きを読む

【鳥羽城】九鬼水軍の本拠である志摩国の海城

鳥羽城(とばじょう)は、戦国時代末期に志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽三丁目)に築かれた九鬼水軍の本拠地となった海城です。

水軍の本拠地だけあって四方を水に囲まれ、大手門も海に向かう水門だったという極めて珍しい構造でした。

その構造か、「鳥羽の浮城」と呼ばれたり、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、「二色城」や「錦城」と呼ばれたりもします。

現在は、宅地造成のために周囲が埋め立てられてしまったため、往時の姿を見ることはできませんが、過去に思いを巡らしながら観光するととても興味深い城です。 “【鳥羽城】九鬼水軍の本拠である志摩国の海城” の続きを読む

【第38代・天智天皇(中大兄皇子)】政敵を次々に粛清した謀略家

飛鳥時代を代表する天皇といって真っ先に名が挙がるのは天智天皇(中大兄皇子)だと思います。

皇子時代に天皇の面前で蘇我入鹿を暗殺するという大胆なクーデターを成功させたり、対抗勢力を闇に葬っていったりするなど、権謀術数を駆使して権力の頂点を維持し続けた人物です。

天皇在位中には、唐・新羅連合軍に敗退して国家存亡の危機にまで陥りながら、巧みにこれを回避するなど、その経歴を挙げだすと大河ドラマが完成するほどのボリュームがあります。

本稿では、そんな天智天皇(中大兄皇子)の人生について、できる限り簡単に紹介していきたいと思います。 “【第38代・天智天皇(中大兄皇子)】政敵を次々に粛清した謀略家” の続きを読む

【尼崎城】徳川大坂城支城群の西側最終防衛拠点

尼崎城の存在をご存じですか。

現存していないこと、豊臣家が滅亡した後に築かれたために戦場となったことがないことなどから知名度がイマイチの感がありますが、徳川大坂城の支城としてその西側の最後の防衛拠点であり、尼崎藩の石高にそぐわない防御力を誇る城郭として君臨していた巨城です。

近年外観復興天守が再建され、これが阪神尼崎駅から見えるようになりましたので興味を惹かれた方もおられるのではないでしょうか(もっとも、この外観復興天守は、元々の天守跡地ではなく西三の丸跡地に建てられています。)。

尼崎城は、江戸幕府による大坂城の西側の最終防衛拠点という超重要な城であり本来は注目を浴びてしかるべき城であり、この知名度の低さは本意ではありませんので本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。 “【尼崎城】徳川大坂城支城群の西側最終防衛拠点” の続きを読む

【藤原純友の乱】藤原北家出身の元貴族が海賊となって起こした瀬戸内反乱

藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)は、平安時代中期に瀬戸内で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に関東で発生した平将門の乱と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。

藤原純友は、平安時代中期に権力を独占した藤原北家出身であり、中央貴族であった藤原純友が、海賊の頭目となって瀬戸内海で海賊行為を繰り返すに至ったということが同時の政治の不安定さを物語っています。 “【藤原純友の乱】藤原北家出身の元貴族が海賊となって起こした瀬戸内反乱” の続きを読む

【白村江の戦い】百済・大和朝廷軍連合軍が大敗し百済が滅亡した戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい/はくすきのえのたたかい)は、天智天皇2年(663年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で起った百済遺臣・倭国軍(大和朝廷軍)と唐・新羅連合軍との間の戦いです。

朝鮮半島について見ると、復興百済王朝が完全滅亡し、新羅による朝鮮半島統一に繋がる一戦です。

他方、国を挙げての戦いに挑み大敗した大和朝廷軍にとっては、国内政治と国防のシステムの改変を強いられることとなった重要な一戦でもあります。

以下、白村江の戦いについて、戦いに至る経緯から見ていきましょう。 “【白村江の戦い】百済・大和朝廷軍連合軍が大敗し百済が滅亡した戦い” の続きを読む

【第71代・後三条天皇】摂関政治終焉のきっかけとなった天皇

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は、寛徳2年(1045年)1月16日に即位した第71代天皇です。

宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であり、摂関家の絶大な政治権力の制限に尽力し、摂関政治を終わらせるきっかけを作った日本政治史を語るうえで絶対に外せない超重要人物です。 “【第71代・後三条天皇】摂関政治終焉のきっかけとなった天皇” の続きを読む

【第72代・白河天皇】藤原摂関家を排斥し院政を始めた治天の君

白河天皇(しらかわてんのう)/・白河上皇・白河法皇は、藤原摂関政治を終わらせ、院政を始めた人物として有名です。

とはいっても、実際にどういう経緯で院政を始めることとなったのかを詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。

本稿では、朝廷内でのドロドロの権力争いを勝ち抜き、「賀茂河の水、双六の賽、山法師」以外は思い通りになるという天下三不如意の逸話を残すほどの絶対的権力を獲得するに至った経緯について、順に説明したいと思います。 “【第72代・白河天皇】藤原摂関家を排斥し院政を始めた治天の君” の続きを読む

【六勝寺】院政の舞台・白河に創建された6つの御願寺

六勝寺(ろくしょうじ、りくしょうじ)とは、当時の政治の中心地であった鴨東白河の地に白河天皇以降5代の天皇が建立した5つの天皇御願寺と、1つの女院御願寺をあわせた6つの寺の総称です。

6つの寺の法号にいずれも「勝」の字を持つことから、まとめて六勝寺と呼ばれています。

院政の舞台となった京の白河の地にある院政期を象徴する寺院でしたが、室町期以降その維持管理が停滞し、応仁の乱以降にほぼ廃絶しています。

現在では、石碑や町名などに面影を残すのみであり、寺域や伽藍配置などにおいて不明な点は多いため、発掘による考古学的調査および復元作業が進められています。

本稿では、六勝寺についてその建立時の政治情勢を踏まえつつ現在までに明らかとなっている点を基に説明したいと思います。 “【六勝寺】院政の舞台・白河に創建された6つの御願寺” の続きを読む

【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派とに分かれて争った政変です。

誤りをおそれず一言でいうと,保元の乱は、鳥羽上皇の死亡により空席となった治天の君の席を巡る崇徳上皇と後白河天皇との争いです。

院政を行うものを決めるという天皇家の争いに藤原摂関家が肩入れしたことにより複雑化し、ここに武士が参戦したことにより武力による代理戦争に発展します。

結果としては、後白河天皇派が勝利し、崇徳上皇が讃岐国に配流されて終わったのですが、藤原摂関家から謀反人を出したとしてその地位が地に落ちたこと、朝廷の政争を武力で解決したことで武士の存在感が増したことなどの結果をもたらし、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの1つとなった大事件です。

本稿では、そんな保元の乱について、発生に至る経緯から見て行きたいと思います。 “【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱” の続きを読む