【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、元治元年(1864年)6月5日、新撰組が、京の三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃し、一網打尽にして京の放火計画を未然に防いだことにより新撰組の名を世間に知らしめた事件です。

この事件により多くの維新志士が失われたことで明治維新が遅れたとも、逆に明治維新を早めたとも言われる歴史の転換点となった事件でもあります。 “【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件” の続きを読む

【朝比奈義秀】和田合戦で最も活躍した和田義盛の三男

朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、鎌倉幕府の重臣・和田義盛の三男です。

そして、北条家を礼賛するために記されたはずの吾妻鏡に、父・和田義盛が北条義時打倒のために立ち上がった和田合戦の際に和田軍の中で最も活躍した武将として詳細にその武勇が記されるという当代随一の猛将でした。

鮫3匹を水中で捕まえたとか、朝夷奈切通(朝比奈切通し)を太刀で一夜で切り開いたなどというおよそ考えられない伝説を残し、後に狂言や歌舞伎ではさらにその剛勇ぶりが誇張されるに至っています。 “【朝比奈義秀】和田合戦で最も活躍した和田義盛の三男” の続きを読む

【近衛前久】全国を流浪した破天荒関白

近衛前久(近衞前久・このえさきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した公卿です。

関白宣下を受けた上藤氏長者となるなど朝廷内上り詰めたにも関わらず、上杉謙信や織田信長に接近するなどして武士の世界にも口を出して暗躍していきます。

特に織田信長とは鷹狩という共通の趣味から意気投合し、織田信長のために毛利攻めの後方支援や石山合戦の和議を取り付けるなど、外交面でその能力を発揮します。

もっとも、本能寺の変で織田信長が横死した後は豊臣秀吉に煙たがられて勢いを失っています。

本稿では、破天荒人生を歩んだ近衛前久の人生について説明死していきたいと思います。 “【近衛前久】全国を流浪した破天荒関白” の続きを読む

【赤穂城(日本100名城60番)】元和偃武後に築かれた赤穂浪士の城

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある変形輪郭式の海岸平城です。

元和偃武以降に築城された数少ない城であり、当時の最先端軍学に基づきながら強く合戦を意識せず築かれた城であり、江戸時代を通じて赤穂藩(加里屋藩)の藩庁として機能し明治維新を迎えています。 “【赤穂城(日本100名城60番)】元和偃武後に築かれた赤穂浪士の城” の続きを読む

【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで

京で室町幕府第13代将軍であった足利義輝が暗殺され(永禄の変)、その後、その弟であった足利義昭が織田信長の協力により上洛し征夷大将軍に就任したことはあまりにも有名です。

この結論はあまりにも有名なのですが、他方で、この上洛に至るまでの足利義昭の動向についてはあまり知られていないと思います。

そこで、本稿では、足利義輝が暗殺された後から征夷大将軍に就任するまでの足利義昭の足跡について説明していきたいと思います。 “【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで” の続きを読む

【上月城】尼子家再興の夢が途絶えた西播磨の山城

上月城(こうづきじょう)は、播磨国周辺に大勢力を誇った赤松家の支城として兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)に築かれた山城です。

戦国時代末期には織田・毛利の戦いの最前線となって2度に亘る大きな戦いが行われ、中国地方に一大勢力を築いた尼子家が再興に失敗して滅亡に至った城でもあります。 “【上月城】尼子家再興の夢が途絶えた西播磨の山城” の続きを読む

【御着城】播磨三大城の1つである小寺家の居城

御着城(ごちゃくじょう)は、播磨守であった赤松家の一族として力を持っていた小寺家の居城として築かれた城です。

戦国期には、別所家の三木城、三木家の英賀城とあわせ、播磨三大城と称された堅城であり、若き日の黒田官兵衛(当時は小寺孝高と名乗っていました。)が家老として在城していたことでも知られ、織田信長の中国征伐軍として西進してきた羽柴秀吉に抵抗して落城し廃城に至っています。

現在は、ほぼ遺構が残されていませんが、土塁や堀の遺構を偲び、往時に思いをはせながら観光してみると楽しいかもしれませんので、観光の際の参考にしていただければ幸いです。

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【篠山城(日本100名城57番)】大坂城の北西を封じるための城

篠山城(ささやまじょう)は、徳川家康の天下普請により、篠山盆地の中央部にある笹山とよばれる小丘陵(現在の兵庫県丹波篠山市北新町)に築かれた平山城です。

関ヶ原の戦いの後も強い影響力を残す豊臣秀頼と大坂城を牽制するため、山陰道上の要衝地とするため小藩の城としてはあり得ない規模と防御力を持つよう築かれました。

天下泰平の世となった後は篠山藩の藩庁となり明治を迎えています。 “【篠山城(日本100名城57番)】大坂城の北西を封じるための城” の続きを読む

【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。

戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。

龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。

本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦” の続きを読む

【二階堂行政】実務能力の高さにより政所別当となった貴族

二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、下級貴族でありながら、源頼朝は、母方が熱田大宮司家の出であった源頼朝に請われて鎌倉幕府政治に参画した人物です。

その実務能力の高さから源頼朝に重用され、ついには政所別当職にまで出世しています。

知名度はイマイチですが、源頼朝の死後に第2代鎌倉殿・源頼家の訴訟権限を制限するために作られた十三人の合議制にもメンバーの1人として参加するなど、初期の鎌倉幕府を支えた主要人物となっています。 “【二階堂行政】実務能力の高さにより政所別当となった貴族” の続きを読む