【関ヶ原の戦い・当初布陣】直前に決戦場所が変更された天下分け目の合戦

天下分け目の戦いとして有名な関ヶ原の戦いですが、実は前日までは戦いの場所として予定されていたのが大垣城であり、約1ヶ月前に西軍諸将が入城し、決戦までの間にその他の西軍諸将や東軍諸将もまた大垣城に向かっていました。

ところが、決戦前日に大垣城に入っていた西軍諸将が城を出て関ヶ原に布陣してしまったため、急遽決戦の場が関ヶ原に移ることとなります。

本稿では、関ヶ原の戦いに至る経緯、合戦当初の布陣に加え、なぜこのような布陣となったのかについて説明したいと思います。 “【関ヶ原の戦い・当初布陣】直前に決戦場所が変更された天下分け目の合戦” の続きを読む

【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将

鳥居元忠(とりいもとただ)は、人質時代から徳川家康に付き従った古参家臣です。

数々の武功を挙げて徳川家康の天下取りに尽力した武将なのですが、何より関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで西軍の足止めをするために玉砕したことで有名です。

本稿では、この武勲から三河武士の鑑とまで言われた鳥居元忠の生涯を振り返って行きたいと思います。 “【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将” の続きを読む

【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将

夏目広次(なつめひろつぐ)は、古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆です。

「寛政重修諸家譜」の記載から一般的には「夏目吉信」の名で知られているのですが、一時資料ではその名乗りは確認されていないため本稿では文書上記された「夏目広次」の名で統一して紹介します。

夏目広次は、三河一向一揆の際に徳川家康から離反して一揆方に与するも、後に許されて徳川家臣団に復帰します。

そのため、夏目広次は、以降はこの恩に報いるために徳川家康への忠義を貫き、三方ヶ原の戦いの際には徳川家康の身代わりとなって壮絶な討ち死にを果たしています。 “【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将” の続きを読む

【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣

平岩親吉(ひらいわちかよし)は、人質時代から徳川家康に付き従った最古参譜代家臣の1人であり、江戸幕府開幕の功労者である徳川十六神将の1人にも数えられる忠臣です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍して激しい戦いを繰り広げたのに加え、その清廉潔白な人柄から、徳川家康の嫡男・松平信康の傅役、九男・徳川義直の後見人にそれぞれ任じられています。 “【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣” の続きを読む

【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将

大久保忠世(おおくぼただよ)は、安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えたいわゆる安祥譜代7家の1家に生まれた徳川家康を幼い頃から支えた古参家臣の1人です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍し、激しい戦いを繰り広げた武田家との最前線となる二俣城を任され、徳川家康が関東に移封された後には、関東への東海道からの出入口となる小田原を任されるほどの強い信頼を得ており、後世には徳川十六神将の1人に数えられる徳川家康臣下の猛将です。 “【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将” の続きを読む

【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の参謀であり、江戸幕府の開幕の功労者です。

若い頃には三河一向一揆に参加して徳川家康に敵対し、その後は徳川家を出奔して全国を放浪した後に帰参を許されるという変わった経歴を持っています。

本多正信は、この放浪経歴に裏付けられた経験と人脈を駆使し、武断派の多い徳川家臣団の中で、数少ない官僚型家臣として徳川家康を支え、徳川家康・徳川秀忠という2代に亘る将軍の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

また、何を考えているかわからない狸親父と言われる徳川家康から、友と言われるほどの信頼を勝ち得た数少ない人物でもあります。 “【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀” の続きを読む

【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)

渡辺守綱(わたなべもりつな)は、安祥松平家に仕える古参の家に生まれ、槍働きで徳川家康の天下統一を支えた猛将です。

人質時代から徳川家康に付き従い、三河一向一揆の際に一旦は袂を分かったものの再び徳川家康の下に帰参し、徳川家の主たる戦いのほとんどに参戦して武功を挙げ続け、服部半蔵と並び称されるにまでに至ります。

晩年は、その経験を買われて尾張藩付家老とされ、三河国寺部城主に入って徳川義直を支えました。

後世には、徳川十六神将の一人にも挙げられています。 “【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)” の続きを読む

【八王子城の戦い】小田原征伐の際の豊臣北方軍最大の激戦

八王子城の戦いは、豊臣秀吉の小田原征伐の一環として行われた戦いであり、上野国に入った豊臣北方軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら)と、これを迎え討った八王子城兵との戦いです。

八王子城は、北条家の築城技術を結集して築かれた屈指の山城でしたが、城主であった北条氏照が城兵を率いて小田原城に入っていたために婦女子で防衛していたこともあり僅か1日で落城し、豊臣軍の勝利で終わっています。

小田原城の指揮を下げるために城兵が皆殺しにされ、現在の八王子城を心霊スポットとする伝説が生まれるほどの凄惨な殺戮劇が繰り広げられた戦いとしても有名です。

“【八王子城の戦い】小田原征伐の際の豊臣北方軍最大の激戦” の続きを読む

【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王

榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる、徳川家康の側近中の側近です。

戦いで抜群の戦功を挙げているのみならず、大樹寺修業時代に学んだ幅広い知識・教養を用いて内政・外政でも大活躍をしており、文武両道の武将と言えます。

陪臣の立場から自らの才覚で立身出世を遂げ、徳川家康の主要な戦いにほとんど従軍してなんどもその危機を救い、遂には10万石という大領を与えられて上野国館林藩の初代藩主ともなっています。 “【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王” の続きを読む

【犬山城(日本100名城43番)】日本最古の天守が残る城

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国の最北端に位置し、尾張国に勢力を高めた織田家が美濃国との境防衛のために築いた平山城です。

戦国期に何度も攻城戦を経験し、3度に亘る落城とその後の対策から、戦国屈指の仕掛けが講じられた名城です。

また、江戸時代までに建造された天守が現存する「現存天守12城」の1つであり、建築年については諸説あるものの現存する日本の城の中で最古の天守があることから国宝指定された5つの天守のうちの1つとしても有名です。

さらに、 平成16年(2004年)4月1日まで、個人が所有していたという稀有な城としても有名です。 “【犬山城(日本100名城43番)】日本最古の天守が残る城” の続きを読む