永禄11年(1568年)9月に、足利義昭と織田信長が上洛を果たし、その後に足利義昭が室町幕府15代将軍に任命されたのは有名な話ですが、その後の京・畿内の統治がどのように行われたのかについては意外と知られていません。
後に織田信長が足利義昭を追放して独占的支配に至ったため、何となく織田信長が足利義昭を傀儡として統治していたようなイメージを持つ方が多いと思うのですが、そうではないのです。
上洛当初の京の統治者は将軍・足利義昭であり、織田信長はその補佐人でしかありません。
しかも、この時点での織田信長の本拠地は美濃国・岐阜であったために織田信長自ら京(畿内一帯を含む)政策の陣頭指揮を執ることはできず、代理人となる奉行人を在京させて足利義昭を補佐していたに過ぎませんでした。
このとき、足利義昭の補佐をするために京に置かれた足利義昭及び織田信長の代理人を京都奉行(足利義昭追放後に置かれた「京都所司代」や江戸時代に置かれた「江戸町奉行」とは別物です。)といいます。
本稿ではこの京都奉行の紹介を兼ねて、足利義昭・織田信長上洛後の京の統治者の推移について見て行きたいと思います。
【目次(タップ可)】
武断派京都奉行(1568年10月~1569年4月1日)
足利義昭の将軍就任(1568年10月22日)
永禄11年(1568年)9月、上洛を果たした足利義昭と織田信長は、共同して室町幕府の再興を目指し、まずは京の確保にとりかかります。
当時の京(及びその周辺地域である畿内)は、朝廷や幕府が存在する政治の中心であり、かつ寺社・商工業者などが多数存在する大経済都市であったため、権力者の象徴支配地であったからです。
まず、同年10月14日、芥川山城に入っていた足利義昭が六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所と定めて同寺に入り、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命されます(三好三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄は、同年10月18日に廃されています。)。
足利義昭による幕府政治復興政策
室町幕府第15代将軍となった足利義昭は、獲得した将軍の権威をもって、畿内周辺の朝廷・寺社・周辺国衆などの取り込みを図るなどして、室町幕府再興政策を進めていきます。
具体的には、まず兄である13代将軍・足利義輝が有していた山城の御料所を掌握して経済基盤を確立させます。
次に、池田城主の池田勝正・伊丹城主の伊丹親興に本領を安堵し・和田惟政に芥川山城を与えるなどしてこの3人を摂津三守護に補任して摂津国を任せたり、高屋城主の畠山高政と若江城主の三好義継に河内国半国守護としたり、山岡景友を山城国守護に任命した上で細川藤孝に山城国勝竜寺城を与えて統治させたりするなどして、軍事基盤の確保を進めていきます。
さらに、外交面では、13代将軍足利義輝の殺害及び足利義栄の14代将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放して二条晴良を関白に復職させた上、二条晴良の嫡子である二条昭実らに自身の偏諱を与えるなどして朝廷の取り込みを進めていきます。
その上で、摂津晴門を政所執事に任命し、三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正などを奉行衆として幕政に参画させるなどして(言継卿記・細川両家記など)、幕府政治の復興を進めて行きます。
この足利義昭による幕府再興の動きは順調であり、相良義陽や毛利元就などから料所の進上を受けたり、薩摩国の島津義久から黄金100両の献上を受けたりするなど、全国の大名からも将軍就任が認められていきます。
織田信長による京都奉行任命(1568年10月)
足利義昭を報じて上洛した織田信長は、当初は、京の政治は室町幕府将軍・足利義昭によって行われるべきと考えていたこともあり、幕府再興の動きが始まったのを見届けると、本拠地である美濃国に帰還してしまいます(同年10月26日に美濃国帰還)。
もっとも、足利義昭・織田信長は、それまで三好家によって統治されていた京や畿内の諸勢力がすぐさま室町幕府に従うはずがないことは十分に理解しています。
権威を回復しつつあるとはいえ、そんな状況下で脆弱な軍事力をしか有していない足利義昭を京に残していくなど不安要素でしかありません。
利用価値のある足利義昭をこの段階で失うわけにはいきません。
そこで、織田信長は、美濃国に戻るに際して、5000人の兵と共に柴田勝家・佐久間信盛・蜂谷頼隆・森可成・坂井政尚ら5人の武断派武将を京都奉行に任命して京に残し、「軍事面で」足利義昭を補佐して京・畿内を統治させることとします(もっとも、京から発給された連署状は、短期間のうちにその発給者が入れ替わり、またその署名順も一定ではないことから、多くの家臣がその都度奉行として京・畿内統治に関わっていたことがうかがえ、必ずしも固定化されていたわけではないと考えられます。)。
この結果、永禄11年(1568年)10月ころからは、京・畿内は政治的には足利義昭により、軍事的には織田信長による統治(京都奉行を通じた間接統治)が行われることとなりました。
本圀寺の変(1569年1月5日)
ところが、室町幕府再興の動きが始まる一方で、織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったことにより京が手薄となったのをチャンスと見た三好三人衆が、京の奪還と足利義昭打倒を目指して動き始めます。
永禄12年(1569年)正月早々、織田信長に追われて本拠地・阿波国に逃げ帰っていた三好三人衆が、畿内に戻って1万人もの兵を編成して京に進軍し、同年1月5日に市中に火を放ちながら足利義昭がいる本圀寺へ進軍してきたのです。
この結果、本圀寺が堀や土塁・石垣を巡らした城郭様様式の寺ではなかったこと、在京していた織田・足利方の兵が2000人に過ぎなかったことなどから、足利義昭は命の危機を迎えます(本圀寺の変)。
永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆(永禄の変)に将軍暗殺の迷いなどありません。
もっとも、同年1月6日に、将軍襲撃の報が足利義昭に与する各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政、三好本家の三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭の援軍として本圀寺に駆け付けたために一気に形成が逆転し、何とか三好三人衆を撃退することに成功します。
殿中御掟の制定(1569年1月14日)
三好三人衆を撃退したものの、本圀寺の変は、再興しつつある室町幕府(足利義昭・織田信長連立政権)による京統治の脆弱さを露見させるに十分な重大事件でした。
このままでは危ないと考えた足利義昭・織田信長はすぐに手を打ちます。
まずは、永禄12年(1569年)1月14日、足利義昭と織田信長の協議によって「殿中御掟」を定め、統治についての基本方針を決定します。なお、当初は9ヶ条だった「殿中御掟」は、2日後である同年1月16日に7ヶ条、永禄13年(1570年)1月23日に5ヶ条が新たに追加されて具体化されていきます(なお、これに伴い足利義昭の将軍権力の制限も進んでいきます。)。
二条城築城(1569年)
次に、防衛力が脆弱な本圀寺を仮御所としている状況では、今後も足利義昭が害される危険性が生じるのではないかと危惧されたため、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で将軍の在所として足利義昭の二条城の造営を開始します。
そして、13代将軍・足利義輝が使用していた二条御所・烏丸中御門第(現在の京都御苑南西部)に、二重の水堀と高い石垣を備える堂々たる城郭とする二条城が新たに築城され、足利義昭がそこに入ります。
文治派京都奉行(1569年4月12日~1570年4月16日)
京都奉行変更(1569年4月)
二条城完成や政治システムの構築により京統治に一定の成果が上がったため、織田信長は、足利義昭に対する補佐についてそれまでの軍事面重視の援助から、政治・経済・外交面の援助へシフトさせていきます。
これに伴い、永禄12年(1569年)4月12日、織田家による将軍補佐役としての京都奉行についてもそれまでの武断派武将から、丹羽長秀・中川重政・木下秀吉といった文治派武将に変更していきます(なお、この時点での京都奉行に、織田家の武将だけでなく明智光秀などの将軍直下の武将が入っていることも着目されます。)。
この結果、足利・織田連立政権によって京や畿内の平定を進めていくこととなったのですが、その成果も共同で分け合うこととなったため、それぞれの権限が複雑なものとなっていきます。
金ヶ崎の戦い(1570年4月)
京とその周辺を概ね平定した足利・織田連立政権は、さらなる室町幕府の権威と勢力の拡大を目指して全国各地の大名・国衆に上洛を命じる御内書を送付します。
事実上の足利・織田連立政権への臣従圧力です。
当然各大名は反発します。
特に、強大な経済力・軍事力をもって越前を治める朝倉義景に至っては、完全無視を決め込みます。
この朝倉義景の対応に織田信長は激怒したのですが、いきなり越前国を攻撃する理由がありません。
そこで、織田信長は、まず足利義昭からの命令を受けて、朝倉義景が若狭国守であった武田元明(足利義昭の甥)を越前に連行して武藤家を通じて傀儡としていた若狭国を解放するという名目で、若狭国武藤家を討伐するために兵を挙げることしたのです。
そこで、織田信長は、元亀元年(1570年)4月16日、京都奉行を担っていた武将の大部分を同職から辞させた上、これらを含めた領内総力を挙げて若狭国(越前国)への侵攻を目指します。
そして、同年4月20日、友軍として徳川家康軍の他、池田勝正・松永久秀などの畿内武将、公家である日野輝資・飛鳥井雅敦などの公家をも引き連れ、総勢3万人とも言われる大軍となった幕府軍(織田軍)が京を出陣し若狭国に向かって進んでいきます。
その後、若狭国を経て越前国に入った幕府軍(織田軍)は、天筒山・金ヶ崎城を立て続けに攻略し、いよいよ木ノ芽峠を越えて越前国に入ろうとした際に大事件が起こります。
織田信長の義弟である北近江の浅井長政が織田軍を裏切り、織田軍を挟撃するために迫ってきたのです。
越前国の朝倉軍(北側)と北近江の浅井軍(南側)の挟撃の危険を察知した織田信長は、急ぎ京に向かった退却を開始し(金ヶ崎の退き口)、同年4月30日に京に到着することによって何とか一命をとりとめます。
村井貞勝・明智光秀による2人京統治体制へ
浅井長政の裏切りに怒り心頭の織田信長は、室町幕府再興よりも浅井・朝倉討伐を優先させることとなります。
加えて、浅井・朝倉連合軍との戦いをきっかけに信長包囲網が形成されるに至ったことから、その対応に追われるようになり、有能な武将たちを京都奉行として京に留めて置く余裕がなくなっていきます。
そこで、織田信長は、京都奉行として京に駐留させていた各将の任を解いて、主に近江戦線に配置するために南近江の各城に各将を入れていきます(永原城の佐久間信盛・長光寺城の柴田勝家・佐和山城の丹羽長秀・宇佐山城の森可成など)。
これにより、京から織田家の武断派武将がいなくなったことから残された文治派武将であった村井貞勝が専任の織田方の京都奉行のような役割を果たすこととなり、足利義昭方の明智光秀との2人体勢で京の統治が進められていくこととなりました。
京都奉行の廃止
織田信長と足利義昭との関係悪化
その後、石山本願寺の挙兵とその後の志賀の陣で、三好三人衆の追放に失敗し、弟である織田信治や重臣である森可成・坂井政尚を失った織田信長は、第1次信長包囲網により大敗北を喫することとなりました。
当然ですが、それまで勢力拡大を続けていた織田信長の権威にも疑問符が付いてきます。
これを好機と見たのが足利義昭でした。
足利義昭は、それまでは織田信長と二人三脚で政治をしていたのですが、自らを神輿としてしか見ていない織田信長を対し内心苦々しく思っていました。
そんな中、包囲網に苦心する織田信長を見るや、自らに対する織田信長の影響力を弱めるため、元亀2年(1571年)ころから、織田信長に敵対する力を持つ勢力に接近していき、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄などに御内書を乱発していくようになります。
その後、全国各地で反織田の兵が立て続けて挙兵したため、足利義昭もまたこれに便乗していくこととなり、今度は足利義昭が反織田方となる形で信長包囲網が形成されていきます。
異見十七ヶ条(1572年9月)
この足利義昭の暗躍を知った織田信長は、元亀3年(1572年)9月、足利義昭に対して17箇条からなる異見書を送ります。
これにより、織田信長と足利義昭との対立が具現化し、また決定的になります。
京都奉行機能停止
織田信長との対立が明白なものとなった足利義昭は、浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して織田信長を周辺大名で取り囲みます(第2次信長包囲網)。
これに武田信玄までもが参加して西上作戦を開始したため一時は戦局は反織田方勢力に優位に進んだため、足利義昭は、元亀4年(1573年)1月に京で挙兵し、京から織田信長の影響力を廃します。
当然ですが、織田信長が任命した京都奉行もその機能がほぼ失われます(この後も、京都奉行からの文書発給がありますので、廃止されたわけではないと思います。)。
室町幕府滅亡(1573年7月18日)
ところが、武田信玄の体調悪化に伴って武田軍の足が止まると戦局が一変します。
元亀4年(1573年)2月に近江国の今堅田砦・石山砦を攻略した織田信長は、入京して二条城を取り囲み、同年4月7日、正親町天皇からの勅命という形で降伏した足利義昭を京から追放します。
その後、足利義昭は、同年7月3日に二条城の三淵藤英ら、淀古城の岩成友通と共に、山城国槇島城で再挙兵したのですが、同年7月18日までの間に全て鎮圧され(槇島城の戦い)、15代続いた室町幕府は滅亡します。
京都奉行廃止と京都所司代任命(1573年7月)
こうして、室町幕府を事実上滅亡させた織田信長は、京から室町幕府の影響を削いでいきます。
まず、朝廷に働きかけをして、元亀4年(1573年)7月28日、足利義昭の願いによって付された元号である「元亀」を廃し、「天正」への改元をさせます。
また、天正元年(1573年)7月、室町幕府との京の共同統治の象徴であった京都奉行を廃し、新たに「京都所司代(信長公記によると天下所司代)」職を新設して、村井貞勝を初代京都所司代に任命し織田政権が単独で京の統治を進めていくこととなりました。