【桑山重晴】賤ヶ岳の戦いで鬼玄蕃の猛攻に耐えた武功で和歌山城代となった武将

桑山重晴(くわやましげはる)の名を聞いたことがありますか。

正直マイナーすぎる武将ですが、実は数々の武功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の猛攻を耐えて豊臣方の勝利に貢献した武将でもあります。

以下、本稿では、そんな桑山重晴の生涯について見ていきましょう。

 

桑山重晴の出自

桑山重晴出生(1524年)

桑山重晴は、大永4年(1524年)、尾張国海東郡桑山ノ庄で桑山以則の子として生まれます。

桑山家は鎌倉幕府の有力御家人として下総国結城家の祖となった結城朝光の子孫であるとされていますが、詳しいことはわかっておらず真偽不明です。

但馬国1万石と竹田城を与えられる

桑山重晴の名が知れたのは、織田信長の家臣・丹羽長秀に与力として仕え姉川の戦いなどで活躍したときのことです。

このとき、桑山重晴の戦いぶりが豊臣秀吉(このときは、羽柴秀吉)の目に留まり、天正2年(1574年)に豊臣秀吉に請われて、丹羽家から羽柴家へ移り、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長(このときの名は羽柴長秀)に付けられ但馬・因幡方面の侵攻を命じられます。

その後、桑山重晴は、豊臣秀吉の中国戦線に従軍して転戦し、鳥取城の飢え殺しと言われた第2次鳥取城攻めの際には城北東の包囲を担当するなどして数々の武功を挙げています。

そして、天正8年(1580年)、桑山重晴は豊臣秀吉から但馬国1万石を与えられ、竹田城主となります

その後も、桑山重晴は、豊臣家の戦いに随伴し、転戦します。

賤ヶ岳の戦いでの大功(1583年4月)

桑山重晴は、賤ヶ岳の戦いでも、豊臣秀吉麾下で従軍し、賤ヶ岳砦の防衛を任されます。

賤ヶ岳の戦いの最中の天正11年(1583年)4月16日、一度は豊臣秀吉に降伏していた織田信孝が越後国の柴田勝家や北伊勢の滝川一益と結んで挙兵し、岐阜城下へ進出してきたため、豊臣秀吉は、滝川一益に対する伊勢戦線、柴田勝家に対する近江戦線、織田信孝に対する美濃戦線の3方面作戦を強いられることになりました。

このとき、豊臣秀吉は、まずは美濃戦線を抑えるという決定をし、対柴田勝家戦線を弟豊臣秀長に任せて自身は本隊2万5000人の兵を引き連れて翌4月17日に岐阜城の西に位置する大垣城まで移動します。

この隙をつき、佐久間盛政が、天正11年(1583年)4月19日、中川清秀が守る大岩山砦を急襲し、不意をつかれた中川清秀は佐久間盛政の攻撃に耐えきれず、大岩山砦は陥落して中川清秀も討死してしまいます。

勢いに乗る佐久間盛政は、続いて黒田孝高隊を攻撃しますがこれは凌がれたため、攻撃目標を岩崎山に陣取っていた高山右近に変更し、高山隊を木之本の羽柴秀長の下まで壊走させます。

その後、佐久間盛政は、羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかり、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令し、対する桑山重晴は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答するなど賤ヶ岳砦の陥落も間近となっていました。

ところが、桑山重晴が撤退を始めたところ、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れて桑山隊と合流して攻勢に出たことから、桑山重晴は賤ヶ岳砦をすんでのところで失わずにすみました。

その後、美濃大返しで戻ってきた豊臣秀吉軍が佐久間盛政軍・柴田勝家軍を蹴散らし、賤ヶ岳の戦いは豊臣方の勝利に終わります。

この戦で、賤ヶ岳砦をなんとか守り切った桑山重晴の手腕は高く評価され、戦後桑山重晴は2万石に加増されています。

 

和歌山城代となる

その後も、桑山重晴は、豊臣秀吉の戦いに従軍し、天正13年(1585年)の紀州征伐にも随伴し武功を挙げます。

そして、紀州平定後、豊臣秀長が紀伊・和泉の2ヶ国を加増され、大和国・紀伊国・和泉国の3国計100万石を治める大大名となります。

このとき、豊臣秀長は、その本拠を大和国・大和郡山城に定めたのですが、紀州も制圧したばかりで政治情勢が安定していなかったため、放置するわけにはいきませんでした。

そこで、豊臣秀長は、当時「若山」と呼ばれた現在の和歌山城のある場所を選定して縄張りを行い、藤堂高虎を普請奉行、羽田正親、横浜良慶をその補佐として和歌山城を完成させます(このときに、若山から和歌山に改められています。)。

その上で、豊臣秀吉は、桑山重晴を大和大納言・豊臣秀長に家老としてつけ、3万石に加増して和歌山城代に任命し治めさせます。

桑山重晴は、文禄4年(1595年)7月8日、豊臣秀次が謀反の疑いを釈明するために伏見城を訪れた際、伏見城大手門の守備を任されます。

このときの功により、桑山重晴は、和泉国日根郡谷川に1万石を加増されて4万石となります

 

桑山重晴の晩年

出家(1596年5月)

桑山重晴は、慶長元年(1596年)に出家し、桑山家の家督(4万石のうち2万石)、和歌山城代、修理大夫の官位を嫡孫の桑山一晴に譲ります。なお、残りの1万石は次男桑山元晴に譲り、桑山重晴自身も1万石を留めました。

そして、この後、桑山重晴は、桑山治部卿法印を名乗ります。

晩年には、千利休から茶の湯を学んだ茶人でもあったようです。

なお、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、桑山重晴は、桑山一晴から4000石、桑山元晴から2000石を譲り受け、1万6000石を治めることとなりました(和泉国・谷川藩)。

桑山重晴の最後(1606年10月1日)

桑山重晴は、慶長11年(1606年)10月1日に死去します。享年は83歳でした。

なお、死後、その所領のうち6000石を次男桑山元晴が、1万石を孫(桑山元晴の子で桑山重晴の孫)桑山清晴が相続しています。

 

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