【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉幕府執権・北条義時討伐のための兵を挙げたものの敗れて隠岐に流された上皇として有名です(承久の乱)。

このことだけ聞くと、無謀な挙兵をした人物であるかのように感じられますが、実はそんなことはありません。

朝廷から武士に権力が移行していく時代に抗い、鎌倉殿・源実朝を取り込んだり、鎌倉幕府御家人に官位を与えるなどして朝廷の権威を取り戻そうと尽力したとても有能な上皇でした。

実際、後鳥羽上皇は、文武両道であったとされ、新古今和歌集の編纂でも知られています。

もっとも、結果的には幕府軍の数の暴力に屈して隠岐島に流され、失意のうちに崩御されるという悲しい結末を迎えています。

後鳥羽上皇の出自

出生(1180年7月14日)

後鳥羽上皇は、治承4年(1180年)7月14日、高倉天皇の第四皇子として生まれます。諱は尊成(たかひら・たかなり)といいました。

母は坊門信隆の娘・坊門殖子(七条院)であり、祖父は後白河天皇、安徳天皇の異母弟にあたります。

後鳥羽上皇の誕生時点では、すでに平清盛を外祖父に持つ高倉天皇の第一皇子である安徳天皇が践祚していたことから、後鳥羽上皇が皇位につく可能性は低い状況でした。

安徳天皇の都落ち

もっとも、寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲軍が京都に迫った際、平家が、安徳天皇高倉上皇の第一皇子)及び守貞親王(高倉上皇の第二皇子)、と三種の神器を奉じて西国に逃れます。

このとき、平家一門に連れ出されることを避けるために比叡山に逃れていた後白河法皇は、平家都落ち木曾義仲の入京を待って京に帰還します。

後鳥羽上皇は、安徳天皇の都落ちにより、新たな天皇を決める必要があると判断したのですが、このとき京に残った候補者は、惟明親王(高倉上皇の第三皇子)、尊成親王(高倉上皇の第四皇子・後鳥羽上皇)、北陸宮(以仁王の子)の3名でした。

ここで、後白河法皇は、占いの結果、尊成親王を天皇として即位させることに決めます。

なお、この新帝の候補者選任に際して、木曾義仲が北陸宮を推挙したことにより不興を買っています。

神器なき即位

後鳥羽天皇即位(1183年8月20日)

寿永2年(1183年)8月20日、尊成親王が、後白河法皇の院宣を受ける形で後鳥羽天皇として践祚します。

もっとも、このとき天皇の正当性の根拠であるはずの三種の神器は、都落ちした安徳天皇と共に平家の手中にあったため、後鳥羽天皇の践祚の儀式は、神器なしに行われます。

また、即位式も元暦元年(1184年)7月28日に行われた即位礼についても、同様に神器のないままに実施されています。

なお、この後鳥羽天皇の即位は、安徳天皇が退位しないままなされたため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで2人の天皇の在位期間が2年間重複しています。

天叢雲剣の回収に失敗

後鳥羽天皇の即位後、源氏が平家を追い詰めていき、ついに壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させます。

また、このときに、このときに安徳天皇も入水により崩御されたため、天皇重複の状態が解消されます。

もっとも、この平家滅亡に際し、源氏方は、三種の神器のうち八咫鏡・八尺瓊勾玉の回収には成功したものの、海中に沈んだ天叢雲剣の回収に失敗します。

そのため、その後も天叢雲剣の捜索が続けられたのですが、文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の報告によって捜索は事実上断念され、天叢雲剣は失われます。

これにより、以降の儀式は天叢雲剣なしに行われることとなり、建久元年(1190年)1月3日に行われた後鳥羽天皇の元服の儀式も神器が揃わないまま行われます。

なお、皇位の象徴である三種の神器が揃わないことは、伝統が重視される宮廷社会において後鳥羽天皇の不徳が結び付けられることとなるため、この批判をかわすために後鳥羽天皇は、内外に対する強硬的な政治姿勢を取るようになります。

後白河法皇崩御(1192年3月13日)

後鳥羽天皇の即位後は、幼い天皇の代わりに後白河法皇が院政を行っていたのですが、建久3年(1192年)3月13日に後白河法皇が崩御すると、関白・九条兼実が朝廷を指導するようになります。

その後、九条兼実が建久7年(1196年)に発生した建久七年の政変により九条兼実が失脚すると、朝廷内での後鳥羽天皇の力が増大します。

後鳥羽院政

治天の君となる(1198年1月11日)

そして、後鳥羽天皇は、建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し上皇となります(土御門天皇の践祚については土御門通親(源通親とも言います。)による強行とも言われています。)。

このときには、大きな力を持っていた後白河法皇も死去していたため、以降、後鳥羽上皇が治天の君として君臨することになります。

また、後鳥羽上皇は、承元4年(1210年)11月25日には、穏和な性格であった土御門天皇が鎌倉幕府との関係において相応しくないと判断し、皇位を異母弟の順徳天皇に譲位させ、その後も仲恭天皇治世の承久3年(1221年)に至るまで、3代23年間に亘り院政を敷いて強権をふるいます。

なお、土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立ててその子孫に皇位継承させたことについては当時の貴族社会一般はもちろん他の親王たちからの不満も買っています。

西面の武士の創設(1200年ころ)

後鳥羽天皇は、1200年ころ、鎌倉幕府の軍事力に対抗するために、院の警護・奉仕にあたる武家集団として西面の武士(さいめんのぶし)と設置します。

院御所の西面に詰め所などがあったので、この名がつけられました。

西面の武士は、主に西日本の有力御家人や京の御家人の中から武勇に優れた武士が選抜され、白河上皇によって創設された既設の北面の武士とともに、院の軍事的機能の中枢を担います。

政治改革

建仁2年(1202年)正月27日に九条兼実が出家し、同年10月21日に土御門通親が死亡すると、後鳥羽上皇を制することが出来る者が宮中にいなくなります。

そこで、後鳥羽上皇は、自らの力を高めるために殿上人を整理や院政機構の改革などを行います。

他方、後鳥羽上皇は、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いでいます。

公武融和(1203年)

朝廷内で力を高める後鳥羽上皇は、鎌倉幕府への関与も始めます。

建仁3年(1203年)、源頼朝の次男であった千幡が第三代鎌倉殿に擁立されると、後鳥羽上皇自らが「源実朝」との名乗りを定め(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)、かつ征夷大将軍の宣旨を下します。

その後、後鳥羽上皇が、源実朝を異例のスピードで昇任させることでこれを取りこみ、幕府内部への影響力を高めていきます。

実際、源頼朝は御家人が朝廷から直接官職を受けることを禁止していたのですが、源実朝はこれを黙認したため、関東御家人たちに朝廷側の影響が及んでいきます。

それどころか、源実朝は、西国守護職については、後鳥羽上皇の推薦した御家人を登用することを続けたため、鎌倉幕府による西国支配は大いに後退していきました。

もっとも、鎌倉幕府側も、当初は、子供のいない源実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させようとする「宮将軍」の構想を打ち出したことから、朝幕関係は一時安定期を迎えています。

鎌倉幕府執権・北条義時との対立

摂家将軍誕生

承久元年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶すると、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権北条義時)との関係が急速に悪化します。

この緊張関係は北条義時にとっても望むものではなかったため、北条義時は、承久元年(1219年)2月13日、朝廷との関係を改善するため、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王のいずれかを第4代鎌倉殿として迎えたいと奏上します。

これに対し、後鳥羽上皇は、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとして、皇子の下向を拒否します。

そればかりか、後鳥羽上皇は、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じます。

怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を率いて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。

軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論に落ち着きます。

そして、最終的には、このとき2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)を第4代鎌倉殿として下向させることとなり、同年7月19日、三寅が鎌倉に送り届けられます。

もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となることが決まったとははいえ、僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。

こうして、宮将軍の誕生により、朝廷と鎌倉幕府との関係はなんとか維持されたのですが、これらの将軍継嗣問題は、北条義時にも後鳥羽上皇にもしこりとして残ります。

もっとも、この三寅の下向は、鎌倉幕府内で新たな問題を生じさせます。

このとき、大源頼政の孫である源頼茂(政所別当)が、内守護として大内裏の警備にあたるために在京していたのですが、その血筋から、源実朝の次の鎌倉殿は自分であると考えていました。

ところが、北条義時が、次期鎌倉殿として三寅を迎えてしまったことから、源頼茂は不満を募らせます。

この源頼茂の不満を見た在京御家人が、源頼茂が謀反を企てているとの訴えをしたことから、後鳥羽上皇から源頼茂討伐の院宣が下されます。

そして、源頼茂追討に際して内裏内部での乱戦となり、仁寿殿(内裏中央に位置する殿舎)に追い込まれた源頼茂が火を放って自害します。

このとき放たれた火は、殿舎に燃え広がり、朝廷の象徴である内裏や、由緒ある累代の宝物が焼失してしまいます。

北条義時討伐計画(1221年4月28日)

この将軍継嗣問題のトラブルや、鎌倉幕府の内紛により内裏や宝物が焼失してしまったことなどから、後鳥羽上皇の鎌倉(ひいてはそれを実質的に支配する北条義時)に対する不満が溜まっていきます。

そして、承久3年(1221年)ころになると、後鳥羽上皇は毎月のようにどこかの寺社で密かに北条義時調伏の祈祷を行うようになります。

そして、承久3年(1221年)4月28日、ついに北条義時との対決を決意した後鳥羽上皇は、後鳥羽上皇の御所であった高陽院(かやのいん)において、土御門上皇・順徳上皇・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王などの皇族をはじめとする名だたる外戚・近臣・僧侶を招集した上、北条義時調伏の祈祷を行います。

その上で、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮内の城南寺で行う予定の「流鏑馬揃え」を口実として、御所の警備を担う北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士らの招集を命じます。

もっとも、院宣を出せば鎌倉幕府は戦うことなく内部崩壊するとたかをくくっていた後鳥羽上皇は、単に集まった面々に兵を集めることを指示するのみで、具体的な京の防衛策や、鎌倉幕府御家人に対する事前調略工作を検討することはありませんでした。

流鏑馬揃い(1221年5月14日)

承久3年(1221年)5月14日、「流鏑馬揃え」の場に、北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士ら1700余騎が集まったのを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐を決意します。

承久の乱

後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)

そして、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日朝、ついに北条義時討伐を掲げて挙兵します。承久の乱の始まりです。

最初のターゲットに選んだのは、後鳥羽上皇の誘いを断った伊賀光季でした。

後鳥羽上皇は、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義ら800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かわせました。

このとき伊賀光季が率いたのはわずか85騎でしたので、多勢に無勢で勝負になりませんでした。

次男・伊賀光綱の死を見届けた伊賀光季は、北条義時宛に事の顛末を伝える使者を送りだした後、討ち死にしてしまいます。

北条義時追討の宣旨(1221年5月15日)

緒戦に勝利してほぼ京を制圧した後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の宣旨をしたためます。

また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。

もっとも、この院宣・宣旨については、実物が現存していないため、それらが正式文書としての「官宣旨」であったのか、略式の「院宣」に過ぎなかったのかなど、詳細は不明です。また、その発布目的についても、北条義時という個人の排除目的だったという説が有力ですが、鎌倉幕府の否定まで目指していたという説もありますので、正確なところはわかっていません。

いずれにせよ、後鳥羽上皇は、院宣や官宣旨の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって後鳥羽上皇方に味方すると考えて戦局を楽観視していました。

そして、この北条義時討伐の院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託され、鎌倉へ運ばれていきます。

鎌倉幕府の対応

以上のように、京から鎌倉に向かって、鎌倉幕府方の伊賀光季の使者と、後鳥羽上皇方の院宣・官宣旨の双方が送られたのですが、先に鎌倉に着いたのは、鎌倉幕府方の伊賀光季からの使者でした。

承久3年(1221年)5月19日、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの使者が北条義時の下に到着し、北条義時が、自らが朝敵とされたこと、上皇が挙兵したことを知ることとなります。

伊賀光季による上皇挙兵の報の到達から少し遅れて、後鳥羽上皇の使者・押松丸が鎌倉に入ります。

もっとも、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて鎌倉全域を警戒させていた北条義時は、鎌倉葛西谷にいた押松丸を捕らえ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿を没収します。

関東の有力御家人に届く前に「北条義時追討の院宣・官宣旨」を回収できた北条義時でしたが、事情が分からない御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて大いに動揺し、後鳥羽上皇挙兵の理由を聞くために、北条政子・北条義時の下に続々と集まってきます。

ここで、北条政子が、議論を重ねる御家人たちを庭に集め、歴史に残る演説を行い(実際には、尼であったために世俗に関与できない立場の北条政子は、御簾の裏に隠れての参加となっており、この演説を読み上げたのは安達景盛です。)、御家人たちに北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めさせました(北条政子の演説)。

承久の乱勃発(1221年5月22日)

承久3年(1221年)5月22日早朝、北条泰時が、わずか急いで18騎を率いて鎌倉を出発したことにより、鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇軍との戦いが始まります。

また、同日、北条時房・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱ら率いる東海道軍10万騎、同年5月25日までに、武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光ら率いる東山道軍5万騎、北条朝時・結城朝広・佐々木信実ら率いる北陸道軍4万騎が次々と鎌倉から出立して京に向かって進軍していき、承久の乱が始まることとなります。

東海道・東山道・北陸道を進んだ幕府軍が、それぞれ破竹の快進撃で京に向かって進んでいきます。

承久3年(1221年)6月15日、後鳥羽上皇が移って指揮を執っていた四辻殿に、瀬田(6月13日)・宇治(6月14日)の戦いの敗北の報が届きます。

焦った後鳥羽上皇は、同日六波羅に到着した北条泰時・北条時房の下へ使者を遣わし、北条義時追討の院宣や後鳥羽上皇の挙兵は、後鳥羽上皇の意思ではなく謀臣の謀であったとの弁明をしたのですが、顧みられることはありませんでした。

後鳥羽上皇の最期

隠岐への配流(1221年7月)

承久3年(1221年)6月23日、北条義時と大江広元は、平家滅亡時の文治元年の沙汰にならって、王家・公家の処罰を決定します。

後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)7月に出家させられた後、同年7月13日に逆輿(罪人用の手輿)に乗せられて鳥羽離宮を後にし(承久記)、死刑を除いた中では最も厳罰とされる配流(遠島への島流し)とされ、隠岐に流されます。

なお、後鳥羽上皇に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、また後鳥羽上皇に関与しなかった土御門上皇は自ら望んで土佐国に流れていきました(また、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ流されています。)。

後鳥羽上皇が流された隠岐は、大小4つの有人島と180余の無人島により構成されます。

隠岐の有人島は、「島後」(現在の隠岐の島町)と呼ばれる北側の大きい島と、「島前」と呼ばれる南側の3つの島である中ノ島(現在の海士町)・西ノ島(現在の西ノ町)・知夫里島(現在の知夫村)で構成されます。

隠岐に流された後鳥羽上皇は、「島前・中ノ島」にあった隠岐国・海士郡(現在の隠岐神社)の辺りに到着し、そこを行在所と定めます。

中ノ島は、暖流である対馬海流が流れ込む隠岐という地政学特性に加え、中ノ島の西側にある西ノ島にある250mもの断崖(摩天崖)が西側から吹く冷たい風を遮ってくれるため、隠岐の中でも特に温暖で過ごしやすい場所でした。

後鳥羽上皇崩御(1239年2月20日)

文暦2年(1235年)の春ころ、摂政であった九条道家が、後鳥羽上皇と順徳上皇の還京を提案したのですが、北条泰時はこれを受け入れず、後鳥羽上皇が京に戻ることはできなくなります(明月記)。

そして、後鳥羽上皇は、延応元年(1239年)2月20日、配所にて崩御されます。享年は60歳でした。

同年5月に「顕徳院」の諡号が贈られ、また北条泰時死亡直後の仁治3年(1242年)の6月、九条道家または土御門定通の提案により追号が改められることとなり、新たに「後鳥羽院」の追号が贈られました(平戸記)。なお、追号は、仁治3年(1242年)7月に正式に「後鳥羽院」とされています。

後鳥羽上皇の遺骨の大部分は今の火葬塚に納められたとされ、この火葬塚は現在の島根県隠岐郡海士町の隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚であるとされています。

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