【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、織田信長が本能寺の変で横死した後、旧武田領で勃発した一連の争乱です。

織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。

この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。

この一連の争乱のうち、どの範囲を天正壬午の乱と呼ぶのかについて諸説あるのですが、本稿ではその定義付けは無視して一連の争乱の概略について見ていきたいと思います。

天正壬午の乱に至る経緯

甲州征伐(1582年2月)

上野国の大部分が武田勝頼に制圧され北関東でも佐竹家を含めた北関東諸将からの攻勢にさらされていた北条家は、織田家が西側から武田領への侵攻を始めたのに同調し、武田家への反転攻勢を仕掛けます。

天正10年(1582年)2月1日、信濃国木曽谷領主であった木曾義昌が武田家から離反して織田家に下ったことを皮切りに織田・徳川連合軍による武田領侵攻(いわゆる甲州征伐)が始まると、同年2月末頃には北条家も軍を動員して駿河方面から武田領侵攻を開始し、徳倉城・三枚橋城・深沢城を次々と攻略しつつ北上して甲府に迫っていきます。

また、上野国方面からも北条氏邦が同時侵攻を開始し、厩橋城を攻略すると共に、和田城・箕輪城などを次々と調略していきます(なお、この後、北条氏邦は真田昌幸にも調略を仕掛けています。)。

もっとも、同年3月11日、これら北条家の動きとは関係なく西方から進軍してきた織田軍の快進撃によって武田勝頼が自刃し、武田家が滅亡します。

武田遺領の配分

この後、北条家は、織田信長に対して戦勝祝いの進物を大量に送って機嫌を取り、占領した旧武田領の安堵を求めます。

ところが、織田信長からは、甲州征伐に対する北条家の功績を認めることはなく(火事場泥棒とさえ評価されています。)、北条家の願いは拒絶されます。

そして、甲州征伐により獲得した旧武田領についての主な論功内容は以下のとおりとされ、北条家が勝ち取った河東方面は徳川家康に、上野方面は滝川一益に与えられることとなりました。

① 滝川一益:上野一国、信濃国小県郡・佐久郡(これにより滝川一益は関東守護を自称)

② 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、信濃国諏訪郡(穴山替地)

③ 徳川家康:駿河一国

④ 木曾義昌:本領(信濃国木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡

⑤ 森長可:信濃国高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡

⑥ 毛利長秀:信濃国伊那郡

⑦ 穴山梅雪:本領(甲斐国河内)安堵の上、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせる

⑧ 森成利:美濃兼山城(森長可の旧居城)

⑨ 団忠正:美濃岩村城(河尻秀隆の旧居城)

この結果、北条家としては、織田家と同盟を結んで甲州征伐への協力的軍事行動をしたにもかかわらずなんらの見返りも受けられないという、ただ損失を被っただけの結果終わったのです。

それどころか、北武蔵の国衆(成田氏長・上杉氏憲・上田長則ら)が、独断で織田家に従属することとなったため、北条家の勢力は甲州征伐前よりも小さくなってしまいました。

この結果を受け、国力の差があるために表立った反抗はしなかったものの、北条家には織田家に対する強い恨みが残りました。

本能寺の変(1582年6月2日)

以上の結果、北条家では、旧武田領の支配に入った織田家臣団の動静に常に警戒することとなりました。

その後、この北条家の警戒網が身を結ぶ事件が起こります。

天正10年(1582年)6月2日、織田家家臣であった明智光秀が謀反を起こし、京の本能寺で織田信長が討ち取られてしまったのです(本能寺の変)。

天正壬午の乱

北条氏政・北条氏直の動き

(1)兵を動員(1582年6月12日)

織田信長横死の報を聞いた北条氏政は、これを好機と見て、混乱を極めているであろう織田領(旧武田領)への侵攻を決意します。

北条氏政は、直ちに軍事動員をかけ、天正10年(1582年)6月12日、領内から4万人を超える兵を動員します。

最初の目標は、滝川一益が守る厩橋城です。

北条軍は、当主である北条氏直を総大将として小田原城を出立し、途中で、同年6月13日までに岩殿城(甲斐国都留郡)を奪取し、また6月15日には北条領内に亡命していた都留郡の土豪渡辺庄左衛門尉を本領に帰還させるなどしながら北上していきます。

その後、北条軍は、同年6月16日には倉賀野表(現在の群馬県高崎市)まで進んで本庄に本営を置き、兵を富田・石神などに展開させます。

(2)真田昌幸が沼田領を回復(1582年6月13日)

北条軍の上野国侵攻とほぼ同時期には、滝川一益に下っていた真田昌幸もまた独自に吾妻郡や沼田領の回復に積極的に動き始めます。

真田昌幸は、北条軍に注力しようとする滝川一益に働きかけて、沼田城の返還交渉を進めてこれを成功させ、天正10年(1582年)6月13日、沼田城の引き渡しを受けています(里見吉政戦功覚書)。

(3)神流川の戦い(1582年6月19日)

天正10年(1582年)6月18日、北条軍先発隊として北条氏邦が先行して上野国と武蔵国の境にある金窪原(かなくぼはら、現在の埼玉県児玉郡)まで進軍し、待ち構えていた滝川一益隊と戦闘になります。

この戦いは、滝川一益隊の勝利に終わり、北条氏邦隊は一旦後退します。

その後、北条氏邦隊を吸収した北条本隊5万人が再度進行し、厩橋城から滝川一益隊1万8000人が再び迎撃に向かいます。

そして、翌同年6月19日、両軍は神流川を挟んで戦闘となり、この戦いは北条軍の勝利に終わります(神流川の戦い)。

敗れた滝川一益は、同年6月20日に家臣・道家正栄の守る小諸城に入り、同年6月22日には徳川方に与していた依田信蕃と対面し、本領である伊勢国長島までの退却路の安全を確保するために佐久郡・小県郡の国衆達から集めた人質(この人質の中には、依田信蕃の嫡子である依田康国や真田昌幸の母である恭雲院が含まれていました。)を預かることを条件として小諸城を依田信蕃に明け渡します。

そして、滝川一益は、同年6月27日、預かった人質を連れて小諸城を出立した後、諏訪盆地を経由し、翌同年6月28日に木曽谷に入った際、当初の約定通り預かった人質を木曾義昌に委ねて同地を出立し、同年7月1日に伊勢長島にたどり着いています(なお、木曾義昌に渡された人質は、同年9月17日に木曾義昌から徳川家康に引き渡されています。)。

(4)北条軍による上野国制圧

他方、神流川の戦いで滝川一益を撃破した北条軍は、直ちに上野国の制圧に取り掛かります。

北条軍の動きを見た浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)の大村忠堯・大野砦(山梨市大野)の大村党・甲斐国総社の甲斐奈神社(橋立明神)の社家衆であった大井摂元などを次々と北条方に帰させます。

こうして、北条軍は、同年6月下旬までには、沼田の手前を北限に西部は信越国境まで、東部は従属していない北条高広が治める厩橋城を除く地域までの上野国の主要な国衆の制圧を完了します。

なお、この北条軍の快進撃を目にした真田昌幸もまた北条方に下っています。

(5)信濃国侵攻

前記のとおり、上野国の大部分を制圧した北条軍は、続いて信濃国制圧を目指します。

天正10年(1582年)7月9日、北条軍は、北条方に下った真田昌幸を先方衆として出陣し、同年7月12日には碓氷峠を越えて信濃国佐久郡へ侵攻していきます。

このとき、徳川方の依田信蕃が滝川一益から受け取った小諸城に入っていたのですが、大軍の北条軍から同城を守り切ることはできないと判断し、小諸城を放棄して「蘆田小屋」へ退却します。

この結果、北条軍な難なく佐久盆地を手中に収めます。

佐久を押さえた北条軍は、続けて北に向かい、川中島に展開する上杉軍に兵を向けます。

上杉軍の北信濃侵攻

ここで、少し時間を遡って上杉軍の動きを見てみます。

上杉景勝もまた、織田信長家臣団が撤退して旧武田領が権力の空白地帯となったのを好機と見て、旧武田領へ触手を伸ばし始めます。

上杉景勝は、北信濃への侵攻のため、まずは同地の国衆の調略を進めると共に、海津城・長沼城・飯山城などを次々と攻略し、川中島4郡を獲得します。

また、同年6月下旬には真田昌幸が上杉家に下ってきたため、その兵も加えて深志城を攻撃し、木曾義昌を追放して松本平を奪取します。

この結果、上田・松本盆地(上杉)と佐久盆地(北条)を境として、上杉・北条が対陣することとなりました。

北条・上杉の戦い(1582年7月9日〜)

ところが、天正10年(1582年)7月9日、上杉方の最前線となっていた上田の真田昌幸が北条方へ寝返り、また同年7月10日には徳川方の小笠原貞慶に深志城を奪還されてしまったため、上杉軍の最前線が一気に後退します。

さらに、同年7月13日には、新たに上杉方の最前線となっていた海津城城主・春日信達が北条方に内通していたことが発覚し、さらに戦局が苦しくなります(なお、春日信達は同日処刑されています。)。

翌7月14日、北条氏直軍と上杉景勝軍が、川中島の千曲川挟んで対峙することとなります。

このときは、北条軍が圧倒的に有利な立場にあったのですが、春日信達の調略失敗を引きずっていた北条軍は積極的な攻撃に出ませんでした(このとき費やした時間が徳川戦線で不利益に働きます。)。

徳川家康の動き

(1)岡崎に帰還(1582年6月4日)

話をさらに戻して、本能寺の変の直後の徳川家康について見ていきます。

徳川家康は、織田信長横死の際、に滞在していたこと、織田家臣団の一員であったために大手を振って旧織田領に侵攻することができなかったため、その初動が北条家・上杉家から大きく遅れます。

具体的に見ると、本能寺の変の発生した天正10年(1582年)6月2日、徳川家康は僅かな手勢を連れて堺に滞在していたため、畿内を脱出して自領に辿り着くのに2日間を費やします(神君伊賀越え)。

同年6月4日に三河国岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した徳川家康でしたが、この時点においても、名目上は、甲斐・信濃は織田領であったため、織田系大名である徳川家康が、これに侵攻することはできません。

そこで、徳川家康は、まずは密かに領内に匿っていた武田遺臣たちを次々に召し出し、現状把握に取り掛かるとともに武田遺臣の調略を進めます。

まずは、遠江国において匿っていた武田遺臣の信濃国衆・依田信蕃を召し出し、甲斐国及び信濃国への調略を命じ、同地に出立させます(依田記)。なお、甲斐国に入った依田信蕃は、同年6月12日、中道往還の迦葉坂(甲府市)に「鐘ノ旗」を掲げさせて武田遺臣の結集を呼び掛け、集まった3000人を引き連れて旧本領の春日城(信濃国伊那郡)を経由し、信濃国佐久郡の小諸城に向かっています。

また、同年6月5日には、同じく遠江国に匿っていた甲斐国武川衆・折井次昌と米倉忠継を甲斐国に遣わし、調略工作を進めさせます(寛永諸家系図伝・譜牒餘録)。

(2)甲斐国河内領摂取(1582年6月6日)

さらに、徳川家康は、天正10年(1582年)6月6日には、同じく畿内から本拠地へ戻ろうとして失敗して死亡した穴山梅雪の本拠地である甲斐国河内領・郡内領を摂取し、穴山衆を従属させます。

また、駿河衆である岡部正綱に書状を送って下山館の普請を命じ、さらには菅沼城(現在の南巨摩郡身延町寺沢)を築城して富士川・駿州往還(河内路)の守りを堅めると共に甲斐国侵攻の橋頭堡とします。

(3)河尻秀隆への協力申出

その後、徳川家康は、織田家臣団により虐げられていた甲斐・信濃において大規模に発生した反乱について、接収した甲斐国河内領から穴山衆を出陣させ、東郡一揆・郡内一揆を次々と沈めていきます。

その上で、徳川家康は、天正10年(1582年)6月10日頃、甲斐国・信濃国諏訪郡を統治していた河尻秀隆の下へ本多信俊を遣わし、反乱鎮圧への協力を申し出ます(当代記)。

もっとも、河尻秀隆は、直前に甲斐国河内領を摂取した徳川家康を信用できず、徳川家康が一揆を扇動して甲斐国全域を簒奪しようとしていると考え(武徳編年集成)、同年6月14日、徳川家康の申出を拒否した上で、岩窪館において本多信俊を殺害してしまいます(三河物語)。

(4)明智光秀討伐軍の準備

以上の旧武田領の混乱ぶりを目にした徳川家康でしたが、徳川家は織田系大名の1つに過ぎなかったため、この時点で名目上織田領となっている甲斐国・信濃国に侵攻することはできません。

そればかりか、織田信長の敵討ちのために畿内に兵を出して明智光秀と対峙する必要に迫られます。

そこで、徳川家康は、天正10年(1582年)6月14日、酒井忠次らを伴って岡崎城を出立し、鳴海城(名古屋市緑区)に向かいます。

ところが、同年6月15日、鳴海城に入った徳川家康の下に、羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を打ち破ったとの報が届きます。

この結果、徳川家康が西進して畿内に向かう必要がなくなります。

また、同年6月19日、羽柴秀吉から畿内を平定した旨記載した書状が届いたため、徳川家康は、同年6月21日に兵を連れて浜松に帰還します。

(5)織田家宿老会議にて旧武田領切取次第の了解を得る

その後、浜松に帰還した徳川家康の下に、甲斐国人一揆により天正10年(1582年)6月18日に河尻秀隆が討ち取られた旨の報告が届きます。

旧武田領がいよいよ混乱してきたのを見た徳川家康は、これを好機と見て、織田家宿老によって行われる織田家の行末を決める会議の開催に先立ってその会議の決定に従う旨の誓紙を差し入れる一方で、旧武田領への侵攻についての織田家としての了解を求めます。

そして、同年6月27日に行われた織田家宿老会議(清洲会議)において、徳川家康による旧武田領への侵攻の同意が得られます(羽柴秀吉から徳川家康宛に正式な書状が送られたのは同年7月7日)。

清洲会議において旧武田領侵攻の了承を得た徳川家康は、同年6月28日に大久保忠世・石川康道・本多広孝・本多康重を増援として甲斐国に派遣し、甲斐国・信濃国の土豪や国衆の調略を進めます。

(6)徳川家康本隊が甲斐国へ侵攻(1582年7月9日)

そして遂に、徳川家康は、天正10年(1582年)7月2日、自ら浜松城を出陣して甲斐国に向かいます。

その後、徳川家康は、同年7月8日に駿河を経由して大宮(現在のさいたま市大宮区)に向かった後、同年7月9日甲府に入って新府城を本陣として七里岩台上に兵を展開させます。

(7)酒井忠次隊が信濃国へ侵攻

また、徳川家康は、自らが指揮する本隊とは別に、酒井忠次に軍を預けて伊那郡から信濃国へ同時侵攻させ、伊那郡の国衆を次々と調略していきます。

そして、信濃国伊那郡に入った酒井忠次は、小笠原貞慶を支援して深志城(現在の長野県松本市)を攻略し、続けて北条方であった高島城(現在の長野県諏訪市)を守る諏訪頼忠の調略に着手します。

もっとも、酒井忠次による諏訪頼忠の調略は失敗し、そればかりか深志城に入った小笠原貞慶までもが北条方に付いてしまいます。

怒った酒井忠次は、高島城を囲んで攻撃を開始したのですが、上杉軍と対峙していたはずの北条軍が南下してきたとの報を聞き、不利を悟った酒井忠次は撤退を開始します。

北条と徳川の戦いに集約

(1)北条軍本隊が南下(1582年7月29日)

天正10年(1582年)7月中旬、徳川軍の北上の報を聞いた北条氏直は、川中島で徳川軍と上杉軍とに挟まれることを危惧し、上杉景勝との和解交渉を開始します。

そして、北条氏直が上杉景勝の北信濃所領化を認めることを条件として上杉方と停戦に合意し、真田昌幸を殿に残して同年7月29日に北条軍本隊が川中島から撤退し、徳川家康本隊が布陣する甲斐国に向かって南進していきます(他方、北信濃の領有権を得た上杉景勝は、家臣の新発田重家が反乱を起こしたために同年8月9日、新発田城攻撃に向かうため、旧武田領切取戦から撤退します。)。

この結果、天正10年(1582年)8月以降の旧武田領切取戦は、北条と徳川の戦いに集約されていきます。

同年8月1日、信濃国佐久郡を通って諏訪郡に入った北条軍本隊は、撤退中の酒井忠次隊・大久保忠世隊の追撃に入るもこれを取り逃がしてしまいます。

もっとも、その後、北条軍本隊は軍を2つに分け、同年8月6日に北条軍本隊が甲斐国に入り、甲斐北西部に位置する若神子城(現在の山梨県北杜市須玉町若神子)に入ります。

また、本隊から分離された北条別働隊は、武田旧臣の内藤昌月・保科正直に率いられて信濃国伊那郡に侵攻し、上伊那を制圧してします。

(2)若御子対陣(1582年8月6日)

以上の結果、新府城の徳川家康と、若神子城の北条氏直という両軍の総大将が直接対峙することとなります(若御子対陣)。

このときは寡兵の徳川軍(2000人から8000人まで諸説あり)が、大軍の北条軍(2万人から6万人まで諸説あり)に取り囲まれつつあるという状況でした。

しかも、天正10年(1582年)8月10日には、北条氏忠・氏勝らの率いる別働隊約1万が秩父や八王子から甲斐国東部へ侵攻して甲斐国郡内などを制圧し、北条軍は徳川軍を東西から挟撃できる態勢を整えます。

以上の結果、天正10年(1582年)8月10日ころの時点では、徳川家康が信濃国下伊那と甲斐国の東部以外を制圧した徳川軍に対し、その周囲を北条軍が取り囲んでいく状況となっており、北条家が圧倒的に有利な戦局となります。

黒駒合戦(1582年8月12日)

そこで、北条方はこの有利な戦況下で徳川軍を一気に殲滅するため、天正10年(1582年)8月12日、谷村城(現在の山梨県都留市)に入っていた北条氏忠・北条氏勝ら率いる別動隊1万人に御坂峠を下らせ、これに合わせてて北巨摩・雁坂口からも進軍して3方面から甲府盆地に攻め入るという作戦を立案します。

北条軍からすると、大軍による徳川軍包囲殲滅戦の始まりだったはずでした。

もっとも、同日、伊豆国韮山城から出陣した北条氏規軍は、駿河国三枚橋城の攻撃に失敗して駿河方面(若獅子・北巨摩方面)からの攻撃はとん挫します。

また、雁坂口(東山梨)からの進軍はままならなかったため、北条軍別動隊による攻撃は、御坂峠を下ってきた北条氏忠・北条氏勝らによる単独攻撃となってしまいます。

そして、この北条軍別動隊に対し、徳川方は、新府城から鳥居元忠率いる1500人の兵を派遣して新田の山宮神社付近や撫台に布陣させ、勝山城・小山城などと連携して御坂峠を下ってくる北条軍を迎え討つこととします。

このときの両軍の兵力差を勘案すると、御坂峠を下ってきた兵だけでも1万人を擁しており、北条方が圧倒的に優位に見えるのですが、実際にはそれまでの調略が奏功して武田遺臣や領民が徳川方に与していたこともあって、必ずしも兵力差ほどの優位性はありませんでした。

また、寡兵であった徳川軍では奇襲作戦を立案し、領民の協力によって地の利を得たてこれに成功したため、北条軍別動隊に2670人とも言われる死者を出させるほどの大勝利を挙げます(黒駒合戦)。

この結果、北条方が大軍をもって徳川軍を包囲殲滅するという北条方の作戦上が失敗に終わります。

もっとも、局地戦に勝利したとはいえ、寡兵の徳川方から動くことは出来ず、双方動きが取れなくなって戦線が膠着します。

北条軍の兵站遮断(1582年9月)

その後、膠着した戦局を打破しようとした両軍が、甲斐・信濃の国衆達や相手方に与した諸将の調略を続けていったのですが、この後の調略戦は、直前の黒駒合戦に勝利した徳川方の優位に展開していきます。

天正10年(1582年)9月上旬には、本領安堵を条件として真田昌幸や木曾義昌(木曽谷・安曇郡・筑摩郡の安堵を条件として徳川家康に下り、信濃国衆から集めた人質を引き渡しています。)が徳川方に鞍替えし、依田信蕃と協力して碓氷峠を占拠して北条軍本隊の兵站を遮断します。

また、このタイミングで佐竹義重が上野国に侵攻して館林城(現在の群馬県館林市)を攻撃してきたため、北条軍は一気に苦しくなります。

また、この戦局を見た武田遺臣の多くは、同年8月21日から同年12月11日までと推定される期間内に数名から数十名のグループごとに起請文を提出し、次々と徳川家康に下っていきました(このとに提出された起請文の原本は現存していないものの、写本が存在するほか、多くの文献で言及されています。)。

同年9月25日、この苦境を打破して駿河方面からの兵站を確保するため、北条氏政が小田原城から兵を出し、三枚橋城(現在の静岡県沼津市)を攻略しようと試みたのですが徳川軍に三島で戦闘となって敗れ、作戦失敗に終わってしまいます。

徳川・北条の和議(1582年10月29日)

その後、天正10年(1582年)10月11日、若御子対陣のために北条軍本隊が甲斐国に釘付けとなって北条領国が手薄となっているのを好機と見た佐竹義重・宇都宮国綱らが、上野国新田・館林への侵攻を開始します。

また、佐竹軍は、同年10月21日には、下総国古河方面への進軍も開始します。

この結果、北条領国の全方面が戦線となったことから、北条家としてこれ以上甲斐・信濃戦線に大軍をとどめておくことができなくなります。

他方、北条軍本隊に対抗するために大軍を甲斐国にとどめておくことが得策でないことは徳川側も同様です。

こうして、北条・徳川の双方に厭戦感情が高まったため、同年10月29日、織田信雄織田信孝兄弟の調停により、徳川・北条間において、徳川家が甲斐国・信濃国を、北条家が上野国をそれぞれ切取り次第とする内容で和議が成立します(なお、北条家による上野国支配の合意に際し、徳川家康が、真田昌幸が獲得した沼田領を独断で北条家に割譲することを約束したため、後に大問題に発展します。)。

そして、この和議の証として徳川家康の娘である督姫が北条氏直の正室として差し出されることとなり、天正11年(1583年)8月15日、督姫が北条氏直に嫁いだことにより、北条・徳川間に縁戚関係を前提とした同盟が成立します。

天正壬午の乱の後

北条軍が甲斐・信濃から撤退

徳川・北条の和議成立に伴い、北条軍本隊が駐屯していた甲斐国郡内を徳川家康に引き渡すことにより北条軍は甲斐国から撤退します(なお、信濃国佐久郡については、督姫の婚儀に合わせて引き渡されることとなりました。)。

こうして北条家の圧倒的優位な状況下で始まった旧武田領切取戦(天正壬午の乱)は、調略と局地戦の勝利を積み重ねた徳川軍に戦局を覆され、終わってみれば徳川家康の大勝利で終わります。

徳川家による甲斐国配分

北条軍が撤退したことにより甲斐国全域を支配するに至った徳川家康は、甲斐国内の領地配分を行います。

まず、河内領は穴山信君の嫡男であった穴山勝千代に安堵して、郡内領に配された鳥居元忠と共に北条家への押さえとされます(なお、鳥居元忠は、一旦岩殿城に入った後、谷村城に移っています。)。

そして、甲斐国中央部にあり躑躅ヶ崎館を擁する国中領には甲斐郡代として平岩親吉が配され、甲府城に入って統治を進めていきます。

徳川家による信濃国平定

他方、信濃国では、本領安堵を条件として徳川家康に下っていた木曾義昌の木曽谷・安曇郡・筑摩郡、上杉景勝が入っていた川中島4郡は問題がなかったのですが、徳川・北条の和議後も徳川家康と在地勢力との戦いは続きます。

まず、北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城を摂取した徳川家康は、上田の真田昌幸への押さえとして、依田信蕃に武田旧臣900人をつけて同城に入れます。

その後、徳川家に下ることを良しとしない勢力がこの時点ではまだ北条方であった(信濃国佐久郡の引き渡しは督姫輿入れ時とされていたため)信濃佐久郡岩尾城主の大井行吉の下に集まったためにこれを攻撃した依田信蕃が戦死すると、信州惣奉行に任命された大久保忠世を小諸城に入りその後を引き継ぎます。

この後、大久保忠世が中心となって武田家の旧臣を積極的に取り立てると共に、武田家の制度をも取り込むことによって反発を封じ、信濃国平定とその統治を進めていきます。

なお、このとき取り込んだ武田家臣としては山県昌景の寄子であった赤備えの小幡衆が有名であり、これらを附属された井伊直政が以降、「井伊の赤備え」として徳川家臣団として大活躍してその名を轟かせています。

北条家による上野国支配の問題

他方、徳川・北条の和議により上野国支配権を得た北条家では問題が残ります。

上野国支配権を得たといっても、それは徳川と北条との間で勝手に決めただけですので、在地勢力からすると関係のない話です。

そのため、上野国でも対北条を掲げた小反乱が頻発します。

また、徳川家康が真田昌幸が獲得した沼田領を独断で北条家に割譲することを約束したため大問題に発展します(この結果、一旦は徳川家康に下った真田昌幸が上杉景勝と結んで徳川家康に反旗を翻すことにより第1次上田合戦にまで発展しています。)。

また、解決されずに残ったこの沼田領問題が名胡桃城事件に発展し、最終的には小田原征伐にまで発展していくのですが、長くなりますのでその話は別稿に委ねます。

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