【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。

徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。

そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。

三河一向一揆に至る経緯

徳川家康以前の西三河

三河国西部を流れる矢作川流域には、鎌倉時代以降に浄土真宗が広まり、さらにそれを進めた蓮如の教えである浄土真宗本願寺派寺院(一向衆寺院)である蓮如上人を開基とするする土呂本宗寺や、三河三ヵ寺(佐々木上宮寺、野寺本證寺、針崎勝鬘寺)を中心に多くの信者を集めていました。

また、これらの寺院を軸としてこれに百ヵ寺以上とも言われた末寺を加えて構成された寺内町(惣)によって、近辺の流通機構を掌握している状態でした。

端的に言うと、寺院を中心とする小さな独立国家を形成していたのです。

これらの浄土真宗本願寺派寺院には、徳川家康の家臣団にも帰依している者が多く、事態を複雑化させていました。

このように、西三河では浄土真宗本願寺派の力が強く、曹洞宗が強かった東三河とは異なる特徴がありました。

西三河におけるこれらの寺院の力は絶大なものがあり、徳川家康の父である松平広忠がこれらに守護不入特権を与えると、その後に三河国を治めた東海一の弓取り・今川義元ですらこれらの寺院に手出しすることを避けて守護不入特権を追認した程でした。

徳川家康岡崎城入城(1560年5月23日)

松平広忠の嫡男として生まれながら、織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれて、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられた徳川家康は、永禄3年(1560年)5月23日、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて岡崎城入城を果たします。なお、この頃は松平元康と名乗っていましたが、本稿では便宜上「徳川家康」の表記で統一します。

岡崎城に入った徳川家康でしたが、まずは迫り来る織田方の攻撃への対応が必要となります。

ここで徳川家康は、岡崎城の守りを固めるのではなく、織田領であった広瀬・梅坪・挙母・沓掛・刈谷(十八丁畷の戦い)・石ケ瀬などに次々と攻撃を仕掛け、美濃国・斎藤家と対峙する可能性がある織田方に嫌がらせを行い、その譲歩を引き出す作戦をとります。

織田軍の侵攻を防ぐべく織田方と戦い続けていた徳川家康でしたが、岡崎城に入ったばかりの徳川家康に単独で織田家と戦える国力があるはずがありません。

苦しい戦局を続ける徳川家康は、再三、駿府に使者を送って今川氏真に援軍要請を願い出ます。

ところが、永禄4年頃は越後の上杉謙信が関東平野を南進して北条氏康が守る小田原城に攻撃を仕掛けていた時期であり、北条家と同盟関係にあった今川氏真はその後詰のために東に軍を派遣していたことから西の三河国に割ける兵が存在していなかったため、今川氏真は徳川家康からの救援要請を黙殺します。

こうなると徳川家康としては苦しくなります。当然、家臣団からも不満の声が上がったものと考えられます。

そこで、正確な時期は不明ですが、徳川家康としても後詰を出さない主君に尽くす義理はないと考えて今川氏真を見かぎり、三河国で独り立ちする決意を固めてその準備に取り掛かります(徳川家康が明確な離反意思を示したのがいつであるかについては正確にはわかりませんが、今川氏真としては今川方の東三河の最重要拠点であった牛久保城を攻撃した永禄4年/1561年4月12日と考えていたようです。)。

他方、斎藤家との関係悪化に苦慮していた織田信長もまた、二方面作戦を嫌って織田家の同盟相手となっていた徳川家康の伯父・水野信元の縁を利用して徳川家康との和睦を進めこれを成立させます。

また、対斎藤家のために東側の安全を確保したい織田信長と、甲駿相三国同盟に従って関東に侵攻していた長尾景虎軍に対応するため北条氏康に援軍を送っていたために手薄となっていた今川家からの独立を計画し、敵(今川)の敵(織田)は味方という考えを持っていた徳川家康との思惑が一致し、ここから両家が旧接近していきます。

もっとも、今川家の人質であった徳川家康は、正室(築山殿)・嫡男(竹千代)・長女(亀姫)を駿府に残していたことから、今川家に対する足枷として残り続けます。

徳川家康が、今川家から独立することを宣言することを宣言すると、駿府に残してきた築山殿・竹千代・亀姫が、裏切者の妻子として処断されることが明らかだからです。

そこで、徳川家康は、妻子を取り戻す策を練りつつ、三河国の支配回復に取り掛かります。

今川家からの独立

徳川家康が、今川家へ配慮しつつも三河国内で勢力を伸ばしていくと、三河国内でも今川方を離れて松平方に転向する勢力が出始めます。

勢いに乗る徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日、東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。なお、このときの上ノ郷城攻略をもって概ね西三河全域を平定したと言えます。

鵜殿氏が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。

なお、この徳川家康による人質交換は、師である太原雪斎が天文18年(1549年)11月8日に織田家にいた徳川家康(当時は竹千代)を今川家に取り戻したのと全く同じ策でした。

一門衆を見捨てることができなかった今川氏真は、やむなく鵜殿兄弟の身柄と交換にて、築山殿・竹千代・亀姫を解放するという判断を下します。

この結果、築山殿・竹千代・亀姫が、ようやく徳川家康のいる岡崎に移ることとなり、妻子を奪還したことにより今川家と敵対しても問題がなくなった徳川家康は、正確な日時は不明ですが永禄5年(1562年)正月ないし3月、正式に織田信長と同盟を締結します(清洲同盟)。

この清洲同盟締結により、徳川家康は、正式に今川家からの独立を果たします。

西三河・奥三河を手中に

岡崎城の徳川家康が今川家から独立して織田信長と結んだことを知った奥三河の国衆は悩みます。

元々奥三河には今川家の影響力が強く及んでいたのですが、今川義元が失われたために今川家の力が大きく低下したため、このまま今川家に従属していると今川家と一緒に家が失われてしまう可能性があるからです。

ここで、奥三河の国衆であった野田城・田峯城の菅沼家などが新興勢力となった松平家(徳川家康)に下ります。

西三河支配上の問題点

こうして西三河・奥三河で大きな力を持っていくようになった徳川家康でしたが、ここで父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権が領国拡大の障害となります。

徳川家康が獲得したはずの地域の年貢が、徳川家康の下ではなく守護不入特権により浄土真宗本願寺派寺院に届けられることとなっていたため、領土拡大が経済力の向上に繋がらなかったからです。

三河一向一揆

一向衆蜂起(1563年)

困った徳川家康は、浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認するという決断を下し、これらに貢祖、軍役の賦課等を課すこととしたために永禄6年(1563年)に一向宗門徒が立ち上がり、三河一向一揆が始まります。

なお、三河一向一揆の切っ掛けとしては、以下の2つの説があり、いずれであったのかは必ずしも明らかではありません。

① 上宮寺端緒説

1つ目は、上宮寺端緒説です。

この説は、徳川家康が、永禄6年(1563年)、菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、三河三ヵ寺の1つである上宮寺に押し入って寺内の兵糧米を徴収したことに端を発したとする説です(東照宮御実紀巻二)。

この上宮寺発端説に対しては、菅沼定顕という家臣の実在が不詳であるとして、疑問視する見解もあります。

② 本證寺端緒説

2つ目は、本證寺端緒説です。

この説は、永禄6年(1563年)正月に本證寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛した行為が守護使不入特権の侵害であるとして、本證寺が蜂起したとされる説です(三河物語)。

以上のように、三河一向一揆発生については諸説あるため、正確な端緒はわかっていませんが、いずれにせよ永禄6年(1563年)に、守護不入特権を一方的に否認された浄土真宗本願寺派寺院が蜂起し、この動きに徳川家康に抗う勢力が便乗して起こったことに間違いはありません。

その結果、上野(酒井忠尚)、針先(勝鬘寺)、土呂(本宗寺)、佐々木(上宮寺)、六栗(夏目吉信)、東条(吉良義昭)、八面(荒川義弘)、野寺(本証寺)などが反徳川家康を掲げて次々と蜂起します。なお、これらの各勢力が共同していたのか、あるいは目的が同じであったもののそれぞれが独立して行動していたのかは不明です。

また、ここで、蓮如の曾孫であった本證寺第十代・空誓上人などが檄文を飛ばして一向衆門徒を招集し、菅沼定顕が守る砦に対する攻撃を開始したことから西三河が大混乱に陥ります。なお、西三河での一向宗寺院では土呂の本宗寺が最も格が高い寺院とされていたのですが、このときには同寺の住職であった実円が住職を兼任していた播磨国本徳寺にいたため、本宗寺ではなく三河三ヵ寺(佐々木上宮寺、野寺本證寺、針崎勝鬘寺)が中心となったと言われています。

松平家臣団の分裂

いずれにせよ、西三河において、領主(徳川家康)と仏(浄土真宗本願寺派寺院)とが争う形となったため、領民はもちろんのこと徳川家康家臣団もまた悩まされます。

領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のどちらを選ぶかという選択に迫られたからです。

このときに石川数正らはそれまでの一向宗から改宗して徳川家康に付き従うことを選んだのですが、松平家臣団では、それぞれの思想・思惑に従って、徳川家康に付き従う者、浄土真宗寺院側に付く者に分かれてしまいます。家ごとにというわけではなく、それぞれの家でも人によって分かれてしまうような状況となってしまいます。

こうして、松平一族や家臣団の中からも一向一揆方に与する者が出てきたため、徳川家康は一向衆だけでなく、家臣団とも戦わなければならなくなってしまったのです。

なお、一向一揆側に与した主な武将としては、松平家次、松平信次、松平昌久、吉良義昭、荒川義広、鳥居忠広、酒井忠尚、高木広正、榊原清政、大原惟宗、矢田作十郎、久世長宣、筧助太夫、内藤清長、加藤教明、石川康正、蜂屋貞次、夏目広次本多正信、本多正重、渡辺守綱などが挙げられます。

他方、本願寺教団とは関係が悪かった真宗高田派有力寺院であった桑子明眼寺・菅生満性寺は、一向宗側でなく徳川家康についています。

三河一向一揆の後

一向衆との和睦

こうして敵味方に分かれた松平家臣団でしたが、徳川家康方についた家臣団が、手分けして蜂起した勢力を次々と打ち破っていきます。

永禄7年(1564年)1月には、大久保一族が守る上和田砦を攻撃してきた一向一揆勢を撃退し、また、同年1月15日の馬頭原合戦に敗れた一揆方は、同年2月には主将格であった矢田作十郎が戦死したことで一気に勢力が衰退します。

苦しくなった浄土真宗方は、蜂屋貞次を代表者として、義父である大久保忠俊を通じて、徳川家康に対して和睦の申し入れを行います。

この申出に対し、徳川家康は、一揆主導者の除命、一揆参加者の赦免、守護使不入特権は元の通りとする三ヵ条の起請文を与えて一揆と和睦します。

一揆主導者の除命については、大久保忠俊が、徳川家康に対し、これを許して再度臣下として働かせれば、必ず徳川家康のために命を賭して働くと説得したことによるものでした(三河物語)。

また、一揆参加者の赦免についても、以降年貢を納める農民達を罰すると国力が低下してしまうため、それを避けたと考えることができます(この辺りは、約2万人を焼死させるなどした長島一向一揆の際の織田信長の対応と大きく異なります。)。

もっとも、守護使不入特権の元通りについては、普通に考えると理解できません。

元々、この守護使不入特権を否定するための戦いであったはずであり、優勢な立場にいた徳川家康が了承する必要がないからです。

ところが、これが徳川家康の策でした。

一向宗寺院の破却

前記条件を聞いた浄土真宗門徒達は、自分たちの意見が聞き遂げられた(守護使不入特権が認められていた頃に戻った)と考えて武装解除し、日常生活に戻ります。

ところが、徳川家康は、元通りとは、浄土真宗寺院が建つ前の原っぱに戻すという意味であると主張し、浄土真宗本願寺派寺院に他派・他宗への改宗を迫り、永禄7年(1564年)12月ころ、拒んだ一向宗寺院をことごとく破却してしまいます。

この結果、元々焼失していた本宗寺の御坊や、勝鬘寺の伽藍だけでなく、その他の一向衆門徒の信仰の拠り所が奪われます。

一向衆の弾圧

また、徳川家康は、僧侶や門徒達に浄土真宗本願寺派(一向衆)からの改宗を迫り、改宗に同意しない者は国外追放処分に処しました。

こうして、浄土真宗本願寺派寺院や僧侶を失い、また一向衆からの改宗を強制された三河国は浄土真宗禁制の地となります。

なお、三河国における浄土真宗禁制は、三河一向一揆が集結した19年も後の天正11年(1583年・小牧長久手の戦いが起こった頃)まで続くこととなりました。

離反家臣への寛大処分

他方、徳川家康は、一向一揆側に加担した家臣たちについては、寛大な処置を取り、一向一揆終結後も処分することなく家臣団として受け入れます。

この処分により、一向一揆側に与した家臣団が徳川家康への忠誠を尽くす意思を固め、家臣団の統制が進みます。

これにより、三河一向一揆は、譜代家臣の分裂が強固な団結に繋がることとなり、まさに雨降って地固まるという結果をもたらしました。

なお、このとき帰参した家臣団は、その後、徳川家康のために一命を賭して働きます。例として以下の家臣が上げられます。

①本多正信:後に大久保忠世の執り成しで帰参し重用され、徳川家康の参謀となる。

②夏目吉信 :三方ヶ原の戦いの際に徳川家康の身代わりとなって討死。

渡辺守綱 :徳川十六神将の1人、槍の半蔵と称され、後に徳川義直の付家老となる。

④蜂屋貞次 :徳川十六神将の1人。

そして、西三河の結束を固めて得られた経済力・軍事力によって東三河侵攻戦に着手して今川家勢力の駆逐に進むのですが、長くなりますので、以降の話は別稿で。

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