【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄

北近江の浅井氏は、元々守護・京極氏の被官だったのですが、下克上で主家を越え南近江守護の六角氏と戦って戦国大名に成り上がった大名家です。

一時は、織田信長と強い同盟関係にあって隆盛を誇りながら、勢いを強めていく織田信長よりも恩ある越前朝倉氏を選んで滅んだ悲劇の家でもあります。

本稿では、北近江において成り上がった戦国大名浅井氏の成立と、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの浅井氏の栄枯盛衰について、滅亡の原因となった元亀の争乱を中心に見ていきます。 “【北近江・浅井氏】下克上で戦国大名に成り上った北近江の雄” の続きを読む

【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰

越前朝倉氏は、但馬国の朝倉谷に生まれた後に越前へ入国した朝倉広景を祖とする国人衆から始まり、以後、朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。

名門のイメージが強い越前朝倉氏ですが、実際には応仁の乱を契機として下克上で泥臭く成り上がった一族であり、守護に任じられたこともありません。

本稿では、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの越前朝倉氏の栄枯盛衰について見ていきます。 “【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰” の続きを読む

【二条城は4つある】三英傑が築いた4つの二条城を順に紹介します

京都を代表する観光地である世界遺産・二条城ですが、現存する二条城の他にも複数の二条城があったことをご存じですか。

それ以前の屋敷の規模にとどまる大きさものを除外し、城と言える規模のものだけを抽出してもこれまでに4つの二条城が存在しています。

①足利義昭の旧二条城、②織田信長の二条御所、③豊臣秀吉の妙顕寺城、④徳川家康の二条城です。

以下、これらの4つの二条城の歴史を簡単に紹介します。 “【二条城は4つある】三英傑が築いた4つの二条城を順に紹介します” の続きを読む

【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、本圀寺に宿泊していた足利義昭を、織田信長によって畿内から追い出された三好三人衆が襲撃した大事件です。

発生した場所から六条合戦とも言われます。

それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。 “【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件” の続きを読む

【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、そのまま京に残って畿内の抵抗の排除を始めます。

最初のターゲットは、当時畿内を事実上掌握していた三好三人衆です。

織田信長は、上洛後、直ちに京のすぐ南側にあった勝竜寺城を囲みます。 “【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦” の続きを読む

【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長は、天下統一に向けて動き出します。

足利義昭という絶好の神輿を手にして迎えた上洛作戦の初戦は、南近江を治める六角氏です。

本稿では、この天下統一戦の始まりとなる、南近江攻略戦(観音寺城の戦い・箕作城の戦い)について見ていきます。 “【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦” の続きを読む

【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行

天下統一を果たして太平の世を築いた徳川家康。

もっとも、徳川家康の天下統一は決して順風満帆であったわけではなく、生涯何度も命の危機に晒されています。

絶体絶命だったと言われるものだけでも3つもあります。

三河一向一揆三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えです。

本稿では、このうち、神君伊賀越えについて見ていきます。 “【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行” の続きを読む

【島原の乱】幕府を鎖国へ導いた江戸時代最大の内乱

誰もが一度は耳にしたであろう島原の乱。

島原・天草の乱、島原・天草一揆とも言われる江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆です。

宗教戦争であるとか、厳しい年貢に反発した一揆であるとか様々な説が唱えられる戦いでもあります。

島原の乱により鎖国が始まり、以降明治維新に至るまでの江戸幕府の本格的戦争といえ、歴史的意味は絶大です。

本稿では、そんな島原の乱について、発生原因から、戦の経緯、事後処理について順に見ていきます。

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【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。 “【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝” の続きを読む

【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城

明石城については、JR明石駅からそびえたつ石垣や櫓が目の前に飛び込んできますので目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。建物自体の多くは現存していませんが、明治以降の旧藩士の働きかけや天皇の御料地候補となったことがあったため、多くの曲輪が残されていることも見どころとなっています。

もっとも、明石城は、天守が存在しなかったこと、近くに有名な姫路城があること、合戦経験がないために脚光を浴びることがなかったことなどの理由により知名度はいまいちです。

明石城は、江戸幕府による山陽道上の城郭整備の一環を担う姫路城に並ぶ超重要拠点であり、本来は注目を浴びてしかるべき城でありこの知名度の低さは本意ではありませんので、本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。 “【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城” の続きを読む