戦国時代、最強の精鋭部隊の代名詞であった赤備え。
赤備えは、軍団の編成・装飾の一種で、兵の頭のてっぺんから足のつま先まで(具足、兜、鎧、槍刀、手甲脚絆などから旗指物、陣羽織にいたるまで)の全てを朱色で統一した騎兵部隊です。
赤備え部隊は戦場で目立ちますので、当然的に狙われやすくなりますので、過酷や戦場を生き抜いてきた最精鋭部隊と認められていました。
以下、赤備え部隊として有名な四将についてその成り立ちから順に概略を見て見ましょう。
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備え(そなえ)とは
まず、赤備えの説明の前提として、その構成単位である「備」について簡単に説明します。
戦国時代以前の合戦では、律令制に基づく軍団制の時期を除き、領主が自身の治める領地から動員して兵を集めており、共同作戦が展開される場合であっても部隊編成が行われたり、緻密な作戦行動が行われたりすることはほとんどありませんでした。
これは、律令制崩壊以降は御恩と奉公という主従関係に基づいた、人的繋がりを重視する部隊編成を行わざるをえなかったためです。
そのため、源氏や平家という武家の棟梁と呼ばれる人物が大軍を率いるような場合であっても、それぞれの小領主が領民を率いて集まったものの集合体という存在にすぎず、いわば大軍の烏合の衆に過ぎず、合戦でもバラバラに戦うのが常識でした。
ところが、時代が下って戦国期になっていくと、小領を次々と併合して大領主となっていく者が現れ始め、これらの者はその領内で中央集権化を進めていき、動員できる兵も多くなっていきました。
また、頻発していく領国間の紛争に伴う恒常的な臨戦態勢が必要となり、足軽といった新たな戦力が加わってくると、大領主の中から、兵を各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などに編成した上で、戦闘可能な部隊として作り上げる者が現れ始めます。
このうち、部隊編成のうちで、その集団で独立した作戦行動を採れる基本単位とされたものを備(そなえ)と呼ぶようになりました。
イメージでいうと、近代軍の師団みたいなものです。
1つの備の人員は300〜800人、本陣備の場合は1500人前後であることが多いのですが、率いる者の石高等によって増減します。なお、余談ですが、石高1万石の領主を大名と呼ぶのは、1万石が自分の家臣だけで 1つの備を編成して作戦行動ができる最低石高であったことに起因しています。
戦国期になると、この備を強調するために甲冑や旗指物の色を統一する「色備え」が行われることもあり、赤備え以外では北条家の北条五色備などが有名です。
飯富虎昌の赤備え
赤備えの始まりは、武田信虎・武田信玄親子の二代に亘って仕えた飯富虎昌であったといわれています。 武田二十四将の一人であり、「甲山の猛虎」と恐れられる猛将です。
元々は武田信虎の重臣だったのですが、武田信玄が父である武田信虎を駿河国に追放する際に協力し信頼を得ます。 その後、板垣信方・甘利虎奏と共に武田信玄を支え、1548年(天文17年)、上田原の戦いで彼らが死亡した後は武田家筆頭家老として勇名を馳せます。
戦の際には常に最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城を長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の軍8000に囲まれた時には、僅か800の手勢で撃退し97もの敵の首級を挙げたとも言われています。 また、川中島の戦いの最激戦となった第四次川中島の戦いでは、別動隊の大将にも任じられています。
飯富虎昌は、当時としては珍しい騎兵だけで構成された軍団を率い、その構成員を次男以下とする切り込み隊として運用しました。なお、構成員から長男を外した理由は、家督相続の権利がないため、智恵か武功という実力によるしか栄達の道が無い者のみを選抜して死に物狂いの働きをさせるためでした。 そして、飯富虎昌は、戦場でひときわ目を引くよう、この切込み部隊に軍装全て朱色の装飾を施しました。なお、朱色が選ばれた理由は、元々、朱色が武士の中で特に戦功を挙げたものが主君からいただく「朱槍」をルーツとしており、槍だけでなく、軍装全てに拡大させて相手方に脅威を感じさせるという心理的効果を狙ったものとされています。 なお、俗説として、飯富虎昌の部隊は勇猛で、戦のたびに戦場で返り血を浴びたて真っ赤に染まるため、戦のたびに武具を洗い流さなければならなかったのですが、最初から武具が赤ければ戦のたびに洗い流す必要がないためだったとも言われていますが、眉唾物です。
そして、実際、飯富虎昌率いる朱色の騎馬部隊=赤備えは、その圧倒的な存在感と抜群の戦働きで、敵から恐れられていくようになります。
ところが、永禄8年(1565年)、武田家内で、武田信玄の嫡男ある武田義信が武田信玄暗殺を謀ったいわゆる義信事件が起き、武田義信の盛役であった飯富虎昌が連座して切腹するという大事件が起きます。なお、義信事件は失敗に終わるのですが、その理由が、飯富虎昌が弟である山県昌景(飯富虎昌と25歳もの年齢差があるため、弟ではなく甥であったとする説も有力です。)に事件を武田信玄に密告させたからとも言われており、そのいきさつにいろんな思惑が感じられますね。
そして、飯富虎昌が死亡したことにより、赤備え部隊の大将もまた失われることとなりました。
山県昌景の赤備え
永禄8年(1565年)に飯富虎昌が義信事件に連座し切腹すると、暗殺を防いだ功により飯富昌景が、武田譜代重臣であり後継ぎがなく絶えていた山県家を与えられ山県昌景と名乗るようになります。
また、このときに山県昌景が、飯富虎昌部隊から数十騎の騎兵と赤備えも継承しています。
山県昌景は、内政・外交などにもその才を発揮していますが、もっとも卓越しているのはやはり戦働きです。
元亀3年(1572年)の武田信玄による西上作戦の際も、山県昌景は、秋山虎繁らと別働隊を率いて信濃国・伊那郡から奥三河に侵攻して長篠城・伊平城などを陥落させた後に、遠江国の二俣城の戦いのために同城を攻囲していた信玄本隊に合流するなどの活躍をしています。
なお、『甲陽軍鑑』によれば武田家中では山県昌景の他、小幡信貞500騎、浅利信種120騎も2部隊も赤備えとして編成されていたようですが、飯富虎昌・山県昌景の両者が特に武勇に秀でて活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの評価を高めたと言えます。
もっとも、山県昌景は、天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで戦死し、またもや赤備え部隊の大将が失われることとなりました。
井伊直政の赤備え
天正10年(1582年)に武田氏を滅亡させた織田信長が本能寺の変により倒れたため、甲斐・信濃が統治者空白地帯となりました。
このときに、周辺大名達が武田遺領争奪戦(天正壬午の乱)が起きますが、甲斐国は徳川家康によって平定され、武田遺臣も併せて徳川家康に取り込まれました。
そして、このときに取り込まれた武田遺臣のうちの山県昌景配下の赤備え部隊が後に徳川四天王と呼ばれた徳川家の重臣の1人である井伊直政に割り当てられます。これにより井伊直政は、山県昌景にあやかって自分の部隊を赤備えとして編成しています。
その後、井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いにおける長久手合戦において左翼を担って大活躍するなどして、「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられれるようになりました。そして、以後幕末に至るまで井伊家が治めた彦根藩の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされています。
真田信繁の赤備え
大坂の陣に参戦した真田信繁が自分の部隊を赤備えに編成しています。
敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った真田信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせて真田の武名を天下に示すことだったと言われており、言うなれば、目立ってナンボの心情から、一際目立つ赤備えで整えています。なお、九度山から駆け付けた真田信繁に、軍を赤く染める財力があったとは考えにくいので、真田信繁が発案し、豊臣家がこれに便乗したということかもしれません。
もっとも、武田家由来の赤備えで編成した真田隊は、大坂の陣で大活躍します。
大坂冬の陣では、平野口に独立した出城(真田丸)を築いて、そこに徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功しています。
また、大坂夏の陣て、天王寺口の戦いで徳川家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵古よりの物語にもこれなき由」と『薩藩旧記雑録』(島津家)に賞賛される活躍を見せています。
最後に
赤備え部隊のいずれもが、一見してかっこいいことと、突出した武功を挙げているのが、赤備えの魅力です。
また、最終的に天下を統一した徳川家康が、生涯に二度だけ本陣を破られた戦いが2度あるのですが、いずれも赤備えが徳川家康に肉薄していることが、後世まで赤備えの勇名を轟かせた理由の1つなのではないでしょうか(三方ヶ原の戦いの際には山県昌景の赤備えが、大坂夏の陣の際には真田信繁の赤備えが徳川家康に迫っています。)。