【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦

備中高松城水攻めは、織田軍・中国方面軍司令官として毛利攻めを行っていた羽柴秀吉が、天正10年(1582年)に毛利家配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略した戦いです。

位置づけとしては、毛利家に服属する周辺国衆を駆逐した羽柴秀吉が、毛利直轄領に攻め込む初戦であり、堤防を築いて水攻めにしたことから、備中高松城の水攻めと呼ばれています(忍城の戦い、紀伊太田城の戦いとあわせて日本三大水攻めの1つに数えられています。)。

織田家の一軍団長に過ぎない羽柴秀吉が総力を挙げた毛利家を圧倒するという織田家の力を見せつける戦いとして始まり、途中で本能寺の変が起こって危機に陥った羽柴秀吉が巧みに戦を終了させて撤退し後の天下取りへつながる転換期となった戦いでもあります。

備中高松城の戦いに至る経緯

織田家と毛利家との手切れ

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、対抗勢力を駆逐していた後、対立するに至った室町幕府15代将軍・足利義昭を追放して(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおし進めていました。

そんな織田信長も、毛利元就の時代の毛利家とは友好な関係を築いていたのですが、毛利家が毛利輝元の代になると、毛利輝元が足利義昭を庇護したこと(鞆幕府)、反信長勢力となっていた石山本願寺と同盟したことなどにより、両家の関係が次第に悪化していきます。

そして、この関係は、天正4年(1576年)7月15日、織田信長による石山本願寺包囲戦の際に、毛利家が石山本願寺に補給物資を搬入するために勃発した第一次木津川口の戦いによって決定的に決裂します。

織田家による中国攻め

(1)羽柴秀吉の中国方面軍司令官就任

本願寺に与することにより織田信長と断交した毛利氏は、第一次木津川口の戦いの後、本格的に織田領へ進行するべく、山陽道から東進して上洛するルート(小早川隆景)、山陰道から京都の背後にせまっていくルート(吉川元春)、そして、海上から和泉国・摂津国に上陸するルート(毛利水軍・村上水軍)の三方面からの進攻作戦を開始します。

もっとも、対する織田信長が羽柴秀吉を中国方面軍司令官に任命して毛利軍との戦いに向かわせましたため、このときには合戦には発展しませんでした。

(2)播磨国攻略(1577年10月)

西に向かった羽柴秀吉は、まず当時の織田方の中国方面侵攻軍の最前線となっていた播磨国に入り、調略により小寺家家臣・黒田官兵衛を味方に引き入れ、その居城であった姫路城の提供を受けて毛利攻めの拠点とします。

その上で、臣下に下った黒田官兵衛の策や人脈を利用して宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略し、また、かつての播磨守護・赤松家配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを服従させていき、一旦播磨国全域を支配下に治めます。

(3)別所長治離反(1578年2月)

ところが、天正6年(1578年)2月、三木城主・別所長治が離反して毛利氏側についたため、順調に進んでいた羽柴秀吉の侵攻の足が止まります。

また、別所長治の離反に伴い、その影響下にあった東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、さらに浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

瀬戸内海を毛利水軍に制圧されているために制海権のない羽柴秀吉軍にとっては、陸路である西国街道のみが唯一の補給路となっており、この別所長治の離反により西国街道まで失っては戦えません。羽柴軍は窮地に陥ります。

羽柴秀吉は、急遽、西進作戦を中断し、裏切者の別所長治が籠る三木城を包囲しするとともに(三木合戦)、西国街道沿いの高砂城・魚住城などを攻略して荒木村重が治める花隈城までの西国街道上の兵站を繋ぎます。

これに対し、羽柴軍の目が東側に向いたと判断した毛利軍は、3万人の兵を動員して羽柴軍の西側の最前線となっていた上月城を包囲したのですが(上月城の戦い)、膠着状態を打破できない羽柴秀吉は、三木城攻略を優先して上月城を放棄したため、同年7月に上月城は陥落して尼子勝久が自害、重臣・山中鹿介も誅殺されて再興尼子家が滅亡します。

(4)荒木村重謀反(1578年10月)

苦しい状態の羽柴秀吉をさらに苦しめる事件が起こります。天正6年(1578年)10月、今度は、摂津国を治めていた有岡城主・荒木村重が離反したのです。

これにより羽柴秀吉は、またもや西国街道を押さえられて兵站が閉ざされ、さらに毛利軍と荒木軍に挟撃される立場となります(石山戦争の視点で見ると、摂津国が石山御坊の北西部に位置していたためここが失われると石山御坊への陸上補給路が出来てしまうことともなります。)。

一気に苦しくなった羽柴秀吉方では、翻意を求めるべく黒田官兵衛が有岡城にいる荒木村重の説得に向かったのですが、逆に荒木村重に捕らえられて有岡城に幽閉されてしまいます。

荒木村重の謀反に対し、織田信長が急ぎ有岡城を取り囲んで荒木村重の行動を封じたため、何とか羽柴軍の兵站がつながります(なお、その後天正7年(1579年)11月19日までかかってようやくこれを攻略します(有岡城の戦い)。)。

そして、天正6年(1578年) 11月6日に起こった第二次木津川口の戦いにおいて織田水軍が毛利水軍を撃破したことにより瀬戸内での織田水軍の活動が可能となったこと、三木城・有岡城包囲により陸上補給路を攻撃される危険がなくなったことなどにより、羽柴軍の兵站が回復します。

また、明智光秀が、天正7年(1579年)2月に八上城を、同年8月9日に黒井城を落城させて丹波国を平定し、そのまま丹後国も平定をしたことから、羽柴軍は北側の安全も獲得します。

(5)宇喜多直家調略(1579年10月)

天正7年(1579年)10月、調略により毛利家の傘下大名として活動していた備前国・美作国を治める宇喜多直家が毛利方から羽柴方に寝返ったため、前線が一気に西に移動し、備前・備中国境地帯が毛利軍と羽柴軍との最前線となります(なお、宇喜多直家は正9年(1581年)に病没し、後を継いだ幼少の宇喜多秀家が羽柴秀吉の猶子になったことから、宇喜多家は完全に羽柴秀吉の傘下に収まっています。)

また、天正8年(1580年)1月には、三木城も落城します。

さらに、陸上・海上補給路のいずれも失った石山本願寺は、天正8年(1580年)閏3月7日、織田信長との講和に応じ、10年間続いた石山戦争が終結し、同年7月20日までに石山御坊からの退去することなどを約します。

(6)鳥取城包囲戦(1581年6月)

石山御坊・三木城・有岡城が陥落して東側の危険が取り払われて兵站が回復したこと、備前国・美作国を治める宇喜多直家の寝返りにより西側に向かう橋頭堡ができたことにより東西の安全を得た羽柴秀吉は、ここで中国方面作戦を万全にするため、北側に向かって進軍していきます。

具体的には、羽柴秀吉は、三木城の包囲を残したまま、弟である羽柴秀長に但馬国に侵攻させ、味方に引き入れた宇喜多直家に美作国に侵攻させた上で、自身は因幡国への侵攻を開始します(3方面同時作戦となります。)。

羽柴長秀(後の豊臣秀長)率いる但馬国方面軍が、但馬国の水生城・有子山城を攻略し、但馬方面を概ね制圧します。

そして、羽柴秀長はそのまま西の因幡国に向かって行き、調略により東伯耆国の国衆であった羽衣石城主・南条元続が毛利方から織田方に寝返ったために毛利勢力から孤立することとなった城主・山名豊国の降伏により鳥取城を攻略し(第一次鳥取城攻め)、因幡国を征服します。

その後、天正8年(1580年)10月、山名豊国の降伏を承服できなかった山名家家老の森下道誉、中村春続が毛利家に助けを求めて、織田方との徹底抗戦を選んだため、再び鳥取城が毛利方の城となりますが、鳥取城の飢え殺しとも言われる凄惨な籠城戦(第二次鳥取城の戦い)の末、天正9年(1581年)10月25日にこれを陥落させます。

備中高松城の戦い

毛利直轄領への侵攻(1582年3月~)

以上の結果、織田軍により毛利直轄領の東側が完全制圧されたため、羽柴秀吉としても、ついに毛利直轄領への進軍準備が整います。もはや羽柴軍の侵攻を妨げる勢力はありません。

そこで、羽柴秀吉は、天正10年(1582年)3月15日、毛利直轄領へ侵攻すべく、2万人の兵を動員して姫路城を出て西に向かって進軍していきます。

そして、途中で宇喜多家のかつての居城であった亀山城(現:岡山市東区)に入って宇喜多秀家が味方することを確認した上で、宇喜多勢1万人を加えて総勢3万人で毛利直轄領へ向かっていきます。

毛利方による防衛ライン構築

毛利方としては、西進してくる羽柴秀吉軍に対する対応を強いられます。

それまでのような支配国衆達の領土への侵攻ではなく、毛利直轄領に対する侵攻ですので、毛利方も本気です。

毛利軍は、山陽道を西進してくる羽柴軍に対し、備前国と備中国との境に位置する吉備平野を縦断する足守川を防衛ラインと定め、足守川沿いの南北7城(備中七城:宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)の守りを固めます。

備中七城への順次攻撃(1582年4月)

山陽道を西進して備中七城にたどり着いた羽柴軍3万人は、備中七城を北から順に攻撃していき、宮路山城・冠山城を陥落させた後、天正10年(1582年)4月15日、小早川隆景の忠臣であった清水宗治率いるが5000人が籠る備中高松城に取りつきます。

備中高松城は、沼地・泥田などの低湿地内にある微高地にある平城で、水にぬれるために攻城戦に鉄砲を使用しにくく、また馬の足がとられるために騎馬突撃も使えないため、攻めるに難い堅城でした。

高松城包囲戦(1582年4月15日~)

備中高松城に取りついた羽柴軍3万人は、2回にわたって攻撃を加えたのですが、城兵の堅い守りに阻まれます。

力攻めが困難であると判断した羽柴秀吉は、三木城・鳥取城に続き、備中高松城に兵糧攻めを仕掛けることとします。

このとき、羽柴秀吉は、毛利輝元との直接対決に備えて、主君・織田信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせたのですが、織田信長からは丹波国を平定させた明智光秀の軍を送るので1日も早く備中高松城を落城させよという厳命が下ります。

織田信長からはっぱをかけられてのんびりと兵糧攻めをすることが出来なくなった羽柴秀吉は、低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取り、足守川をせき止めて水を引き入れるという方法により備中高松城を水攻めにすることとします。

備中高松城水攻め(1582年5月)

備中高松城水攻めの判断を下した羽柴秀吉は、直ちに足守川から水を引き入れるための堤防工事に着手し、本陣を置いた蛙ヶ鼻(石井山南麓)から門前村(現:JR吉備線足守駅付近)までの34丁(約3.7km)に亘る長大なものであっただけでなく、高さ7~8m、底部24m、上幅10mとされる巨大な堤防を築きあげます。

羽柴秀吉は、この巨大な堤防を、蜂須賀正勝を築堤奉行として同年5月8日に着工して僅か12日間で築いたと言われていましたが、当時の羽柴秀吉にこのような巨大な堤防を築く力があったと考えるには疑問が多く、もっと小規模なものであった可能性が指摘されています。

いずれにせよ、羽柴秀吉によって築かれた堤防により備中高松城に足守川から水が流れ込み、さらに梅雨の時期であったために降り続いた雨により高松城の周りに200haともいわれる湖が出現して備中高松城の周囲は水没し、備中高松城は孤島と化します。

備中高松城が水没していると聞かされた毛利輝元は、急ぎ吉川元春・小早川隆景らに兵1万人にて高松城の救援に向かわせ、岩崎山(庚申山)に吉川元春を、その南方の日差山に小早川隆景を布陣させます。

ところが、毛利軍が備中高松城手前に到達した時点で既に堤防は完成した上でその周囲に布陣しており、兵数の劣る毛利軍は、羽柴秀吉の築いた堤防と湖を前にして身動きがつかなくなります(毛利軍としても、九州に大友氏、参院に南条氏、瀬戸内に来島村上氏などの敵を抱えていたため、3万人もの羽柴軍に決戦を挑む余裕はありませんでした。)。

どんどん増してくる水量に動揺していたこと、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったこと、援軍に来たはずの毛利軍が一向に羽柴軍に攻撃をする気配がないことなどから、備中高松城内の士気はみるみるうちに下がっていきます。なお、毛利方でも、転小四郎(うたたこしろう)などの泳ぎの上手な者を使って備中高松城との連絡を取っていましたが、打開策は見つかりません。

毛利軍にとってさらに悪いことに、織田信長が、京で軍勢を整えて羽柴軍の援軍に向かう準備をしているとの報が入ったため、毛利氏の士気は戦線を維持できないほどに低下します。

毛利・羽柴の講和交渉

苦しくなった毛利軍は、軍僧の安国寺恵瓊を羽柴秀吉方の黒田官兵衛の下に派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示します。

もっとも、羽柴秀吉はこれを拒否し、「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん決裂します。

毛利方としては、軍僧・安国寺恵瓊を備中高松城に送って協議をしたところ、清水宗治が主家・毛利家の維持と城内の兵の命が助かるならと、自身と兄・清水宗知、弟・難波宗忠、援将・末近信賀の4人の首を差し出す代わりに城兵の命を助けてほしい旨の嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託します。

本能寺の変(1582年6月2日)

以上のとおり、終始戦局を有利に進めていた羽柴秀吉でしたが、事態が一変する事件が起こります(本能寺の変については様々な黒幕説があり、羽柴秀吉黒幕説まであるのですが、本稿では、羽柴秀吉が本能寺の変をいつ・どのように知ったのかについては通説に従うこととします。)。

天正10年(1582年)6月3日夜、前日に主君・織田信長が明智光秀の謀反に遭って横死したとの密書を持った使者を捕縛したのです。また、これを裏付ける今日の豪商・長谷川宗仁からの使者も到着します。

真偽不明情報である上、目の前に布陣している毛利軍への対応も必要となるため、羽柴秀吉は、羽柴秀長と黒田官兵衛を集めて軍議を開いた結果、織田信長横死の事実を隠して即座に毛利方と和睦して陣を払い、明智光秀を討つために京に戻るとの決断をします。なお、このときに黒田官兵衛が羽柴秀吉に対し、羽柴秀吉が天下を取る武運が開けたと囁いたとする有名な逸話があるのですが(老人雑話など)、真偽は不明です。

そこで、羽柴秀吉は、同年6月4日に毛利方の交渉窓口であった安国寺恵瓊を呼び寄せ、和解条件として河辺川(高梁川)・八幡川以東の割譲(それまでの5か国から、備中国・美作国・伯耆国の3か国に減らされています。)と清水宗治自刃を和睦の条件として提示します。

毛利方としても、これ以上羽柴軍と対峙しても勝ち目はないと判断し、羽柴秀吉から提示された条件を受け入れて、毛利・羽柴の間に和睦が成立します。

清水宗治切腹(1582年6月4日)

切腹することに決まった清水宗治は、羽柴秀吉から贈られた酒と肴で備中高松城内において別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じた後、身なりを整えます。

その後、清水宗治は、兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠(伝兵衛)、援将の末近信賀とともに羽柴秀吉から差し向けられた小舟に乗って羽柴秀吉の本陣まで漕ぎ杯を交わします。

そして、清水宗治は、羽柴秀吉の面前で舞を踊った後、「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害して果てます。享年46歳でした。

その後、清水宗知・難波宗忠・末近信賀も次々と自害し、さらに介錯人である國府市正も自刃して果てます。

この光景を見た羽柴秀吉は、清水宗治らを武士の鑑として賞賛しました。

備中高松城の戦いの後

羽柴秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、天正10年(1582年)6月6日昼頃、高松城に杉原家次を残して陣を払い、引き連れていた羽柴軍全軍に命じて山陽道を東進させ、京に向かって行軍を開始します。

このとき、羽柴軍は、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230 km を僅か10日間で踏破するという前代未聞の行軍を成功させます(中国大返し)。

他方、毛利方も、同年6月7日、雑賀衆を通じて本能寺の変の報を入手したのですが(吉川広家の覚書)、羽柴軍を追撃することはしませんでした。

そして、摂津国・山城国の県境にある山崎にたどり着いた羽柴秀吉は、同年6月13日、主君の仇である明智光秀を討ち果たし、天下人の階段を駆け上っていくこととなります。

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