甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)をご存知ですか。
戦国期の巨大3勢力である、今川義元・武田信玄・北条氏康において結ばれ、三者三様のそれぞれの思惑を吸い上げて天文23年(1554年)に完成し、多大な成果を上げたものの、新勢力の台頭に翻弄され永禄10年(1567年)の今川家による塩止めにて破綻した同盟です。
本稿では、そんな戦国の巨大軍事について、その成立に至る経緯からみていきたいと思います。
なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。
【目次(タップ可)】
甲相駿三国同盟締結に至る経緯
今川家の思惑
(1)武田家との関係
今川家と武田家とは、元々激しい領土争奪戦を繰り広げる敵対関係にあったのでが、武田家の家督が武田信虎の代になると、武田信虎が今川家(特に今川義元)に接近していきます。
そして、今川家において、天文5年(1536年)3月17日に駿河国にて今川家当主の今川氏輝が死亡し、また同年4月10日にその弟・彦五郎が相次いで急死した際に起きた今川家の内紛(花倉の乱)において、武田信虎は、今川氏親の嫡子である栴岳承芳(後の今川義元)方について勝利させ、新たな今川家当主に据えます。
この結果、今川義元は、自らに味方してくれた恩人である武田信虎との良好な関係となり、天文6年(1537年)2月10日には武田信虎の長女・定恵院が今川義元に正室として嫁いで婚姻関係を持つなどして武田家と今川家の間に同盟関係が結ばれます(甲駿同盟)。
もっとも、両家の縁戚関係は、武田信虎の長女・定恵院(今川義元室)の病死により天文19年(1550年)に失われています。
(2)北条家との関係
今川家は、元々足利一門の家柄にあり室町幕府の有力官僚であった伊勢盛時(北条早雲)と近しい関係にあったこと、今川義忠が北条氏の始祖である伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿を正室に迎えていたことなどから、今川・北条は良好同盟関係(駿相同盟)にありました。
ところが、北条家は、甲相国境において武田方と抗争を繰り返していたため武田家とは憎しみが深く、今川家が武田家と同盟(甲駿同盟)を結んだことが、今川家の関係が断絶します(駿相同盟の破綻)。
そこで、天文6年(1537年)2月、北条氏綱は、駿河国東部・河東地方への侵攻を開始し、富士川以東の河東地方を占拠します(第1次河東一乱)。
その後、天文14年(1545年)ころから、今川義元は北条氏に占拠されたままの河東を奪還すべく行動を開始し、同年11月初旬には太原雪斎を交えて誓詞を交し合い、河東の乱は収束します(第2次河東一乱)。
この結果、北条家としては、今川家との反目が一旦終了し、今川は遠江平定・三河侵攻を、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれたのですが、不信による緊張状態は消えていませんでした。
(3)北条家・武田家との同盟の必要性
武田家とは姻戚関係が切れ、また北条家とは不信による緊張状態が続いており、今川家としては、西への勢力拡大を進めるため(天文18年・1549年に西三河を取り込み、天文20年・1551年に織田信秀が死去したことにより尾張国への攻勢を進めていました。)、この武田家・北条家との関係を強化する必要に迫られていました。
武田家の思惑
(1)今川家との関係
甲斐盆地しか生産性ある土地を有さない国力の低い武田家としては、その生き残りの策としては外に領土を伸ばしていくしか方法はありませんでした。
ところが、武田家には、大国である今川・北条と事を構える国力はなく、そのため武田家の必然的に勢力拡大方向は、大大名のいない信濃国に向かいます。
今川家とは、前記のとおり、今川家とは、武田信虎の代からその縁を深めていきます。
その後、天文10年(1541年)6月14日、武田信玄(このときは武田晴信。)がクーデターを起こして、武田信虎を駿河国追放し武田家当主となったのですが、今川家との同盟関係は武田信玄に代替わりしても続きます。
もっとも、両家の縁戚関係は、武田信虎の長女・定恵院(今川義元室)の病死により天文19年(1550年)に失われています。
(2)北条家との関係
武田家当主が武田信虎であった頃は、武田家は、扇谷上杉家と結ぶなどして関東への進出をも模索していたのですが、武田家の家督が武田信玄に引き継がれると、その目は信濃国に向けられ、北条家・武田家間の緊張が薄れていきます。
ここで、信濃国に進出したい武田家と、関東に進出したい北条家との利害が一致し、天文13年(1544年)、両家に和睦が結ばれます(甲相同盟)。
そして、武田信玄は、翌天文14年(1545年)には、今川家・北条家間の第二次河東一乱を調停しすして両家に恩を売り、また今川・北条に山内上杉氏を加えた三者間での和睦を成立させるなどして外交上有利な立ち位置に収まります。
(3)今川家・北条家との同盟の必要性
今川家・北条家との同盟関係をも基礎として、諏訪盆地攻略→上伊那攻略→佐久盆地攻略と順調に信濃国に勢力を広げていった武田信玄でしたが、天文17年(1548年)2月14日、次に目標とした信濃国・上田の地で北信濃の雄・村上義清に大敗北を喫します(上田原の戦い)。
この敗戦によって求心力を失った武田家に対し、信濃国内で国衆の反乱が相次ぎ、武田信玄の信濃侵攻作戦が危なります。
このときの危機は、同年7月19日の塩尻峠の戦いで信濃国の最高実力者であった小笠原長時に快勝して信濃国衆達の求心力を取り戻したことにより脱し、武田信玄は信濃侵攻作戦を再開することができました。
ところが、天文19年(1550年)10月1日、武田信玄は、再度試みた上田攻略戦において、またも村上義清軍に大敗します(砥石崩れ)。
このときは、武田信玄自身も、影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われています。
その後、武田信玄と上杉謙信・村上義清との間で北信濃を巡る攻防戦が始まったことから、後顧の憂いを断ちこれに専念する必要性に迫られたことから、今川家との関係強化と、北条家との関係構築を目指します。
北条家の思惑
(1)今川家との関係
前記のとおり、北条家は元々、今川家と駿相同盟を結んで関東に進出し、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉氏や古河公方の足利氏と敵対していました。
ところが、武田信虎が甲斐国内統一を達成すると状況が一変します。
武田信虎が扇谷上杉家と同盟を結んで度々北条氏を攻撃すると共に、甲斐国内の国人領主を支援していた今川氏との敵対関係を解消して和睦し、天文6年(1537年)に今川義元と甲駿同盟を結んだからです。
甲駿同盟の締結により駿相同盟が破綻し、北条家と今川家との間で紛争が続発するようになります(河東の乱)。
その後、天文14年(1545年)11月初旬には太原雪斎を交えて誓詞を交し合い、河東の乱は収束したのですが(第2次河東一乱)、北条家・今川家の相互不信による緊張状態は消えていませんでした。
(2)武田家との関係
武田信虎は、甲斐国を統一した後、扇谷上杉家の救援要請に応じて甲相国境に近い国衆小山田氏の領する都留郡に進軍して北条家と敵対し、天文4年(1535年)には山中の戦いが勃発するなどしていました。
もっとも、武田家の家督が武田信玄に引き継がれると、武田信玄の目的が信濃国に向けられたため、北条家・武田家間の緊張が薄れていきます。
そして、信濃国に進出したい武田家と、関東に進出したい北条家との利害が一致し、天文13年(1544年)、両家に和睦が結ばれます(甲相同盟)。
なお、北条家としては、今川家との停戦及び武田家との甲相同盟の締結により東側の一応の安全が確保されたため、本格的に関東へ派兵できる状況ができ、河越城の戦いで旧勢力撃破につなげています。
(3)今川家・武田家との同盟の必要性
北条家は、天文15年(1546年)に河越夜戦の勝利により、武田・今川の連携を後ろ盾としていた両上杉氏・古河公方を駆逐し関東での支配圏を少しずつ広げていました。
もっとも、天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政が、居城である上野国・平井城を棄て、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り越後国へ逃亡し、後に関東管領職を譲ります。
関東管領職を得た上杉謙信は、その名の通り関東制覇を目指し、毎年のように関東に派兵してくるようになります。
上杉家の脅威にさらされることとなった北条氏は、関東支配のためには武田家や今川家との関係悪化は不利益と判断し、両家との同盟締結への道を模索するようになります。
甲相駿三国同盟締結
以上のように、今川家・武田家・北条家の思惑が交錯しつつも、3家の基本的な利害が一致したため、この3家で巨大軍事同盟が締結されることとなります。
善得寺会盟?(1553年)
この甲相駿三国同盟については、今川義元の軍師である太原雪斎が、主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説いた上で、中立の立場にある寺院として自身とも縁が深い駿河国の善徳寺(現在の静岡県富士市今泉)に今川義元・武田信玄・北条氏康の3人が集まって会合を行い、そこで太原雪斎が武田信玄と北条氏康をも説得して締結されたとされる説があります(善得寺会盟、「北条五代記」)。もっとも、この善徳寺会盟については、戦国大名が直に対面する機会はほとんどないこと、出典が資料的価値の低い北条側の軍伝のみであることなどから、善得寺会盟は創作であるとされるのが一般的です。
甲相駿三国同盟は、このような一回的な合意で成立したものではなく、以下の3つの婚姻の結合体として成立したと考えられています。
【甲駿同盟】今川家(嶺松院)→武田家(1552年11月)
甲相駿三国同盟の始まりは、今川家・武田家との同盟関係強化からです。
前記のとおり、武田信虎の長女・定恵院(今川義元室)の病死により、天文19年(1550年)に両家の縁戚関係が失われていました。
そこで、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文21(1552)年11月に、今川義元の娘・嶺松院が、武田信玄の嫡男・武田義信に嫁ぎます。
こうして、今川家・武田家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。
【甲相同盟】武田家(黄梅院)→北条家(1553年1月)
次に、武田家と北条家との同盟関係を強化するため、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文22(1553)年1月、武田信玄の娘・黄桜院と北条氏康の嫡男・北条氏政の婚約が決まります(実際の結婚は、同年12月でした。)。
こうして、武田家・北条家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。
【駿相同盟】北条家(早川殿)→今川家(1554年)
最後は、今川家と北条家との相互不信による緊張状態の解消です。
そのため、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、太原雪斎の仲介により天文23年(1554年)、北条氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡男・今川氏真に嫁ぎます。
こうして、今川家・北条家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。
甲相駿三国同盟の崩壊への序曲
甲相駿三国同盟を利用した勢力拡大
①今川家
甲相駿三国同盟により北側・東側の安全を得た今川家は、尾張国・織田家との攻防戦に突き進んでいきます。
②武田家
甲相駿三国同盟により南側・東側の安全を得た武田家は、更なる信濃国侵攻を試み、松本平攻略→念願の上田盆地攻略を経て、上杉謙信との攻防戦に突き進んでいきます。
③北条家
甲相駿三国同盟により西側の安全を得た北条家は、関東平野に勢力を拡大していくと共に、毎年のように侵攻してくる上杉謙信との戦いに明け暮れていくこととなります。
同盟崩壊のきっかけ
三者の利により縁戚関係をも利用して成立した甲相駿三国同盟でしたが、その利が失われると脆くも崩れていきます。
この崩壊のきっかけは、永禄3年(1560年)に起こった桶狭間の戦いでした。
この戦いで今川家当主・今川義元が討ち取られたのですが、これによりカリスマを失った今川家が大混乱に陥り、西三河の松平元康(後の徳川家康)の独立を許すなどして今川家が大きく勢力を減退させます。
そして、今川家が勢力を落としていく一方で、武田家は、甲相駿三国同盟を利用して信濃国の制圧を進め、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いにより信濃国支配は概ね完成に至り、越後国・上杉領と接したためにここで北進の限界を迎えます。
武田による同盟破棄画策
今川氏真が西三河を失い、続いて永禄6年(1563年)に遠州忿劇と呼ばれる国衆の大規模反乱が起きると、武田信玄は穴山信君の重臣である佐野主税助に対して秘かに反乱が駿河にまで広がるようであれば、今川家臣を調略して駿河に攻める計画を練っています。
さらに、その後も、武田信玄は、当主を失って混乱する駿河国を見て、甲相駿三国同盟を維持して越後国へ侵攻するよりも、甲相駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻するほうが利があると考えます。
そこで、武田信玄は、甲相駿三国同盟を破棄し、駿河国へ侵攻することを決定します。
武田家の織田家への接近
今川家に見切りをつけた武田信玄は、今川の敵である織田信長に接近します。
今川家を共通敵と明らかにしたのです。
そして、武田信玄は、永禄8年(1565年)、高遠領主・諏訪勝頼(武田勝頼)の正室として美濃国の国衆である遠山直廉の娘で織田信長の養女・竜勝院を貰い受け、織田家と縁戚関係を作り上げます。
甲相駿三国同盟の崩壊
甲駿同盟の崩壊
(1)今川家による武田家への塩止め
今川氏真は、父・今川義元を討ち取った織田信長と親交を深めて行く武田信玄を許すことができず、永禄10年(1567年)6月、今川氏真は甲斐への塩止めを敢行します。
塩止めは、海を持たない武田家には一大事であり、事実上の今川家から武田家への宣戦布告とも言える行為です。
なお、この後、塩を失った武田信玄に対し、越後国の上杉謙信から塩が送られてきたとする「敵に塩を送る」の有名な故事の由来となる出来事があったとも言われていますが、実際に塩が送られてきたかどうかは不明です。
そして、この塩止めにより甲駿同盟が終焉したといわれています。
(2)義信事件
今川家に対して強硬的態度をとる武田信玄に対し、今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えている武田義信が猛反対します。
もっとも、武田信玄は、武田義信の意見に耳を貸すことはなく、そればかりか永禄8(1565)年10月には、武田家において氏真妹を室とする信玄嫡男の義信が謀反を企てたとして武田義信を東光寺に幽閉し、2年後の永禄10年(1567年)に自害させ(義信事件)、嶺松院を今川家に送り返しています。
(3)徳川家に対する今川領国の分割提案
そして、武田信玄は、永禄11(1568)年ころ、徳川家康に双方から攻め込むことによって今川領を切り取ることにより、今川領の分割を持ちかけています(駿河国を武田の、遠江国を徳川の領有とする。)。
その結果、永禄11年(1568年)、武田信玄と徳川家康とが、共同して今川領国への侵攻を開始します(駿河侵攻)。
甲相同盟の崩壊
武田信玄は、徳川家康のみならず、北条氏康にも今川領国の割譲を持ちかけたのですが、伊勢宗瑞(北条早雲)の代から今川氏との友好関係があったこと、武田軍の侵攻により今川氏真の正室であった北条氏康の娘・早川殿が今川氏真とともに遠江国掛川城へ徒歩で逃げる羽目になったことに激怒し、駿相同盟を重んじて娘婿・今川氏真を保護すべく逆に対武田の援軍を駿河国に派遣します。
この結果、武田・北条間の甲相同盟も崩壊に至り、結果、甲相駿三国同盟は完全に終焉を迎えます。