足利義教(あしかがよしのり)は、足利義満の四男ないし五男として生まれ僧籍に入るも、その後にくじ引きによって選ばれて室町幕府第6代将軍となった人物です。
とてつもなく高い能力を持っていたと言われており、その能力を発揮して衰えゆく室町幕府の権威を取り戻したという成果を挙げました。
他方で、権力を集めてやりたい放題やったため万人恐怖政治と恐れられ、後の織田信長を超える魔王とも言われた暴君でもあります。
本稿では、波瀾万丈の人生を送った足利義教の生涯について見ていきたいと思います。
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足利義教の出自
出生(1394年6月13日)
足利義教は、応永元年(1394年)6月13日、室町幕府3代将軍・足利義満の子として生まれます。なお、少なくとも兄が3人(足利義持・尊満・宝幢若公)いたことはわかっていますが、足利義教の同年に誕生した異母兄弟である鶴若丸(後の足利義嗣)の誕生日が不明であるため、足利義満の四男であるか五男であるかが明らかとなっていません。
母は足利義満の側室であった藤原慶子であり、幼名は春寅といいました。
なお、足利義教は、名前が春寅(幼名)→義円(法名)→足利義宣→足利義教と変遷しているのですが、便宜上本稿では、足利義教の表記で統一します。
仏門に入る(1403年)
前記のとおり、足利義教には3人ないし4人の兄がいる上、正室・継室でもない母から生まれた足利義教が足利将軍家を継ぐことはないと考えられます。
そこで、足利義教は、お家騒動の種を刈り取るという理由で、武家の慣しとして若くして仏門に入ります(入れられます)。
応永10年(1403年)に青蓮院に入室した足利義教は、そこから仏教界の出世の階段を駆け上がっていきます。
応永15年(1408年)3月4日、足利義教の異母兄弟であった鶴若丸が従五位下に叙爵され、また足利義教が得度して「義円」と名乗ることとなったため、足利義教はこの日をもって足利義満の後継者候補から外れます。
天台座主となる(1419年11月)
その後、応永26年(1419年)11月、第153世・天台座主となり、若くして仏教界のトップに上り詰めます。
この大出世は、もちろん足利義教が室町3代将軍・足利義満の子供であったことによるものなのですが、理由はそれだけではなく、足利義教は、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれるほどの極めて高い能力を持っていたために将来を嘱望されていたことによるものでもあったそうです。
くじ引きによる将軍就任
第5代将軍足利義量死去(1425年2月)
応永32年(1425年)2月27日、室町幕府第5代将軍・足利義量が19歳の若さで死亡してしまったため、その後、4代将軍でもありかつ5代将軍の父でもある足利義持(足利義教の兄でもあります。)が代行して政治を行うこととなります。
このとき、足利義持には他に男子がいなかったため、本来であればすぐに血縁者の中から後継者候補を選出しておかなければならなかったのですが、このときに源氏の宗廟である石清水八幡宮での占いで、後に足利義持に男児が授かるとの回答が出たため、足利義持は後継者を定めることなく時間を過ごします。
先代将軍足利義持昏倒(1428年1月)
ところが、応永35年(1428年)1月、足利義持もまた病に倒れます(浴室で尻に出来た出来物をかき破った事により発熱を起こしたと言われています。)。
そこで、急ぎ時期将軍を決めないといけなくなったところ、足利義持には子がなく、弟(足利義満の子)として僧籍に入った成人男子4人(梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・青蓮院義円)がいる状態でした。
この状態で、この4人の中から誰を次期将軍とするかについての宿老による議論が重ねられますが、それぞれの候補者にはそれを後見する者がおり、これらの者の政争も相まって一向に結論が出ません。
困った室町幕府宿老は、足利義持の弟である4人の僧籍者の中から籤引きで次期将軍を選ぶこととしました。
議論して決まらないからと言って、籤引きで決めると言うのもどうかと思いますが、宿老会議の結果として将軍に選ばれたという形式をとってしまえば、当該当選者を推薦した宿老の力が大きくなってしまい、有力守護大名による連立政権であった室町幕府のバランスが崩れてしまう可能性があったため、その危険を回避しなければならないという判断があったのではないかと考えられます。
あるいは、この時点では管領達による合議で政治を行うことが慣例化していましたので、神輿にすぎない将軍など誰でもいいとの判断に至ったのかもしれません。
くじ引き(1428年1月17日)
そして、応永35年(1428年)1月17日、京都にある石清水八幡宮で籤が引かれ、見事(?)、足利義教が当選します。
足利義持は、一旦は将軍就任を固辞しますが、決まった事だからと室町幕府の重臣・大名達に強く説得され、やむなく応諾することになりました。
翌同年1月18日、昏倒していた足利義持が死去したため、幕閣は権力の空白状態を埋めるべく、足利義教の1日も早い将軍就任を望んだのですが、足利義教は元服前に出家したため俗人としては子供の扱いであり、さらに無位無官でもありました。
将軍宣下(1429年)
そこで、足利義教の髪が生えるまで待ち、応永35年(1428年)3月12日に足利義教は、還俗して名を「義円」から、「足利義宣(よしのぶ)」に改名した後、正長2年(1429年)、足利義教は、名を「足利義宣」から「足利義教」に改めて将軍宣下を受け、前代未聞の籤引き将軍誕生に至りました。
失墜した将軍権威の回復への途
将軍就任を果たした天才・足利義教は、父である足利義満のような強い権力を発揮したいと考え、黒衣の宰相として知られた三宝院萬済と共に失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活のために動きはじめます。
軍事力強化(奉公衆の再編成)
軍事政権たる室町幕府と将軍権威の再興については、まずは軍事力の整備が不可欠です。
軍事的な裏付けなしに強権発動などできるはずがありません。
そこで、足利義教は、まず手始めに武家政権の基盤である軍事力強化に乗り出します。
まず手始めに、有力守護に依存していたそれまでの軍事政策を改め、将軍直轄の奉公衆5つの軍団(番)に再編成し、番頭がこれを統率するシステムを構築することにより独自の軍事力を手にします。
そして、得られた軍事力をもって、室町幕府の勢力を高めていきます。
直接政治
そして、自ら得た軍事力を背景として、足利義教は、それまでの身分・家柄により固定化された評定衆・引付に代わって、足利義教が参加者を指名した上で主宰する御前沙汰を協議機関として、自らの権限を強めていきます。
次に、室町幕府ナンバー2である管領の力を削ぐことに尽力します。具体的には、それまで管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接諮問するなど、管領の権限抑制策を打ち出しました。
次に、管領を所務沙汰の場から排除する一方で、増加する軍事指揮行動に対処するために、軍勢催促や戦功褒賞においてはこれまでの御内書と並行して管領奉書を用いるようになりました。
さらに、足利義持の時代に中断した大国・明との勘合貿易を再開させ、財政強化にも務めました。
加えて、足利義教は、権威の象徴として、訴訟の仲裁についても制度改革を試みています。
権威を高めるための儀礼の復活
足利義教は、室町幕府の権威回復のため、父足利義満時代の儀礼などの復興をしています。
また、足利義教は、調停に対しても強い態度をとり、称光天皇死後の皇位継承問題を手がけたりもしています。
さらに、足利義教執奏のもとで、後花園天皇の新続古今和歌集の編纂を進めたりもしています。
卓越した他勢力制圧行動
延暦寺弾圧(1435年)
足利義教は、社寺勢力へも積極的に介入意思を示し、その最たるターゲットは、都のすぐ隣にある天台宗の総本山・比叡山延暦寺です。
当時の宗教勢力は、多くの荘園に基づく経済力を基にした一大軍事力を有する危険な存在であり、幕府政治を脅かす存在だったからです。
それまでにも、還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じて天台勢力の取り込みを図ったり、何度も比叡山延暦寺の制圧を検討したりしていたた足利義教でしたが、その度に仏罰を恐れた諸大名から反対意見が出て失敗に終わっていました。
そこで、ついに業を煮やした足利義教は、永享7年(1435年)、ついに延暦寺の有力僧4人を京に呼び出して斬首するという強硬策に打って出ます。
これは、元天台座主が天台宗の僧を処断することで、弾圧幕府の意に反する者は誰であっても処断することを示すという見せしめ行為でした。
なお、この報を聞いた延暦寺の山徒は激昂して抗議のため根本中堂に籠って足利義教を非難したのですが足利義教の対応は変わらなかったため、絶望した僧24名が同年2月に根本中堂に火を放って焼身自殺するという事件に発展します(永享の山門騒乱)。
このときの炎は京都からも見え、世情は騒然となったのですが、足利義教はその後に比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出し、実際にそのことを口にした者を処刑しています。
元天台座主であった足利義教が、俗人が持っている比叡山延暦寺に対する畏敬の念を持ち合わせていなかったことにより行われた行為でした。
また、足利義教は、この後比叡山において起こった事件の噂を禁じ、これに違反した者を斬首するという行動に出ます。
この足利義教の行動を見た伏見宮貞成親王(後花園天皇の父)は、この状況を、その日記(看聞御記)に「万人恐怖政治」と記しています。
北九州主要部の制圧(1435年)
足利義教は、周防国・長門国守護であった大内家の内紛に介入し、大内持世に大内家の家督を相続させます。
その上で、足利義教は、大内持世と山名時熙に命じて九州征伐を始めます。
永享5年(1433年)8月16日には筑前国・秋月城を攻略して少弐満貞を戦死させて少弐家を対馬に追い出し、永享7年(1435年)には大友持直を敗走させることにより北九州の主要部を平定します。
鎌倉府の廃止(1439年2月)
経済力・軍事力が乏しい状態で始まった室町幕府は、京に置かれた幕府だけで全国をあまねく統制することが不可能であったため、全国に守護・地頭を配置して幕府の支配を及ぼそうとしていました。よく言えば地方分権ですが、悪く言えば丸投げです。
また、西を室町幕府で、東を鎌倉府で統治するという2元政治構想の下、貞和5年(1349年)、関東に鎌倉府を設置し、そのトップである鎌倉公方(当時は、鎌倉殿と言われていました。)に足利尊氏の4男である足利基氏を据え、関東統治を任せました。
ところが、3代将軍足利義満が亡くなった後から、急速に室町幕府の力が衰え始め、これにより鎌倉公方の増長が始まり、永享10年(1438年)、4代鎌倉公方であった足利持氏がとうとう室町幕府に対して大規模な反乱を起こすという事態に発展します(永享の乱)。
足利持氏は足利義持没後に自分が将軍に就任できると信じていたのですが、その期待に反して将軍職についた足利義教を還俗将軍と呼び恨んでいたからです。
そんな折、関東管領上杉憲実が、鎌倉公方足利持氏との確執から職務を放棄して領国である上野国平井城に逃亡してしまうという事件が起こり、これを好機と見た足利持氏が、鎌倉から上野国に兵を進めるという事件が起こります。
もっとも、この事件を聞いた足利義教は、逆に鎌倉公方・足利持氏を討伐するチャンスであると考え、足利持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定した上で関東の諸大名に命じて足利持氏包囲網を結成し、その上で駿河国を治める今川範忠に指示を出して足利持氏の出陣によって留守となった鎌倉を攻撃させます。
また、足利義教は、上杉憲実にも鎌倉攻撃を命じ、永享11年(1439年)2月10日に足利持氏が自害に追い込まれて永享の乱は終わります。
足利持氏を亡き者とした足利義教は、鎌倉府を廃して、室町幕府による関東の一元支配を試みます。
このように、足利義教は、低下しつつあった室町幕府の中興の祖ともいえる卓越した働きを見せていった反面、その能力の高さに反し(あるいは、その能力の高さからか)、思いのまま政治を動かそうとし、暴君ぶりを爆発させていきます。
足利義教の最期
万人恐怖政治
強大な軍事力と卓越した政才によって比叡山や九州のみならず、室町幕府開幕以降の爆弾であった鎌倉府までも制圧した結果、足利義教に対抗できる勢力はいなくなります。
この結果、室町幕府将軍の権威を高めた足利義教は、その後も強圧的政治体制を崩さず、そればかりか、その恐怖政治体制はエスカレートしていきます。
足利義教の暴挙の例を挙げるといとまがありません。
当時流行していた闘鶏の観客により道が混んでいたために足利義教の行列が通れなかったことに腹を立て、京都中の鶏を放逐してしまったこともあります。
将軍の儀式の際に微笑んだ公家の者に対し、将軍を笑ったとして所領没収の上蟄居させたり、食事の際に酌をさせていた次女に対して、お酌が下手だと言って殴りつけて挙句の果てには尼にしてしまったこともあります。
やりたい放題です。
守護大名の抑圧
この傍若無人ぶりは守護大名たちの権力にも及びます。
前記のとおり、室町幕府はその成立時点からその基盤が脆弱であったため、将軍といえども細川氏・斯波氏・山名氏・赤松氏などの有力大名を押さえつけることができませんでした。
この点、足利義教の父3代将軍足利義満は立ち回りが上手で、これらの有力大名の中から突出した勢力を作らないよう、出る杭を小さい間に摘んでいくという方法で室町幕府を守っていたのです。
足利義教も、足利義満のやり方を見て、自分も有力大名をうまく操ろうと考えたのですが、その手段として有力大名の家督相続に積極的に介入することを採用しました。人事権があれば、その勢力に顔がきくという判断です。
そして、足利義教は、本来家を継げる立場ではない自分が気に入った人物に家督を継がせたり、分家を立てさせたりし始めます。足利義教の命で当主が暗殺されることまで起こります(足利義教の意に反した守護大名、一色義貫と土岐持頼は大和出陣中に誅殺されています。)。
この足利義教の動きは守護大名たちにとっては脅威となります。いつか足利義教によって自分の地位が奪われるのではないかという疑心暗鬼に苛まれるようになるからです。
そして、遂に、やられる前にやってやるという人物が現れます。赤松満祐です。
嘉吉の乱(1441年6月24日)
赤松家は元々播磨国の豪族であり、鎌倉時代末期の当主赤松則村(赤松円心)の代から足利尊氏に従っていた名門です。
また、赤松則村の子である赤松則佑はゲリラ戦の名人であり、足利尊氏が九州に落ちたときには播磨で新田義貞率いる朝廷の大軍を引きつけて城を守り切るなど、足利尊氏から絶大な信頼を得ていました。
以上の結果、赤松家は、室町幕府創設の功労家として室町幕府から代々厚い信頼を受けており、赤松満佑(赤松則佑の孫)の代には、足利義満からも播磨国・備前国・美作国の守護にも任じられています。
そんな赤松満佑は、足利義教と良好な関係を築いていたのですが、足利義教の守護大名抑制策が次々と実施される中、足利義教が、赤松満祐から守護の位を取り上げて、赤松貞村に与えようと画策しているとのこと噂を耳にします。
赤松満祐はこの噂に不安を掻き立てられ、やられる前にやろうと決心します。
赤松満祐は子である赤松教康を使者として足利義教に対し、結城合戦の戦勝祝いと京にあった自邸の庭に鴨が子を連れてやってきているので見て欲しいと告げ、足利義教に赤松邸への「御成り」を要請したのです。
謀反の企みを知らない足利義教はこの申し出を快諾し、嘉吉元年(1441年)6月24日、大名や公家を連れて赤松邸に赴いたのですが、このとき赤松満祐の部下に殺害されます(嘉吉の乱)。
万人恐怖の将軍のあまりにもあっけない最期でした。
赤松満祐は、足利義教の首を持って京を発ち(遺体は屋敷と共に焼いています)、一旦摂津国中之島でこれを供養した後、領国であった播磨国に持ち帰りました。なお、その後、足利義教の首は、相国寺の僧の求めに応じて京に戻されています。
この天下の室町幕府将軍が白昼堂々と臣下の屋敷で首を取られるという大事件により室町幕府の権威は地に落ち、応仁の乱をもたらす悲劇につながっていくこととなります。