【賤ヶ岳七本槍】賤ヶ岳の戦いで活躍して出世した7人というのは本当か?

「賤ヶ岳七本槍」を知っていいますか。

織田信長が死亡した後、その実質上の後継者の座を巡って、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉と名乗っていましたが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いにおいて、比類なき戦功を挙げたとされる豊臣秀吉子飼いの武将7人のことです。

この賤ヶ岳七本槍は名前こそ有名なのですが、なぜこんなに有名となったのかについては、はっきりしていないことも多くあります。

本稿では、賤ヶ岳の戦いの概略と賤ヶ岳七本槍の活躍(?)について解説していきます。

賤ヶ岳の戦いに至る経緯

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反による本能寺の変が起こり、織田信長とその嫡男である織田家当主織田信忠が横死します。

その後、山崎の戦いを経て、同年6月27日、当主を失った織田信長の時期当主後継者を誰とするか決める重臣会議が清洲城で行われます。いわゆる清洲会議です。

会議では、織田信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と当主織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じました。

会議の結果主君の仇をとった豊臣秀吉の言に重きがおかれ織田家をまだ幼い三法師が継ぐことに決まったのですが、その後、織田家内での、柴田勝家及び滝川一益と羽柴秀吉及び丹羽長秀の主導権争いが表面化し、それに加えて、織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝の対立との対立も加わって豊臣秀吉と柴田勝家との関係が悪化し、一触即発の状態となります。

そして、天正11年(1583年)2月、柴田勝家が、豊臣秀吉の横暴に耐えきれなくなり兵を挙げたことをきっかけに賤ヶ岳の戦いが始まります。

賤ヶ岳の戦い概略

余呉湖を挟んだ両軍の布陣と築城戦

 

兵を挙げた柴田勝家は、本拠地である北ノ庄城から出陣し、天正11年(1583年)3月12日、3万人の兵を率いて近江国柳ヶ瀬に布陣しました。

これに対し、豊臣秀吉は、同年3月19日、近江国木之本に5万人の兵で布陣します(なお、直前まで滝川一益が篭る長島城を包囲していた豊臣秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残しています)。

余呉湖を挟んで北部に柴田勝家が、南部に豊臣秀吉がそれぞれ布陣する形となったのですが、双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、睨み合いが1カ月に亘って続くことになります。

そして、この睨み合いの間に、両軍とも、防衛のための陣地や砦を盛んに構築しています。

豊臣秀吉本隊が美濃へ行軍

布陣後1か月ほど動きがなかったのですが、同年4月16日、豊臣秀吉の下に、織田信孝が伊勢の滝川一益と結んで挙兵し、岐阜城下へ進出したとの報が届きます。

これにより、豊臣秀吉は、滝川一益に対する伊勢戦線、柴田勝家に対する近江戦線、織田信孝に対する美濃戦線の3方面作戦を強いられることになりました。

このとき、豊臣秀吉は、まずは美濃戦線を抑えるという決定をし、柴田勝家を弟豊臣秀長に任せて自身は本隊2万5000人の兵を引き連れて翌4月17日に岐阜城の西に位置する大垣城まで移動します。

そして、この豊臣秀吉不在の報が、柴田勝家の養子であるものの先の敗北で豊臣秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣から、密かに佐久間盛政の陣にもたらされます。

ここで、柴田勝家が動きます。

佐久間盛政の奇襲

豊臣秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た柴田勝家は、佐久間盛政の申出を採用し、同年4月19日、佐久間盛政に中川清秀が守る大岩山砦を攻撃させます。

中川清秀は佐久間盛政の攻撃に耐えきれず、大岩山砦は陥落し、中川清秀は討死します。

勢いに乗る佐久間盛政は、続いて黒田孝高隊を攻撃しますが凌がれたため、攻撃目標を岩崎山に陣取っていた高山右近に変更し、これを木之本の羽柴秀長の下まで壊走させます。

その上で、佐久間盛政は、翌4月20日、桑山重晴隊を攻撃し、撤退を開始させます。

もっとも、このとき撤退する桑山重治軍に丹羽長秀軍が合流し、佐久間盛政と交戦に至ります。

豊臣秀吉の美濃大返し

 

ところが、佐久間盛政隊は、奮戦を続けていた4月20日夜、驚くべき光景を目にします。

大垣城に向かっていたはずの豊臣秀吉本隊2万5000人が木之本の陣に戻ってきたのです。大垣城にいた豊臣秀吉は、4月20日の午後2時ころに大岩山砦等の陣所の落城を知り直ちに軍を引き返させ、大垣から木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動して戻ってきました(美濃大返し)。

佐久間盛政は、丹羽長秀隊・桑山重治隊に加え,豊臣秀吉本体からも攻撃を受け、次第に厳しい戦いとなっていきます(もっとも、豊臣秀吉は、52kmを5時間で走破してきたために疲れ切っている豊臣秀吉本軍では佐久間盛政隊を直接は崩せないと判断し、佐久間盛政の実弟である柴田勝政に攻撃対象を変更したところ、この柴田勝政・佐久間盛政連合軍との激戦となっています。)。

そんな佐久間盛政隊に更なる悲劇が襲います。

前田利家の離反と柴田方の総崩れ

佐久間盛政隊の後方に位置し、本来であれば攻撃を受ける佐久間盛政隊の救援に向かうべき立場にいる前田利家が、事前の豊臣秀吉の内奥工作に応じて戦線を離脱して本拠地に戻ってしまったのです。

 

前田利家の退却を見た佐久間盛政隊は、後方の守りを失ったことにより士気が急降下し、豊臣方の猛攻撃をしのぎ切れなくなって佐久間盛政は撃破されてしまいます。

そして、その後、勢いに乗った豊臣軍は、一気に柴田勝家本隊を攻撃し、柴田勝家を越前・北ノ庄城に撃退し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉の勝利で終わります。

北ノ庄城・岐阜城・長島城の落城と柴田勝家・織田信孝自害

柴田勝家は北ノ庄城に逃れるも、同年4月23日、前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害します。

柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝も、豊臣秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、織田信孝は尾張国内海に移され、4月29日切腹しています。

賤ヶ岳の七本槍とは

以上、賤ヶ岳の戦いの概略を説明しましたが、七本槍は誰一人名前が出てきませんでした。

5万人対3万人の大戦争で、数名の若武者の話などが問題となるはずがありませんので、当たり前です。

では、賤ヶ岳の戦いで、賤ヶ岳七本槍は、どのような卓越した働きを見せたのでしょうか。

7本槍の7人とは

まず、賤ヶ岳七本槍が誰なのかから説明します。

賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉配下の中で、特に武功があったとされる以下7人です。豊臣秀吉から直接感状を与えられています(なお、このとき与えられた知行とともに紹介します。)。

①福島正則(1561年 – 1624年):5000石

②加藤清正(1562年 – 1611年):3000石

③脇坂安治(1554年 – 1626年):3000石

④片桐且元(1556年 – 1615年):3000石

⑤平野長泰(1559年 – 1628年):3000石

⑥糟屋武則(1562年 – 不詳) :3000石

⑦加藤嘉明(1563年 – 1631年):3000石

もっとも、賤ヶ岳の戦いにおけるこの7人の具体的な活躍内容ははっきりとしていません。

複数の若武者達が何千石もの知行を与えられる程の武功を続けざまに挙げていくとは到底考えられません。

大将首でも取ったのであれば別ですが,そうするとその記録が残されていないことは極めて不自然です。

本当は9本槍?

しかも、賤ヶ岳の戦いでは、以上の7人の他にも、豊臣秀吉から直接感状を与えられた人物があと2人いるのですが、この2名は七本槍から外されています。

⑨桜井佐吉(?~1586年)   :3000石

⑧石川兵助一光(?~1583年) : 戦死したため弟に1000石

もっと多くて14本槍?

さらに言えば、前記9人以外にも石田三成、大谷吉継、一柳直盛などが先懸之衆として最前線で武功を挙げたという記録もあり、賤ヶ岳の戦いにおいて七本槍又は九本槍が特に突出した働きをしたのかについては疑問もあります。

実際、七本槍とされる福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正が七本槍を話題にされるのをひどく嫌ったという逸話が残ったりしているなど、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたようにも見受けられます。

賤ヶ岳七本槍の真相

では、なぜ、活躍内容がはっきりしない賤ヶ岳七本槍がの武功がこれほどまで強調されたのか。

おそらくその真相は、豊臣秀吉が、賤ヶ岳の戦いにより事実上の織田家乗っ取りを果たして急速にその勢力・領土を拡大したため、その領国統治のために多くの家臣を必要とした時期だったのですが、元々上級武士の出ではなかったために、有力譜代家臣がおらず人手不足に陥ったためというのが正解です。

豊臣秀吉は、急拡大を続ける領国を治めるために、急ぎ小領主(中間管理職)を登用する必要があったため、自らの子飼いの武将達の戦果を過大に喧伝し、かれらに領地を与えて政権運営を担う小領主(中間管理職)に引き上げる目的があったと考えるのと賤ヶ岳七本槍伝説を最も自然に説明できます。

すなわち、賤ヶ岳の戦いがプロパガンダとして利用され、以降重用する理由付けとしてそこでひときわ高い武功を挙げたように喧伝された。これが、賤ヶ岳七本槍の真相です。

元々豊臣秀吉は、このようなカテゴリー区分が好きだったようで、天下統一後には、各大名臣下の武将の中から、武功や忠義を評価した小野鎮幸・本多忠勝・島津忠恒・後藤基次・直江兼続・飯田直景・吉川広家の七人を選出して、日本槍柱七本((にほんそうちゅうしちほん・日本七槍とも)とネーミングをしたりしていますので、豊臣秀吉からすると政治のための当たり前の行為だったのかもしれません。

さらに、豊臣秀吉以外にも、戦国武将たちは政治目的のために好んでこのようなネーミングをつけていたようです。代表的なものとして、以下の七本槍があります。

①小豆坂七本槍:小豆坂の戦い(1542年、1543年)で功名をあげた7人の織田家臣の武将。

②蟹江七本槍:蟹江城攻め(1555年)で功名をあげた7人の松平家臣の武将。

③姉川七本槍:姉川の戦い(1570年)で功名をあげた7人の徳川家臣(高天神衆)の武将。

④上田七本槍:第二次上田合戦(1600年)で活躍した7人の徳川家臣の武将。

⑤高鍋の七本槍:大垣城の戦い(1600年)で活躍した7人の秋月家臣の武将。

結局、数ある「何とか七本槍」の中から、福島正則や加藤清正が大出世を遂げたために、賤ヶ岳七本槍だけが後世にまで伝えられるような過大に有名にネーミングとなったものと考えられます。

自らの武功で名を挙げようと息巻く若武者が、プロパガンダのために自身の戦果を超えた大々的な宣伝がなされ、周りの人から冷ややかな目で見られる。

福島正則や加藤清正が、賤ヶ岳七本槍と呼ばれるのを嫌った理由が分かりますね。

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