日本三古橋は、飛鳥時代から奈良時代にかけて架けられたとされる古橋の中で、さらに歴史のある大きな3つの橋をいいます。
古来より「三大・・」が好きな日本人は、古代に架けられた橋についても日本三古橋と称してランク付けを行い、誰がどういう根拠で定めたのかは知りませんが、それらを三兄弟に例えて山崎太郎(山崎橋)、勢多次郎(瀬田の唐橋)、宇治三郎(宇治橋)と呼んで讃えました。
そこで、本稿では、それらの概略を簡単に説明していきたいと思います。
なお、文献上確認できる日本最古の橋は、仁徳天皇14年(326年)に架けられた猪甘津橋(鶴橋)とされているのですが(日本書紀)、この橋は日本三古橋に含まれておりません。
【目次(タップ可)】
山崎橋(山崎太郎)
山崎橋(やまさきばし)は、淀川に架かる、山城国山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)と橋本(現在の京都府八幡市橋本)とを結ぶ橋です。
淀川北岸の山崎と、石清水八幡宮とを結ぶ重要な動線となっていました。
架橋当初の山崎橋(725年架橋)
山崎橋は、神亀2年(725年)、行基の尽力により架橋されたと言われています。
その後の山崎橋
山崎橋は、大河に架かる巨大な橋であったが故に水害に悩まされ、洪水によって頻繁に流されては修復が行われました。
承和8年(841年)に洪水のために落橋したために修復がなされたのですが、嘉承元年(848年)に洪水によって再び河陽橋(山崎橋)が断絶して6間を残すのみとなったとの記録が残されています(日本文徳天皇実録)。
嘉祥3年(850年)に再架橋され、天安元年(857年)には橋守が置かれて守られたとされているのですが、11世紀にまた失われています。
その後、16世紀後半、文禄堤を整備して大坂と伏見を繋いだ豊臣秀吉により、当該道路と淀川北岸とを結ぶために再度架橋されたのですが、これもすぐに失われています。
現在
豊臣秀吉により架橋された山崎橋が失われた後は、山崎橋の再架橋は行われませんでした。
そのため、山崎橋があった場所の行き来は、昭和37年(1962年)に運航廃止となるまで渡船により行われました。
なお、余談ですが、かつての山崎橋の名残から、南側渡船場所付近(現在の京都府八幡市橋本)は橋本と呼ばれ、かつてはその利便性の良さから石清水八幡宮のお膝元として橋本遊郭が広がり賑わっていました。
瀬田の唐橋(勢多次郎)
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、瀬田川に架かる、滋賀県大津市瀬田と唐橋町とを結ぶ橋です。
東海道・東山道(中山道)方面から京に入るためには、琵琶湖を渡るか、南北いずれかに迂回するか、瀬田川を渡る必要があったのですが、大軍で通過するためには瀬田川を通るルートが最も有用でした。
この点、明治22年(1889年)までは、瀬田の唐橋が瀬田川に架かる唯一の橋であったことから瀬田の唐橋は交通の要衝かつ京の出入口となる防衛上の重要地とされ、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ幾多の戦いの舞台となりました。
架橋当初の瀬田の唐橋(670年代架橋?)
最初に瀬田の唐橋橋が架けられた時期は明らかとなっていません。
もっとも、昭和63年(1988年)に行われた瀬田川の浚渫事業の際に、現在の橋より約80m下流域(南側)において、長さ約250m・幅約7~9mと推定される規模の舟形長六角形の橋脚の基礎が発見され、このとき発見された橋脚跡の木材を年輪年代測定したところ、7世紀中頃から末期頃までのものと判断されたことから、大津宮遷都頃に架けられたものと推定されています。
なお、神功皇后摂政元年(201年)に忍熊皇子が瀬田の渡しで入水自害したという記録があることから(日本書紀・巻第9)、もっと早い時期に架橋されたとの説もあるのですが、橋があったとの記録はありませんので最古の橋の架橋時期は不明なのです。
その後の瀬田の唐橋
(1)古代
文献上、瀬田の唐橋が最初に確認できるのは、壬申の乱の最後の決戦場となった天武元年(672年)7月22日の瀬田橋の戦いについてのものであり(日本書紀・巻第28)、大友皇子が瀬田の唐橋の橋桁を外して待ち受けたものの、大海人皇子軍に突破されたと記載されています。
その後、天平宝字8年(764年)、反乱を起こした恵美押勝(藤原仲麻呂)が近江に入ろうとしたため、田原道(関津遺跡)を通って先回りした孝謙上皇軍が瀬田の唐橋を焼き落としたとされています(続日本紀・巻第25)。
(2)平安時代
平安時代に入ると、瀬田の唐橋は、近江国の国司の管理下に置かれて(延喜式・主税式)。同国の正税・公廨稲から拠出された勢多橋料1万料によって維持管理が行われました。
もっとも、貞観11年(870年)12月4日の火事(日本三代実録・巻16)、貞観13年(871年)4月4日の火事(日本三代実録・巻19)、貞観18年(876年)11月3日の火事(日本三代実録・巻29)、嘉保3年(1096年)11月の永長地震(中右記)により喪失するなどしています。
また、治承・寿永の乱での戦いの1つである寿永3年(1184年)1月20日には、平家を追い払って京に入った木曾義仲に対し、後白河法皇の要請を受けて木曾義仲を追い出すために鎌倉から進軍してきた源範頼・源義経率いる軍と交戦に至った戦いが勃発しています(このときは、源範頼が3万騎で今井兼平が守る瀬田を、源義経が2万5000騎で木曾義仲が守る宇治をそれぞれ攻撃しています。)。
なお、平安時代には、瀬田の唐橋は「瀬田の長橋」と呼ばれて歌枕として長いものの例えとされていました。
(3)鎌倉時代
承久3年(1221年)5月22日に鎌倉から北条泰時率いる軍が出発することにより始まった承久の乱では、その後、北陸道4万騎・東山道5万騎・東海道10万騎の三軍に分けかれて京に向かって進軍していきました。
このうちの東山道軍と東海道軍が垂井で合流し、後鳥羽上皇のいる京に向かって進軍していきました。
これに対し、後鳥羽上皇軍が防衛のために出陣し、前日の大雨により増水する瀬田川を前にし、瀬田の唐橋の中央二間の橋板を外した上で、楯を並べ鏃を揃えるなどして瀬田の唐橋を防衛ラインとして待ち受けました。
そして、同年6月13日、橋桁のみとなった瀬田の唐橋を強行突破しようとする鎌倉幕府軍と、これを防ごうとする後鳥羽上皇との間で戦いとなり、数に勝る鎌倉幕府軍の勝利に終わっています。
なお、その後の建武4年(1336年)には、足利直義率いる足利尊氏軍と名和長年率いる朝廷軍とが瀬田川を挟んで交戦に至っています。
(4)室町時代
また、観応元年12月4日(1351年)には、足利直義に与した伊勢国及び志摩国守護であった石塔頼房が挙兵すると、近江国で上野直勝らがこれに加勢して瀬田の唐橋まで到達します。
そのため、翌同年12月5日、これらの軍と近江国守護の佐々木氏頼・五郎兄弟の軍勢と合戦となり、この戦いで瀬田の唐橋が焼け落ちています。
(5)安土桃山時代
足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、本拠地である岐阜と京との導線を良くするため、本格的な瀬田の唐橋の改修を行います。
織田信長は、木村次郎左衛門と山岡景隆(瀬田城主)を架橋奉行に任命して瀬田の唐橋の改修工事を行わせ、天正3年(1575年)7月12日、両側に欄干と銅製擬宝珠を備えた長さ約324 m(180間)・幅約7.2 m(4間)規模の橋を完成させました。なお、このとき架けられた橋は、旅人にも利用されました(信長公記)。
天正10年(1582年)6月2日、謀反を起こした明智光秀が京・本能寺で織田信長を討ち取ると(本能寺の変)、京から安土城へ攻め来るのを防ぐ目的で瀬田の唐橋が焼き落されました。なお、瀬田の唐橋が落ちていたため、明智光秀が仮橋を架けて安土城に到達するのに3日間を要しました。
その後、山崎の戦で明智光秀を討ち取り、その後天下を統一した豊臣秀吉は、再び瀬田の唐橋の架橋工事を行い、このとき中島を挟んだ大橋と小橋の形とされました。
(6)江戸時代
江戸時代に入り、江戸幕府によって主要街道の整備がなされたのですが、瀬田の唐橋上を東海道が通る扱いとなったため、以降は瀬田の唐橋を膳所藩により維持管理されることとなり、瀬田川に瀬田の唐橋以外の橋を架橋することは禁じられました。
瀬田の唐橋は、古くから交通の要衝であるだけでなく名所として知られていたのですが、江戸時代に入って旅行ブームが到来すると観光地化し、数々の絵画や作品に登場するようになりました。
なお、歌川広重の浮世絵「近江八景・瀬田の夕照」などが、往時の唐橋の様子をよく伝えているものの1つといえます。
(7)明治以降
明治8年(1875年)12月に国により、明治28年(1895年)3月に県によって、橋の架け替えが行われたのですが、これらはいずれも木造橋でした。
その後、大正8年(1919年)の道路構造令公布を機に、より強固な橋への架け替えがなされることとなり、大正13年(1924年)6月に、大橋94.5間・小橋28.5間の鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました。
現在の瀬田の唐橋
そして、昭和54年(1979年)、長さ約223.7m(大橋172m・小橋52m)となる現在の瀬田の唐橋に架け替えられました。
その後、平成24年(2012年)、唐茶色に塗りかえられました。
宇治橋(宇治三郎)
宇治橋は、宇治川に架かる橋です。
かつては、京都府の南部(現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町にまたがる場所)に巨大な巨椋池があったため、同所在地が京と南都(奈良)を結ぶ古北街道(後の奈良街道)内の交通の要衝となっていたため、そこを円滑に通すために架橋されました。
架橋当初の宇治橋(646年架橋)
宇治橋は、かつて宇治橋のたもとに置かれ、現在は同寺に保管されている宇治橋断碑(重要文化財・上段:飛鳥時代のものといわれ江戸時代に境内から掘り出された、下段:帝王編年記の記載に基づき江戸時代復元)によると、大化2年(646年)に元興寺の僧・道登によって架けられたとされています。
他方、かつて宇治橋を管理していた雨宝山放生院常光寺(通称:橋寺)の寺伝によると、宇治橋は、推古天皇12年(604年)、聖徳太子の命を受けた秦河勝が宇治橋を架橋し、さらにその管理を行わせるために同寺が創建されたと伝えられていますので、架橋年を同年とする説もあります。
その後の宇治橋
(1)古代
古くから洪水による喪失と架け替えが繰り返されてきた橋であり、天智天皇6年(667年)に天智天皇の命により飛鳥から近江大津宮に遷都するに際して、朝廷の支援を受けた道昭が大津と飛鳥を結ぶ官道に相応しい宇治橋を架けたとされています。
(2)平安時代
架けかえの度にその規模・様式は変化しているものと考えられますが、延喜式によると、これが記載された当時の宇治橋は、「宇治橋ノ敷板、近江国十枚、丹波国八枚、長サ各三丈、弘サ一尺三寸、厚サ八寸」のものであったとされています。
前記のとおり、宇治橋の位置する場所が京と奈良との間の交通の要衝地であったため、歴史上、宇治橋を巡る戦いが何度も繰り広げられた場所でもあります。
とくに有名なのが、治承・寿永の乱での戦いの1つである寿永3年(1184年)1月20日の宇治川の戦いです。
この戦いは、平家を追い払って京に入った木曾義仲に対し、後白河法皇の要請を受けて木曾義仲を追い出すために鎌倉から進軍してきた源範頼・源義経率いる軍と交戦に至った戦いです(このときは、源範頼が3万騎で今井兼平が守る瀬田を、源義経が2万5000騎で木曾義仲が守る宇治をそれぞれ攻撃しています。)。
この戦い自体が治承・寿永の乱のハイライトの1つとして有名なのですが、その中でも特に佐々木高綱と梶原景季の宇治川の先陣争いの逸話が突出して有名です。
(3)鎌倉時代
承久の乱の1戦である承久3年(1221年)6月13日の瀬田の唐橋での戦いがあった翌同年6月14日、宇治方面に向かった北条泰時率いる鎌倉幕府軍と迎撃の後鳥羽上皇軍との間で戦いです。
宇治橋の戦いにおいても、瀬田の唐橋のときと同様に橋板が外されて骨組みだけとなっていたために鎌倉幕府軍が宇治川の渡河に苦慮したのですが、このときは北条泰時が近隣の家を打ち壊して筏を作り、宇治川の渡河を始めたため、大軍を防ぎきれなくなった後鳥羽上皇軍が敗走しています。
なお、宇治橋を描いたものとして残る最古のものは、鎌倉時代後期に描かれた石山寺縁起(石山寺蔵)であり、当時の宇治橋のみならず宇治の景観や人々の生活などが偲ばれます。
現在の宇治橋
現在架かる宇治橋は、平成8年(1996年)3月に架け替えられたものであり、長さ約155.4m・幅約25mの規模となっています。
現代に架けられた橋ではあるものの、歴史的に名高い橋であるため、宇治川の自然や橋周辺の歴史遺産と調和するように設計され、寛永13年(1636年)の刻印がある擬宝珠などを冠した檜造りの木製高覧という伝統的な形状が採用されています。
また、橋桁には、桁隠しや流木よけを配するなどして歴史を感じるための工夫がなされています。
さらに、宇治橋の中央部上流側には、橋の守り神である橋姫を祀る三の間が設けられ、そこから水を汲み上げてお茶をたてることに使われました。
なお、宇治橋の東詰には、狂言の「通圓」もモデルとなった平治2年(1160年)創業とされる日本の長寿企業第10位の通圓茶屋があります。