【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、そのまま京に残って畿内の抵抗の排除を始めます。

最初のターゲットは、当時畿内を事実上掌握していた三好三人衆です。

織田信長は、上洛後、直ちに京のすぐ南側にあった勝竜寺城を囲みます。 “【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦” の続きを読む

【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長は、天下統一に向けて動き出します。

足利義昭という絶好の神輿を手にして迎えた上洛作戦の初戦は、南近江を治める六角氏です。

本稿では、この天下統一戦の始まりとなる、南近江攻略戦(観音寺城の戦い・箕作城の戦い)について見ていきます。 “【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦” の続きを読む

【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行

天下統一を果たして太平の世を築いた徳川家康。

もっとも、徳川家康の天下統一は決して順風満帆であったわけではなく、生涯何度も命の危機に晒されています。

絶体絶命だったと言われるものだけでも3つもあります。

三河一向一揆三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えです。

本稿では、このうち、神君伊賀越えについて見ていきます。 “【神君伊賀越え】徳川家康が九死に一生を得た三河国への逃避行” の続きを読む

【島原の乱】幕府を鎖国へ導いた江戸時代最大の内乱

誰もが一度は耳にしたであろう島原の乱。

島原・天草の乱、島原・天草一揆とも言われる江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆です。

宗教戦争であるとか、厳しい年貢に反発した一揆であるとか様々な説が唱えられる戦いでもあります。

島原の乱により鎖国が始まり、以降明治維新に至るまでの江戸幕府の本格的戦争といえ、歴史的意味は絶大です。

本稿では、そんな島原の乱について、発生原因から、戦の経緯、事後処理について順に見ていきます。

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【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。 “【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝” の続きを読む

【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城

明石城については、JR明石駅からそびえたつ石垣や櫓が目の前に飛び込んできますので目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。建物自体の多くは現存していませんが、明治以降の旧藩士の働きかけや天皇の御料地候補となったことがあったため、多くの曲輪が残されていることも見どころとなっています。

もっとも、明石城は、天守が存在しなかったこと、近くに有名な姫路城があること、合戦経験がないために脚光を浴びることがなかったことなどの理由により知名度はいまいちです。

明石城は、江戸幕府による山陽道上の城郭整備の一環を担う姫路城に並ぶ超重要拠点であり、本来は注目を浴びてしかるべき城でありこの知名度の低さは本意ではありませんので、本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。 “【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城” の続きを読む

【足利義満】南北朝を合一した室町幕府第3代将軍

足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府第3代将軍として混乱を極めた南北朝の動乱を沈め、室町幕府の最盛期をつくった偉大な人物です。

もっとも、金閣寺を建てた人であるということ、アニメ一休さんに出てくる将軍様としては知られていますが、その詳細は意外と知られていません。

そこで、本稿では、波乱に満ちたその生涯について見ていきたいと思います。 “【足利義満】南北朝を合一した室町幕府第3代将軍” の続きを読む

【禁門の変】過激な攘夷思想で孤立した長州藩が朝敵となった戦い

崇高な思想を掲げて過激な攘夷運動を繰り返す長州藩が政権内で孤立し、ついには武力によって朝廷に働きかけようとして失敗に終わるという禁門の変(別名:蛤御門の変)とそこに至る経緯について、主に久坂玄瑞の目線から簡単に説明したいと思います。

なお、久坂玄瑞らが京都御所で戦っている間、桂小五郎(後の木戸孝允)も興味深い動きをしていますので、余談として禁門の変の最中の桂小五郎の動きについても見てみます。 “【禁門の変】過激な攘夷思想で孤立した長州藩が朝敵となった戦い” の続きを読む

【庚午事変・稲田騒動】なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのか

今は兵庫県の一部として当たり前のように認識されている淡路島ですが、歴史的に見ると徳島県である方が自然だったということをご存じですか。

淡路島は元々は淡路国といい、明治時代初期までは徳島藩・蜂須賀家の領地だったため、歴史的に見ると淡路島は兵庫県となるよりも徳島県となる方が自然だったからです。

では、なぜ淡路島は兵庫県の一部となったのでしょうか。 “【庚午事変・稲田騒動】なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのか” の続きを読む

【姉川の戦い】織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り岐阜と京の導線を確保した戦い

姉川の戦いは、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが最初に決戦をした合戦です。

正面衝突だったのか奇襲だったのか、はたまた大戦だったのか小競り合いだったのかなど、戦いの内容についてついては諸説ありますが、いずれにせよ織田信長が南近江の支配権と岐阜・京都の進軍ルートを取り戻し、さらには琵琶湖水運を得た戦であったことは間違いないありません。

本稿では、いわゆる旧来の通説を基に、姉川の戦いについて、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【姉川の戦い】織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り岐阜と京の導線を確保した戦い” の続きを読む