【朝倉宗滴】越前朝倉氏の事実上の当主と言えるチート武将

11代・戦国5代続いた越前朝倉氏の中で最も有能な武将である朝倉宗滴。

越前朝倉氏を戦国大名に成り上げたのが、7代・戦国初代朝倉孝景ですが、越前朝倉氏を大大名にしたの間違いなく朝倉宗滴です。

7代・戦国初代朝倉孝景の子ですが、当主でもない朝倉宗滴がどうやって越前朝倉氏を大大名としたのかについて、朝倉宗滴の生涯を追いながら見ていきます。

朝倉宗滴の出自

朝倉宗滴は、文明9年(1477年)、越前朝倉氏7代(戦国初代)当主である朝倉孝景の8男として生まれます。幼名を小太郎と言いました(その後、元服して朝倉教景、出家して朝倉宗滴へと名を変えますが、本稿では便宜上朝倉宗滴で統一します。)。

8男ではあったものの、仮名を父・孝景の仮名である小太郎と称していた事や、朝倉家歴代当主が名乗る「景」の字が諱の下にあること、諱そのものも曽祖父・教景、祖父・家景及び父・孝景が一時的に名乗っていた時期があったことから、嫡男として遇されていたと考えられています。

ところが、父の朝倉孝景が、斯波氏との戦いの最中の文明13年(1481年)に54歳で死去します。

嫡男扱いではありましたが、このとき4歳の朝倉宗滴に政などできるはずがありません。

そこで、越前朝倉氏の家督は、長兄の朝倉氏景(7代・戦国2代当主)が継ぐこととなりました。

朝倉宗滴の台頭

時を経て大人になった朝倉宗滴(幼名小太郎)は、元服して朝倉教景を名乗ります。越前朝倉氏5代当主と同じ由緒ある名です。

そして、敦賀城主であった朝倉景豊の妹を正室に娶ります。

元々越前朝倉氏を継ぐべき立場として育てられ、またその器量をも十二分に備えていた朝倉宗滴は、越前朝倉氏の当主の座を窺う気配を漂わせていました。

そんな中、越前朝倉氏で一大事件が勃発します。

文亀3年(1503年)、朝倉宗滴の義兄にあたる敦賀城主・朝倉景豊が、越前朝倉氏当主朝倉貞景(8代・戦国3代当主)に反旗を翻したのです。

朝倉宗滴の野心を知り、また親族関係にもある朝倉景豊は、当然に朝倉宗滴に協力を求めて来ます。

そして、朝倉宗滴は、一旦はこの求めに応じて、朝倉景豊側に立つ動きを見せます。

もっとも、朝倉宗滴は考え抜いた上で、越前朝倉氏側にとどまる決断をし、謀反の企てを朝倉家当主・朝倉貞景に密告して朝倉景豊の謀反の芽を摘みます。

自分より下の世代に家督が降りて行ったためにもはや自分が家督を継ぐ道はないと悟ったのか、はたまた分裂による越前朝倉氏の弱体化を防ぐためだったのか、理由については定かではありません。

ただ、妻の兄を売る結果になったのですから、朝倉宗滴にとっては苦渋の決断だったことは間違いないと思います。

そして、この朝倉宗滴の密告により、朝倉景豊は自害を命じられて朝倉氏の危機が去ります。

この功により、朝倉宗滴は、金ヶ崎城主を与えられて敦賀郡司に就き、越前朝倉氏の家督承継の夢を捨てて、以後死ぬまで当主を支え、朝倉家のために政務・軍務を尽くすこととなります。

事実上の越前朝倉氏当主としての活躍

一向一揆との戦い

越前朝倉氏よ当主を補佐する立場となった朝倉宗滴の名は、越前一向一揆との戦いにより、全国に知れ渡ります。

1467年の応仁の乱勃発時に加賀守護の富樫家が東軍・西軍に分かれて争いたのですが、この頃、浄土真宗本願寺派の宗主蓮如は、比叡山延暦寺による迫害から逃れようと、越前に吉崎御坊を建立しました。

浄土真宗本願寺派は、ここを拠点に北陸地方へ布教をし、浄土系諸門を次々に吸収するなど勢力を拡大していった後、1546年には尾山御坊が建立され、一向一揆は北陸一帯に拡大します(この後、加賀は、織田信長の家臣である佐久間盛政によって尾山御坊が陥落する1580年までの約100年もの間、浄土真宗本願寺派に支配されます。)。

そして、加賀を統治していた一向宗(加賀一向一揆)は勢力拡大を目論み、度々越前に侵攻してきます。

越前朝倉氏の側でこの一向一揆の対応に当たったのが朝倉宗滴です。

最も大きな戦いは、永正3年(1506年)7月に起こった九頭竜川の戦いです。

このときは、越前国に侵攻してきた30万人とも言われた一向衆を、朝倉宗滴率いる僅か1万1000人の兵力で押し返したというものです。

この戦いの勝利により、朝倉宗滴の名は全国に轟き、また家中での立場は絶対的になりました。

その後、永正14年(1517年)、若狭逸見氏と丹後守護代・延永氏の反乱を鎮圧するなど、数々の戦果を挙げていきます。

北近江・浅井氏との同盟へ

大永5年(1525年)、美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制するため、南近江守護の六角氏と協力し小谷城へ向かいます。

このとき、小谷城の南東部に曲輪(朝倉宗滴が築いたこの曲輪は、彼の諡号「金吾」の名から「金吾丸」と名付けられています。)を築いて5ヶ月間滞在し、六角氏と浅井氏の調停役を務めています。

このとき朝倉宗滴は、浅井亮政に有利に立ち回ったことで北近江・浅井氏の信頼を得たため、以後は越前朝倉氏と北近江浅井氏は固い絆で結ばれていくことになります。

朝倉宗滴上洛する

大永7年(1527年)、阿波の国人・三好元長(三好長慶の父)や細川晴元との政争に敗れて近江に逃れていた12代将軍・足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛し、三好勢らとの諸戦で勝利をおさめています(川勝寺口の戦い)。

これら朝倉宗滴の活躍により越前朝倉氏の地位は磐石なものとなり、中央での発言力も確固たるものとしています。

朝倉宗滴の晩年

朝倉宗滴は、大永7年(1527年)に養子の朝倉景紀に敦賀郡司の職を譲るも、引き続き軍奉行を務め、一向一揆への対応にあたります。

享禄4年(1531年)には、加賀の内紛(享禄の錯乱。大小一揆とも)に乗じて能登畠山氏と共に加賀に出陣したりもしています。

天文17年(1548年)、10代・戦国4代朝倉孝景が急死したため、16歳の若さで朝倉義景が越前朝倉氏当主になると、朝倉宗滴はこれを補佐します。

朝倉義景が越前朝倉氏11代・戦国5代当主となった後も、老将・朝倉宗滴は戦の前線に立ち続けます。

天文24年(1555年)7月21日、越後上杉氏の長尾景虎に呼応して加賀一向一揆を討つべく加賀に出陣したのですが、一進一退のまま長期戦となっていきます。

そんな中、朝倉宗滴は、陣中で倒れます。

朝倉宗滴は、総大将を朝倉景隆に任せて一乗谷に戻って療養しますが、老いには勝てず、天文24年(1555年)9月8日に一乗谷にて死去します。享年は79歳。法名は、月光院殿照葉宗滴大居士です。

なお、朝倉宗滴は、織田信長の才能を見抜いており、臨終の直前に「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と言い残したと伝えられています。

朝倉宗滴没後の越前朝倉氏の没落

朝倉宗滴は、朝倉貞景(8代・戦国3代当主)から朝倉義景(11代・戦国5代)まで、越前朝倉氏において4代当主を支え、政治的・経済的な繁栄をもたらしました。

また、軍事的にも軍奉行として朝倉軍を率いて数々の武勲を立て、また越後の長尾為景や長尾景虎(上杉謙信)とも書状を交わして音信を通じるなど外交まで任されていたことから、実質上の当主であったと言えます。

朝倉宗滴存命中は、周辺諸国も朝倉家に手出しはできず、朝倉家は全盛期を築いています。

そして、越前朝倉氏は、朝倉宗滴=朝倉家当主であったことをその死後に思い知らされることになります。

朝倉宗滴は、優秀な武将で、内政・軍事・外交の全てをほぼ1人で完結させていたため、優秀な後進が育ちませんでした。

また、朝倉宗滴は長命であったため、彼が亡くなる頃には、越前朝倉家草創期の功臣が1人もいなくなり、大国となった越前朝倉氏の運営に足りる器量を持つ人物がいなくなります。

この人材不足により、朝倉宗滴の死後、越前朝倉家は当主朝倉義景の下で、一族や家臣の内紛や一向一揆衆・周辺諸国の攻撃などを原因として衰退していきます。

そして、遂に織田信長の侵攻により、11代(戦国5代)続いた越前朝倉氏は滅亡に至るのです。

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