足利尊氏の旗揚げと六波羅探題攻略

鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった足利尊氏による六波羅探題攻略。

日本史の授業で名前は聞いたことがあると思いますが、結構マイナーに分野です。

本稿では、そもそも六波羅探題がなぜ設置され、どうやって滅んだのかについて見ていきます。

六波羅探題設置(1221年)

承久3年(1221年)、京に大軍を進めて承久の乱を制した北条義時は、以降、朝廷が鎌倉幕府に反旗を翻すことがないようにするため、承久の乱の鎮圧のためにに上京していた北条泰時と北条時房を京に残し朝廷の監視を命じました。

このとき、京に残った北条泰時と北条時房は、平家滅亡によって空き地となっていた六波羅の平家一門の屋敷跡に入ったのですが、北条義時は、北条泰時と北条時房に対し、六波羅で行っている鎌倉幕府による監視(より端的に言えば軍事力を基にした威圧)を継続させることとします。

そして、北条義時は、喉元に鎌倉幕府の軍事基地があれば朝廷が再び鎌倉幕府打倒の考えを起こさないと考え、京に置いていたそれまでの鎌倉幕府の役職であった京都守護を廃して新たに京に鎌倉幕府の軍事基地を置く=六波羅探題を設置することとしたのです。

そして、北条義時は、このとき京に残していた北条泰時と北条時房をその長に任命し、六波羅探題となります。

なお、六波羅探題のあった場所やその範囲は明らかとなっていませんが、平家一門の屋敷跡に入っていることから、北は松原通・南は五条通・西は鴨川、東は鳥辺野の手前までと推測されています(なお、探題と呼ばれたのは鎌倉末期からであり、それまでは単に六波羅と呼ばれていました。)。

この後、六波羅探題は、単なる朝廷監視機関から、西国監視機関、京の治安維持機関へと徐々に権限を拡張させ、以降100年以上の長きに亘って京における鎌倉幕府の出先機関(軍事基地)として君臨することとなります。

六波羅探題滅亡に至る経緯

後醍醐天皇即位(1318年2月)

六波羅探題滅亡のきっかけは、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画から始まりました。

後醍醐天皇は、文保2年(1318年)2月26日、両統迭立に従って大覚寺統の立場から31歳で即位したのですが、後醍醐天皇は、天皇中心の政治形態であった延喜・天暦の治を理想としており、臣下に過ぎない鎌倉幕府(のそのまた臣下の執権)が実権を握っていることを憂いていました。

そのため、後醍醐天皇は、天皇の政治力を取り戻すために関所を撤廃したりするなどの政治改革を始めていきますが、ことあるごとに鎌倉幕府が立ちはだかりこれを妨害します。

正中の変(1324年10月)

この度重なる鎌倉幕府の妨害を嫌った後醍醐天皇は、自分の理想の障害となる鎌倉幕府を解体しようと考え、日野資朝や日野俊基などの側近を集めて討幕計画を練り、鎌倉幕府に反対する勢力を味方に引き入れようと画策します。

まず、日野俊基を山伏に変装させて畿内を回らせ、反幕府勢力を取り込んでいきます。

次に、京に残った日野資朝は、京にいる武士や貴族たちを反幕府活動に取り込む活動を行います。

さらに、後醍醐天皇は、自身の子である護良親王を天台座主に据え、比叡山をはじめとする仏教勢力の取り込みをします。

こうして、協力者を集めた後醍醐天皇は、北野天満宮の祭礼の日に反鎌倉幕府のための挙兵することとしました。

ところが、ここで問題が起きます。

後醍醐天皇の討幕計画が、朝廷を監視していた鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題に露見したのです。

後醍醐天皇が討幕のために動いていると知った六波羅探題は、元亨4年(1324年)10月7日、兵を集めて反鎌倉幕府軍の制圧に向かい、まずは討幕派の多治見国長と土岐頼貞の屋敷を襲撃し両人を討ち取ります。

次に、暗躍していた日野資朝・日野俊基も捕縛されて鎌倉に送られましたが、日野資朝は佐渡島へ流罪、日野俊基は無罪とされます。

そして、当の後醍醐天皇は不問に付され、最初の後醍醐天皇の討幕計画は失敗に終わります。

元弘の乱(1331年8月)

懲りない後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)8月、再度の討幕計画を立てますが、これも鎌倉幕府に見つかります。

このときは、日野俊基は鎌倉に送られて斬首、日野資朝も斬首に処されます。

次は自分の番であると危険を感じた後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)9月29日、三種の神器を持って天然の要害である笠置山へ籠り、そこで周辺の武士を募って討幕の兵を挙げます。

このときに、後醍醐天皇の下に集った武士の1人が有名な楠木正成です。

笠置山の戦い(1331年10月)

この後醍醐天皇の討幕計画に対し、鎌倉幕府側も黙っていません。

直ちに六波羅探題から兵を出陣させ、笠置山を包囲します。

もっとも、笠置山は天然の要害であり、六波羅探題から出た幕府軍は、なかなか笠置山を落とせません。

そこで、六波羅探題軍は、鎌倉に援軍を要請します。

これに応じて、鎌倉から援軍が出陣します。

このとき出陣したのが、後の室町幕府初代将軍となる足利尊氏です(このときは足利高氏と名乗っていましたが、ややこしいので足利尊氏で統一します。)。

このとき、足利尊氏の父である足利貞氏の死亡直後の時期であり、喪に服していた足利尊氏は出陣に難色を示したのですが、鎌倉幕府はそんな足利尊氏側の事情は無視したため、足利尊氏にわだかまりが生まれます。

それにもかかわらず、このときは足利尊氏は意味のないものに終わります。

なんと、足利尊氏が笠置山に向かっている途中で、笠置山を囲む六波羅探題軍の夜討ちが成功し笠置山が陥落し、後醍醐天皇が捕まってしまったからです。

赤坂城の戦いと足利尊氏の上洛(1回目)

笠置山が陥落したことで笠置山までやってきた鎌倉からの上洛軍はやることがなくなってしまいましたので、しかたなく楠木正成が籠る赤坂城(下赤坂城)の攻略に向かいます。

このように何となくで始まった赤坂城の戦いですが、ここで幕府軍は大苦戦をします。

楠木正成軍は、城から石や大木を投げたり、熱湯・人糞を浴びせたりなど、当時の武士には予想もできないような様々な戦術を駆使し、1カ月間に亘って鎌倉幕府軍を翻弄し続けます。

もっとも、赤坂城自体は大きな城でもなかったため備蓄も少なく、1カ月の籠城で兵糧が尽きたため、楠木正成は赤坂城に火を放って赤坂城を放棄します(なお、このときの楠木正成の退却は、鎌倉幕府方に楠木正成が死んだと誤認識させることに成功するというオマケ付きでした。)。

こうして赤坂城を脱出した楠木正成は、再度鎌倉幕府軍にリベンジするため、野に潜んで力を蓄え、反撃の機会を練ります。

他方、鎌倉幕府方に捕まった後醍醐天皇は、皇位を無理やり光厳天皇に譲位させられ、京から遠く離れた隠岐島に流されます。

もっとも、島流しごときでは後醍醐天皇は諦めません。

後醍醐天皇は、隠岐島でひたすら討幕の機会を待ち続けます。

また、畿内でも、野に潜んだ楠木正成や、護良親王が反幕府運動を続け、その勢いは日ごとに増していきました。

なお、このとき、楠木正成は赤坂城近くに千早城をはじめとする多くの砦や城を築き、鎌倉幕府に備えます。

また、このとき、吉野にいた護良親王も、吉野城を本拠として3000人を従えて、挙兵します。

千早城の戦い

楠木正成・護良親王らの動きを見て、鎌倉幕府は、これらを鎮圧するため、再度鎌倉から鎮圧軍を向かわせます。

このとき、反鎌倉幕府方は、周囲に築いた砦・城群に籠城して対抗します。

もっとも、兵数に劣る反鎌倉幕府方は劣勢となり徐々に城が落とされていきます。

このとき、最初に上赤坂城が陥落します。

城を落とした鎌倉幕府軍は、上赤坂城に籠った兵士を一人残らず斬首刑に処して六条河原に晒したため、以降各城に籠った楠木正成軍兵士は死ぬまで戦う道を選びます。

次に落ちたのは、護良親王がいる吉野城です。

鎌倉幕府軍が吉野城を取り囲んだのですが、このとき重傷を負っていた配下の村上義光が身代わりとなって切腹をした隙に、護良親王は高野山へと落ち延びます。なお、落ち延びた後も、護良親王は、鎌倉幕府討伐の令旨を発布し続けます。

周囲の城を落とした鎌倉幕府軍は、全軍をもって残る楠木正成が籠る千早城を取り囲みます。

太平記によると、このとき楠木軍1000騎に対し、鎌倉幕府軍200万騎であったとされていますが、さすがに嘘だと思います。ただ、そう言わしめるほどの兵力差があったのは間違いないのでしょう。

しかし、数に任せて力攻めを行う鎌倉幕府軍は、またもや楠木正成の知略を巡らした籠城戦に翻弄されてなかなか千早城を落とせません。

その後、鎌倉幕府軍は、水攻めや兵糧攻めを試みたり、崖に橋を架けて新たなルートからの攻略を試みも効果は上がらず、いたずらに時間が過ぎていきます。

寡兵の千早城に対して、多勢の鎌倉幕府軍が手こずっているとの情報は、全国各地に知れ渡り、どんどん鎌倉幕府の威光が低下していきます。

それと同時に、千早城を囲む軍の中からも、囲みを解いて自分の領地に帰り始める武士が出始めます(このとき、鎌倉を滅ぼしたことで有名な新田義貞も、仮病を理由として千早城から自国へ帰国しています。)。

こうなってしまうと、もはや千早城攻めを維持することができなくなります。

赤松則村の挙兵(1333年1月)

元弘3年(1333年)1月21日、播磨国の赤松則村(赤松円心)が、護良親王の令旨を受けて、鎌倉幕府打倒のために挙兵します。

挙兵した赤松則村は、播磨国から京に向けて東進していきます。

このとき、赤松則村に感化された山陽勢・別途蜂起した四国勢がいたため、鎌倉幕府は西国から防衛のための兵を募ることができませんでした。

後醍醐天皇の隠岐島脱出(1333年2月)

この千早城攻めの失態とそれに起因する鎌倉幕府の威光の低下を見た後醍醐天皇は、鎌倉幕府討幕のチャンスが到来したと判断し、千草忠顕の引率により、危険を冒して隠岐島を脱出します。

船で隠岐島を出た後、風に乗って南下した後醍醐天皇は、元弘3年(1331年)閏2月24日、現在の鳥取県にあった名和の港に到着します。なお、後醍醐天皇の御着船地点は東西2つの説があり、いずれが真実かは今となってはわかりません(西側の地点には、後醍醐天皇が着船時に腰を掛けて休んだとされる御腰掛の岩が残っていますので、どちらかというと西側の説が有名です。)。

名和の港に上陸した後醍醐天皇は、力を持つ周囲の武士を探します。

後醍醐天皇は、周辺で海運業を営んでいた名和長年を見つけて味方に引き入れ、150騎の名和軍と共に船上山に陣取り鎌倉幕府討伐の綸旨を発し、討幕準備を始めます。

このとき、隠岐島から、後醍醐天皇を追ってきた鎌倉幕府方の佐々木清高ら3000騎が追いつき、元弘3年(1333年)4月24日、船上山で戦いが始まりますが、兵数に劣る後醍醐天皇方が勝利するとの結果に終わります(船上山の戦い)。

隠岐島から脱出した後醍醐天皇に鎌倉幕府軍が敗北したとの情報は、たちまち全国に知れ渡ります。

そして、寡兵の千早城すら落とせない鎌倉幕府軍に見切りをつけ、新たな神輿となる後醍醐天皇を知った西国の武士たちは、次々と後醍醐天皇の下へはせ参じます。

そして、この後醍醐天皇の動きに西国武士が呼応し、西の後醍醐天皇軍と、東の鎌倉幕府軍との衝突が起き始め、止められない討幕のうねりが起こります。

足利尊氏の上洛(2回目)

討幕運動が始まる中,焦った鎌倉幕府は、またも足利尊氏を派遣してその鎮圧を試みます。

またもや鎌倉を出発させられた足利尊氏は京に向かって西進していきます。

ところが,足利尊氏は、京を通過してそのまま西進し、元弘3年(1333年)4月27日、源氏の氏神である八幡大菩薩を祀る篠村八幡宮に到着します。

そして、2日後、足利尊氏はこの篠村八幡宮で歴史を変える一大判断をします。

六波羅探題滅亡

足利尊氏旗揚げ(1333年4月29日)

足利尊氏は、篠村八幡宮の地で反鎌倉幕府の立場を表明して後醍醐天皇方に寝返ります。

討幕の決意を表明した足利尊氏は、戦勝祈願の願文を神前で読み上げてその願文に添えて鏑矢を1本神前に奉納し、その後、弟の足利直義、吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も続いて矢を一本ずつ納めて必勝を祈願したそうです。

なお、このとき諸将が納め矢は段々と積み重なり、最後には塚のようになったそうです。

篠村八幡宮の境内には、このとき奉納された矢が埋葬されたと伝わる矢塚の跡が残されています。

鎌倉幕府打倒を決めた足利尊氏は、全国の武士に密書を送り協力を要請します。

足利尊氏の要請に応じて続々と反鎌倉幕府の武士が集まり、その数は2万人を超えたと言われています。なお、このとき駆けつけてくる武士の目印とするため、篠村八幡宮の境内にある楊の木に足利家の家紋「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられています。

足利尊氏は、東進してきた赤松則村ら周囲の反鎌倉幕府勢力をも取り込み、大軍を率いて京の鎌倉幕府勢力の拠点である六波羅探題を目指します。

六波羅探題陥落(1333年5月7日)

京に到着した足利尊氏は、かつて大内裏があった場所に陣を敷き、京の中で起こる小競り合いを鎮圧しながら六波羅探題に向かって軍を進めて行きます。

六波羅探題にたどり着いた足利尊氏は、東側のみ開けて六波羅探題を取り囲みます。

大軍である足利尊氏軍に囲まれた六波羅探題では、勝ち目がないと考える兵が次々に開けられた東側から逃亡していきます。

六波羅探題を任されていた北条仲時と北条時益は、逃げていく兵を見て籠城戦でも勝ち目がないと判断し、六波羅探題の放棄を決めます。

そこで、北条仲時と北条時益は、光厳天皇・花園上皇・後伏見上皇を連れて六波羅探題を出て鎌倉を目指します。

もっとも、途中で北条時益は討死し、北条仲時は自刃して果てます。

北条仲時に従って落ちてきた武士もまた、北条仲時を追って次々と自刃し、六波羅探題は滅亡します。

そして、六波羅探題の滅亡と同時に、千早城攻めをしていた軍勢も散り散りに逃げ、畿内は完全に足利尊氏に制圧されます。

鎌倉幕府滅亡(1333年5月22日)

その後、反鎌倉幕府の流れは鎌倉にも波及し、新田義貞によって鎌倉が陥落し、北条高時をはじめとする北条氏一門が東勝寺で自刃して鎌倉幕府は滅びます。

その後、京に戻った後醍醐天皇によって建武の新政が始まります。‎

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。