【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟

豊臣秀長(とよとみひでなが) は、豊臣秀吉の実弟です。

短期間で異例の出世を遂げる豊臣秀吉の傍らにあって、軍事・政治面で天下統一事業に大きく貢献しただけではなく、温厚な人柄によって家臣団や諸大名との調整役を務めるなど豊臣政権にとってなくてはならない立場にあった人物です。

また、豊臣秀吉に異を唱え、その制動を制御できる唯一の人物でもありました。

最終的には、大和国・紀伊国・和泉国と河内国の一部に及ぶ110万石を超える石高を領する大大名となり、また従二位権大納言となって大和大納言と尊称される出世を遂げています。 “【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟” の続きを読む

【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、織田信長が本能寺の変で横死した後、旧武田領で勃発した一連の争乱です。

織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。

この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。

この一連の争乱のうち、どの範囲を天正壬午の乱と呼ぶのかについて諸説あるのですが、本稿ではその定義付けは無視して一連の争乱の概略について見ていきたいと思います。 “【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦” の続きを読む

【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、豊臣秀吉の正室「おね」の兄の5男として生まれた豊臣秀吉の義甥です。

幼くして豊臣秀吉・おねの養子となり、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉の後継者候補として大事に育てられたのですが、文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が誕生したことにより人生が一変するという数奇な人生を歩んだ人物です。

それまでの後継者候補の立場から、新たに正当後継者となった豊臣秀頼の地位を脅かす可能性のある人物として邪魔者扱いされた上、他家(小早川家)に養子に出されてしまった上、その後も、豊臣家から冷遇されたことが、有名な関ヶ原の戦いでの寝返りに繋がっています。

寝返りにより東軍勝利の契機を作ったため、戦後に備前国岡山藩51万石を有することとなったものの、幼い頃からの飲酒によって体を壊し、21歳の若さで死去し、牽制を誇った小早川家を改易させています。 “【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥” の続きを読む

【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く

五十三次として有名な東海道は整備された当初は江戸の日本橋と京の三条大橋との間を繋ぐ街道だったのですが、江戸時代初期に京から大坂まで延伸されて五十七次となっています。

このとき延伸されたのが伏見までの大津街道と伏見から大坂までの京街道の合計約54kmです(なお、大坂と京を結んだ街道については、京側からは京街道、大坂側からは大坂街道と言われました。)。

一般的には京街道とは京へ向かう街道の総称なのですが、そのなかでも後に東海道として延伸された大津街道及び京街道が特に有名ですので、本稿では、この延伸東海道(京街道・大津街道)についてその概略を説明したいとます。 “【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く” の続きを読む

【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)は、三方ヶ原の戦いに勝利しつつも浜松城を攻略しきれなかった武田軍がその攻略を諦めて西進し、奥三河に向かって攻めるに至った攻城戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として元亀4年(1573年)1月から始まり、概ね1ヶ月の攻城戦を経て野田城が武田家に下っています。

もっとも、野田城陥落直後に武田信玄の体調が悪化して死去しておりますので、武田信玄の人生最後の戦いでもあります。

本稿では、この野田城の戦いについて説明していきたいと思いますが、西上作戦の一環として行われていますので、前提を少し長めに紹介した後で野田城の戦いを説明することとします。 “【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い” の続きを読む

【穴山信君(穴山梅雪)】駿河方面の外交官として活躍した武田御一門衆筆頭

穴山信君(あなやまのぶただ )は、甲斐武田家の家臣であった穴山氏7代当主であり御一門衆の筆頭でもあった武将です。

出生後に梅雪斎不白と号したため、穴山梅雪の名の方が知られているかもしれません。

武田信玄時代には、主に駿河方面の外交官として暗躍し、後に武田二十四将の一人に数えられる程の人物でした。

もっとも、武田信玄の死後に武田家を継いだ武田勝頼との関係が悪化し、織田信長の甲州征伐が始まると武田家から出奔して織田方に下ったことにより武田家滅亡のきっかけを作るに至っています。

その後、武田勝頼の死後に武田宗家を継ぐことを許されたのですが、本能寺の変の後に本拠地に戻ろうとする途中で落武者狩りによって命を落としたと言われています。 “【穴山信君(穴山梅雪)】駿河方面の外交官として活躍した武田御一門衆筆頭” の続きを読む

【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、本能寺の変の後の後継者を巡る争いに勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天正10年(1585年)に織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城を廃城して、その代わりとして近江国の国城として築かれた山城です。

徳川家康との間で小牧・長久手の戦いの講和を模索している時期の築城であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されており、八幡山という急峻な山が選地され、戦国期によく見られる城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離構造とされました。

城下には、八幡堀と呼ばれる全長6kmにも及ぶ運河が巡らされ、回船業を営むことができる親浦の一つである八幡浦と共に発展したのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのようにかつての居城であった八幡山城までもが廃城とされました。 “【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城” の続きを読む

【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城

小山城(こやまじょう)は、武田信玄が、徳川家康との密約(大井川より西は徳川領・東は武田領とする約束)を破って大井川西側に攻め込み、そこから遠江国侵攻の橋頭保とする目的で遠江国榛原郡に築かれた平山城です。

密約を破って遠江国へ侵攻する武田家と、それに抗する徳川家との争奪戦の舞台となった城です。

同じ争奪戦が繰り広げられた近くの高天神城や諏訪原城などと比べるとやや知名度が劣るのですが、これらの城とは異なり徳川軍の攻撃では陥落しなかったという実績を残す堅固な城ですので、その詳細について本稿で紹介したいと思います。 “【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城” の続きを読む

【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城

諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国侵攻の兵站基地とするため、天正元年(1573年)に武田勝頼によって遠江国の東端近くの大井川の西側にある牧之原台地の舌状台地の先端部に築かれた戦国山城です。

城内に諏訪大明神を祀ったことからその名が付されました(徳川期に牧野城に改称)。

築城後、遠江国の支配権を巡って争った徳川家康と武田勝頼が争った城であり、徳川家康が獲得した後に三日月堀を巡らした丸馬出が7ヶ所も設けられ、これらが良好な状態で残されていることでも有名です。 “【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城” の続きを読む

【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦

第一次高天神城の戦い(だいいちじたかてんじんじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の最東端拠点であった遠江国・高天神城を攻略した戦いです。

元亀3年(1572年)10月に始まった武田信玄の西上作戦によって領内が蹂躙された徳川家と、その後に武田信玄が死去したことにより家督相続での家内統制に苦慮した武田家との間で繰り広げられた一進一退の攻防戦の1つです。

戦術的に見ると、武田勝頼が大軍を動員して高天神城を攻撃したのに対し、後詰を出せなかった徳川家康・織田信長の威信を大きく下げるという結果をもたらしました。

他方で、戦略的に見ると、遠江国内に拠点を得てしまったがために、この後、高天神城を防衛するために相当の戦力を費やす必要が生じたため、武田家を大きく疲弊させる結果をもたらしています。

本稿は、このように後の武田・徳川・織田の勢力関係に大きな影響をもたらした戦いとなった第一次高天神城の戦いについて、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦” の続きを読む